第八章 再会「3、4」

   3



 暗い夜の帳。月明かりが原付バイクを走らせる僕の影をアスファルトに映す。それを眺めつつ、運転に集中した。

 飛び出してから約三十分。ようやく目的地にたどり着いた。といっても、まだまだ麓で、本当の目的地はこの先にある。

 ここからは、歩きでなければいけない。

 僕は原付バイクを入口のすぐ近くに止めた。

 鞄から懐中電灯を取り出し、電気が点くことを確認すると、再び山に向き直った。

 ――さて、登ろう。



 緩やかな下り坂に慣れたかと思えば、再び上り坂が僕を襲う。

 息が徐々に上がっていき疲労も蓄積されていく。それでも歩みを止めないのは、なぜやまもんがこの山に登ったのか、その理由が知りたいという気持ちが勝っているからだ。

 登ったところで全てがわかるわけがない。それは充分にわかっていた。それでも、登らずにはいられなかった。この山が、やまもんの最期の場所だから。

 この町は駅前といい、河川敷といい、景色があまりにも幼き頃の僕の故郷に酷似している。そして、今は暗くてよく見えないが、この林道の風景もきっと似ているのだろう。

 『大切な約束』をした境内へ通ずるあの道に――

 僕は足取りの間隔を速めた。

 しばらくすると、古く、苔の生えた立札が見えた。それに書かれている内容を確認するために懐中電灯を照らす。


〈この先、崖につき、立ち入り禁止〉


『あの子、山に登ったんですって。それで崖から落ちて……』

 きっとこの先に何かがある。そう予感した。

 僕は立札の注意書きを無視し、先へと足を運ぶ。

 足元を照らしながら慎重に林道を歩いていると、いきなり懐中電灯の光が遠くなった。

 一度深呼吸をし、改めて懐中電灯を照らす。その光は何かを照らすことなく、闇のなかに消えた。

 あと一歩踏み出していれば、おそらく、死んでいただろう。

 ――ここ、だったのか……。

 僕はその場に生えている木にもたれながら、崖の下を覗き見た。

 ――ここで、やまもんが……。

 改めて、やまもんが既にこの世にいないという事実を突きつけられ、僕は顔を覆い、嗚咽を漏らしながら泣いた。



 どれだけ泣いたか、わからない。

 ふと我に返り、辺りを見回した。

 真っ暗とは、このことをいうのだな。

 元々静かな場所だとは思うが、深夜ということもあり、一層静寂が目立った。

 スマートフォンで時刻を確認すると、既に午前四時をまわっていた。飛び出してから三時間は経っている。

 ――帰ろう。

 僕は立ち上がった。

 そのときだった。

 突然、懐中電灯の明かりが消えた。

「え?」

 あまりに突然なことで、僕は慌てた。

 大丈夫だ。こんなこともあろうかと予備の電池を持ってきているはず。

 僕はそばに置いてある鞄に手をかけようとしたが、慌てていたせいか手元が狂い、予備の電池を崖に落としてしまった。そして、落ちていく電池をとろうとした僕の身体は意図せぬ方向へ引っ張られた。

 瞬時に何が起こったかを理解した。

 落ちている感覚を、はっきり感じた。

 ――ああ、そうか。僕は、死ぬんだ。

 それでもいいと思った。やまもんと、誰よりも愛した大切な人と同じ場所で死ねるのならと思った。

 僕は目を瞑り、抵抗を一つもせず、重力の法則とやらに身を任せた。

 やっと、逢えるね、やまもん。

「だめだよ!」

 突然、聞き慣れた、懐かしい声が静寂をかき消した。

 僕は咄嗟に手を伸ばした。

 温もりを感じる。

「死んじゃだめだよ! 陽ちゃん!」

 これは幻覚なのだろうか。それとも夢なのだろうか。やまもんが僕の手を掴んで必死に引き上げようとしているのが見えた。

「陽ちゃん! 陽ちゃん!」

 やまもんが必死に僕の名を呼びながら、僕の身体を引き上げようと懸命な顔をしている。

「死んじゃだめだよ!」

「……僕は、君を裏切ったんだ! 傷つけたんだ! だから――」

「馬鹿なこと言わないで! 裏切りが何? 傷つけたから何だっていうの? 前も言ったじゃない! 私はもう陽ちゃんを赦してる!」

『私は既にあなたを赦しています』

 以前、やまもんに言われた言葉が脳裏によみがえる。

「……それでも、僕は――」

「だからいつまでも泣き虫陽ちゃんのままなんだよ! 笑え! 笑えよ! 私の分まで生きてみろよ! 幸せになれよ!」

 僕の言葉を遮り、やまもんが言葉を、思いを羅列する。

「でも、そんな資格なんて、僕には――」

「資格なんて、最初から誰も持ってないよ! それを補い合うのが家族だったり、親友だったり、友人だったり、恋人だったりするんだよ! 私達の関係は恋人同士でしょう? 違うの?」

「……でも――」

「いいから黙って上がって来いよ! 後ろ向きな言葉ばっかり並べて自分を守ろうとするな!」

 やまもんが涙を流しながら言った。僕はそれに応えるように、渾身の力を振り絞った。



   4



 目を開けると既に夜が明けており、僕はもたれていた木の下で横になっていた。

 ――僕は、助かったのだろうか。

 現状を把握するために辺りを見回した。

 泥だらけになってしまった鞄が無造作に木の根元に置かれている。

 スマートフォンの充電は切れている。

 はあと溜息をつき、帰ろうと立ち上がった。

 そのとき「陽ちゃん」と頭上から声がした。その声を忘れるわけがない。

「やまもん、なのか?」

 声がした方へ振り返ると、目の前にやまもんがいた。

「やまもん!」

 僕はやまもんは抱き締めた。

「逢いたかったよ、陽ちゃん!」

「僕も、僕もやまもんに逢いたかったよ!」

 僕は抱き締める力を一層強くした。

「ちょ、痛いよ」

「でも、死んじゃったのに、なんでやまもんがここにいるの? 身体だって、触れられるし」

 僕の感じた疑問に対し、やまもんは優しく言った。

「想いの強さがね、私に力をくれたんだ。私の想いと、陽ちゃんの想いが」

「想いの強さ、か」

 やまもんの声が、温もりが、僕の心を温かくしていく。

「本当に、また逢えて良かった。って、夢のなかでたくさん逢ってたけどね」

 やまもんが悪戯っぽく微笑む。

「陽ちゃん、全然気づいてくれなかったね」

 僕はその言葉に少し戸惑った。

「だって、反則だよ。成長した姿で現れるなんて」

 本当に反則だ。初めて彼女の夢を見たとき、正直僕は一目惚れしかけていた。

 中学時代のやまもんの姿が、僕が最後に見た姿だ。

 そこに拍車がかかるように可愛くなっていた。本当に、反則だ。

「ふふ、幽霊だって成長するんだよ」

 やまもんがガッツポーズをしながら得意げに言った。

「それにしても、陽ちゃん」

「ん? なに?」

「この、浮気者」

 やまもんが悪戯っぽく笑いながら言った。

「浮気者って、どういうことだよ」

「だって陽ちゃん、私じゃない私に浮気した。だから浮気者だよ」

 ふふんと鼻を鳴らしながらやまもんが笑う。

「そんな無茶苦茶な」

 と言っても、その通りだと思う。

「でも、嬉しかったよ。あのとき、私の好意を受け入れてくれて」

「その後は悲惨だったけどね」

 僕は肩を落とし、俯く。

「はいはい、そんな顔しないの」

 やまもんが僕を励ます。

「ごめん」

「はいはい、謝るのも禁止」

 やまもんは僕の頭をぽんと手を置き、撫でた。

「それにしても、どうして夢のなかに、現れたんだ?」

 それが僕の一番の疑問だった。やまもんはそんな僕の疑問に対し、優しく微笑みながら話す。

「夢を通して、陽ちゃんに私の想いを伝えたかった。陽ちゃんを変えてあげたかった。自分の幸せを掴んでほしかった。私が足枷になって、陽ちゃんが陽ちゃんの幸せを得られないのが嫌だった。私がこの世に残した唯一の未練だったのかもしれない。前に言ったよね?『既に私はあなたを赦しています』って。赦すもなにも、最初から怒ってなんかなかったよ」

 やまもんはそこまで言うと一呼吸置き、再び言った。

「でも、陽ちゃん、夢にどっぷり浸かっちゃいそうだったから。だから、あのとき、私は陽ちゃんから離れることに決めたの」

『私はもう、あなたの夢には現れません』

 夢のなかでやまもんが言った言葉を思い出す。

「後ろ向きになるのは簡単だよ。でも前向きになるのは難しい。だけど陽ちゃんならできる。だって、陽ちゃんの陽は太陽の陽なんだから」

 やまもんの言葉一つ一つが僕の涙腺を良い意味で刺激する。涙が、溢れて止まらない。

「ハンカチ、いる?」

「いらない」

「それは、どうして?」

 やまもんが僕に尋ねる。彼女が欲しがっている答えを僕ははっきり答えた。

「嬉し涙は、強いからだよ」

「はい、正解!」

 やまもんは親指を立てた。

「グッド!」

「はは」

 僕は声を上げて笑った。

「な、なによ急に」

 やまもんが困惑した表情をする。

「だって、やまもん、変わってないんだもん」

「なんかそれ駄洒落みたい、やまもん変わってないんだもん」

「やめて、笑わせないで」

 僕は腹を抱えた。

 笑いがおさまってから、僕は日記を読んだことやまもんに打ち明ける。

「なんで勝手に読むかなあ」

 やまもんは頭を掻き、照れながら言った。

「――私が陽ちゃんのこと、どれだけ好きかばれるじゃない」

「大丈夫。それ以上に僕はやまもんのことが大好きだから」

「えへへ」

 やまもんは照れ笑いをした。

「これでもう、思い残すことないかな」

「え?」

「もう未練、ないから。陽ちゃんに伝えたいこと、もう、全部伝えたから」

 やまもんが少し寂しそうな表情をしながら言った。

「あ、でも」

 やまもんが思い出したように言う。

「せめて、また川で遊びたかったな」

 そんなやまもんの表情を見て、僕は考える前に言葉を発した。

「連れていってやるよ」

「――え?」

「連れていってやるから、だから、まだ消えないでくれよ」

「まったくもう」

 やまもんはふくれっ面をした。

「そんなこと言われたら、まだ成仏するわけにはいかないじゃん」

「一緒に、帰ろう。僕らの故郷に」

 僕はやまもんの目を真っ直ぐ見つめながら言った。

「うん、帰ろう。それとさ」

 やまもんが言葉をつなげる。

「……助けるとき、怒鳴ってごめんね」

「そのおかげで、僕は大切なことに気づけたよ」

 僕は微笑みながらやまもんの頭を撫でた。

「また逢いにきてくれて、ありがとう」

 ――本当に、ありがとう。

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