第18話

 だが、地下駐車場から頭を出して、俺はすぐに後悔した。いや、覚悟はしていた。それでも現実を眼前に晒され、五感を刺激されることで、俺は恐れをなしたのだ。

 

 まず目に入ったのは、道路を埋め尽くす瓦礫の山だった。コンクリートとガラスの混ざった雪崩が起きたかのようだ。アスファルトは熱でめくり上がり、排水管がねじられて水飛沫を上げている。

 この鼻を突く異臭。ガス管もまた破損して、中身が漏れているのだろう。味覚まで変になりそうだ。

 聞こえてくるのは、怪獣の足音と建物の倒壊音。その強靭な足はコクリートを軽々と踏み抜いていく。そして尾は、まるでゴミを掃くかのようにザラザラと地面をならし、気ままに揺れている。時折、ビルの側面を打ちつけ、コンクリートの雨を降らせる。当の本人は全く意に介していないだろうが。

 それに、この熱波。俺の身体にまとわりつくような熱だ。先ほどからの爆風や、怪獣そのものの体温で気温が異常なほどに上がっている。


 俺はこうして、周囲の状況を子細に分析した。怪獣は、より内陸に進んでいくだろう。ここが再び戦場になる可能性は極めて低い。問題は、これ以上の怪獣の進行阻止。そして住民の一刻も早い避難誘導だ。ECMが仕掛けられている状況で、どれだけの行動が取れるかは怪しいところだが。


 そこまで考えて、俺は自分がひどく狼狽えていることをようやく自覚した。

 これほど酷い状況での、民間人の惨状。それが目に焼きつき、耳に捻じ込まれ、身体の芯からの震えとなって襲ってくる。


 倒壊した建物から伸ばされた、血に染まった腕。

 頭部をすり潰された状態の、無惨な上半身。

 あちこちで響き渡る、助けを求める悲鳴。


 俺は目標の背から目を逸らし、その場で一回転した。


「ここは、地獄だ」


 唇の隙間から、その音だけが零れ落ちる。そう、まさしくここは、怪獣によってもたらされた地獄なのだ。

 

 全身の神経が、熱に浮かされている。まともな思考ができない。

 ただ思うことは、目の前の民間人を救出することだ。


《おい石津! 特科の第二射、発射まで十五秒だぞ!》


 俺は歩み出した。瓦礫の山へ。そこから上半身だけを覗かせた、幼い男の子の元へ。


《聞こえているんだろう、石津? おい、石津少佐!》


 そっと男の子の手を取る。脈はあるようだ。まだ助けられる見込みはある。


《弾着二十秒を切った! もし砲撃に巻き込まれたくなければ――》


 俺は男の子の腰を圧迫している瓦礫を、なんとかどかそうとした。そして、見てしまった。

 男の子を守ろうとして無惨な肉塊と成り果てた、母親と思しき女性の姿を。


「う、あ、うあ」


 堪らずに後ずさりする俺。口に手を当て、込み上げてきた胃液を必死に押し戻す。


《弾着十秒! 速やかにその場から退避――》


 その後、俺は絶叫していたのだと思う。

『現実』――それが残した残酷さに恐怖して。その重大さに飲み込まれて。自分の無力さに打ちのめされて。


 これが、柘植忠司博士が俺に見せたかったものなのか? こんな凄惨な情景を? どうして俺に――というところまでは、思考が回らなかった。俺の身体は爆風で数メートルほど吹き飛ばされ、何かに頭をぶつけて、強制的に思考は断絶された。


         ※


 俺がうっすらと目を開けた時、同時に俺は、自分が清潔な場所に寝かされていることに気づいた。しかし、周囲はやたらと騒がしい。日は既に落ちかけ、この建物の窓を通して長い影を作っている。

 俺は誰にともなく呟いた。


「ここ、は……」

「あっ、石津少佐!」


 誰かが答える。そちらに首を回すと、菱井少尉が駆け寄ってくるところだった。俺のそばにしゃがみ込む。


「君か、菱井少尉。怪我はないか?」


 すると少尉は、俯いて『はい』と一言。そうか。あの輸送ヘリは、無事彼女を戦闘空域から脱出させてくれたのだ。

 しかし、彼女の顔色は優れない。


「どうした?」


 尋ねたいことはたくさんあったが、まずは少尉の言葉を促すことにした。


「石津少佐は、あれだけの砲撃や空爆の最中でも、民間人を救出しようとしていたんですよね」

「ああ……」


 と言いかけて、俺の脳裏に、怪獣が通過した後の悲惨な光景がよぎった。


「う、うわあっ!」

「少佐!? どうされたんですか!?」


 心配げに伸ばされた少尉の手を振り払うようにして、俺は自分の頭部を抱え込み、左右に振った。それから勢いよく立ち上がり、叫んだ。


「全員ここから退避しろ! 奴が! 怪獣が襲ってくるぞ!」


 だが、その声は思いの外広まらなかった。周囲は喧噪に満ちていたのだ。あたりには負傷者や遺体が並べられ、ところどころに鮮血が広がっている。凄まじいまでの鉄臭さだった。


「み、皆!」

「少佐!」


 正面から少尉が俺の両肩に掌を載せてくる。


「ここは怪獣上陸地点から最寄の病院です。怪獣は現在、防衛軍と第一戦車大隊の混成部隊が迎撃中です。指揮は羽崎中佐が引き続いて――」


 だが俺は今、それどころではなかった。


「でも特科の攻撃が! 空爆が来るぞ!」

「だから戦車隊が展開中です! 住民の避難は完了しています!」

「また襲ってくるぞ、奴は! 皆、荷物を捨てて早くここから逃げろ!」

「落ち着いてください、少佐!」


 言うが早いか、少尉はパシン、と俺の頬を張った。痛くはなかったが、俺の脳内の混乱を鎮めるには適切だった。


「ほら! これでも飲んで!」


 差し出されたのは、いつもの缶コーヒーだった。


「ああ……」


 俺は特大のため息をつきながら、少尉から得た情報を整理し、それを基に推測した。


 俺は救助活動中に空爆の煽りを受け、吹き飛ばされて気絶。そしてこの病院に、民間人と共に運び込まれて、菱井少尉は俺を回収しに来た。そんなところだろう。


「少佐、汗が……」


 少尉は医療キットからガーゼを取り出し、ピンセットでその端をつまんで俺の額に当てた。


「少尉、今俺の身体はどうなってる? 四肢はどうだ? なんともないか?」

「はい。軽く後頭部を打ったようですが、後遺症は残らないとのことです」

「そうか」


 俺は少尉の横を無理やり通り抜け、寝かされている負傷者たちを跨ぎながら、外に出ようとした。早く防衛軍本部に戻らなければ。


「ちょっ、待ってください、少佐!」

「なんだ、少尉! これ以上、羽崎中佐に指揮を任せてはいられないだろうが!」

「駄目です! 指揮系統が混乱します!」


 はっとした。そうだ、少尉の言う通りだ。一つの作戦を、複数の指揮官が随時案を出し合って進めることはあっても、その面々がまるっきり変わってしまうということはあり得ない。現在の状況を知らない俺が、どうして指揮権を横取りできるだろう。

 しかし、こちらにも『俺しか知らない状況』というものがある。それを凝縮したのが、この病院の惨状だ。

 作戦開始時の連絡が上手くいかなかったがために、民間人の被害者が増えた。なんとか通信が回復したのであれば、司令部はもっと現場の兵士の意見に耳を傾けるべきだ。


 とは言うものの、少尉の言葉は正しい。現場と司令部の間に情報格差がある以上、作戦決行の中枢は司令部にある。

 もし俺が、少尉と共に帰還していたら? 俺は民間人犠牲者の増加を防ぐために攻撃を躊躇っただろうか?

 恐らく、答えはNOだ。理由は簡単。現場の状況が分からないから。

 羽崎中佐は元・海上自衛官だし、陸上での悲惨な光景を見ずに司令官の席に着いたのだろう。まあ、俺も他人のことをとやかく言える筋合いではないが。


 だが、今は違う。筋合いがないというのは、最早過去形だ。住民の避難の優先度を上げるべきである。それが、俺の心にたった今、否、ようやく刷り込まれた。


「石津少佐?」


 心配げに俺の顔を覗き込んでくる少尉。


「すまない。考え事をしていた。俺がぶつけたのは頭だけか?」

「はい。お身体の方は、掠り傷が散見されるくらいだそうです」


 俺はルーティンとして、両頬を両の掌でパチンと叩いた。


「よし。菱井少尉、行ったり来たりで申し訳ないが、私は防衛軍司令部に戻る。ヘリを一機、寄越してもらえるか?」


 俺の顔つきが変わったのを見て取ったのか、少尉は踵を揃えた。


「はッ。ECMは解除された模様です」

「では戻ろう。引き続き、指揮は羽崎中佐に任せる」

「了解。では、ヘリを病院屋上へ呼びつけます」


 俺は無言で頷いた。


         ※


 屋上のヘリポートに出ると、周囲の惨状が実によく見渡せた。海岸から一直線に、陸地内部まで瓦礫の山が続いている。耳を澄ませると、微かに雷雲の轟きのようなものが聞こえた。陸上部隊が戦闘中なのだろう。陣地変換を繰り返して目標を攪乱しなければ、あっという間にやられてしまう。


 大丈夫なんだろうな、羽崎中佐。

 そんなことを胸中で呟きつつ、俺は菱井少尉と共にヘリの到着を待った。

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