十一章

「がっ……ぅ、は……あ…………」



 ……無理だった。俺には、姫様は殺せなかった。振り下ろした剣は、俺の足に、深々と突き刺さった。痛みのおかげで、ほんの少しだけ正気を取り戻す。誰が……姫様を殺せるものか! 誰が…………。



「…………あなた……」



 姫様が、こちらに歩み寄る。頼む、来ないでくれ……。俺は、もう、誰も殺したくなんかないっ!



「――…………ルアン、なの……?」



 一瞬、頭が真っ白になった。が、すぐに思い直し、大きくかぶりを振る。違う、違う! 俺はもう、ルアンではなくなっている。その名前で呼ばれる権利はもうない。恩を仇で返した、こんな俺なんて、存在しないも同然。その方がずっとずっと楽なのだ。これ以上姫様を苦しませるくらいならば、いっそ、死んでしまった方が……。

 足から剣を引き抜き、身体に……その前に、俺の黒い手に、姫様のあたたかな手が触れた。



「……剣を、放して…………」



 頭がYESという前に、身体が、剣を手放した。どこか乾いた金属音が響く。からだから、どんどん力が抜けていく。姫様が触れたところから、ぬくもりが、体の芯まで伝わって、凍った俺を、ひたすらに優しく、溶かしていく。

 手に、人の色が戻る。ぬくもりが返ってくる。あんなに小さかった世界は、燃やし尽くされていた。姫様との、思い出、それそのものだった街……。煤まみれになり、それでもなお燃え続ける炎を見て、俺は、また人として、涙を流すことか出来たのだ。



「……ほら、やっぱりルアンだった」



 どうして気がついた? いや、それよりも、どうしてこんなに優しくしてくれるんだ。俺は……俺と、父さんと、姫様が、必死に守ってきたものを、一瞬にして破壊し、燃き尽くしたのだ。優しくなんて、されたくない。



「…………申し訳、ございません……」


「…………」


「私は…………――」



 そこまで言って、何かがプツリと切れたように、泣き叫んだ。止めることなど、出来やしない。失った街、山、海、そして、たくさんの人々……。その亡霊たちが、牙を剥いて襲いかかってくる。それが、あまりにも恐ろしくて、泣いていたのだ。あくまでも利己的な涙だ。あまりにも、弱い涙だ。



「……ねぇ、何があったのか、話して?」



 ひたすらに優しく、姫様は語りかけた。



「ルアンのことだもん。理由があるんでしょ?」



 姫様の、絶対の信頼に、また恐怖を感じる。違う、違う……。俺はもう、姫様の近くにいる資格はない。



「……いけません。私を、その名で呼ばないでください……。父さんから継いだその名で、呼ばないでください! 言い訳など、するわけには……いかないのです……」


「許そうなんて思ってない! でも……お願い、信じさせて……!」



 信じてもらうことなんて……。俺は、何一つ、守り抜くことが出来なかった。姫様も、ゆり様も、父さんも、この街も……。



「止めてください……。もう、私は」


「ルアン! ……お願い、何があったのか教えて? そうじゃないと、私はもう、誰も信じられない……」



 ――それで、いいのだ。

 差しのべられた手を、俺は拒絶した。決して姫様と眼を合わせようとせず、ただひたすらに、嫌われようとした。



「もう、止めてください」


「止めないよ。だってルアンは」


「止めろっつってんだよ!」


「…………!」



 初めて、姫様の態度が怯む。その隙をついて、俺は自分勝手に呪詛を吐いた。もういらない。そんな優しさは……もう、いらない。俺が俺でいる理由はもう、ない。



「俺は、結局、こんなにもちっぽけでボロボロで役立たずの不良品だったんだよ! 姫様に拾われて、父さんに救われて、それでなにか変わったか!? なにか少しでも、俺は変わってるのか!?」



 変わってなんか、いやしない。俺は何も変わってない。姫様の優しさに触れても、誰かに優しくなんて出来なかった。父さんの勇敢さに触れても、肝心なときに、足は動かなくなった。助けられてばっかりで、そんな弱い俺の心に、あいつは、悠真はつけこんだんだ。



「ここに来て、この景色を見て、何か一つでも思い出すことが出来たか!? 何か一つでも、救うことか出来たか!? たった一つだって、俺は救えなかった。そうだよ、壊してばっかりだ! 手に入れた力を、守るために使えば良かっただろうが! あいつをどうにかだって出来たかもしれない! でも、そうしなかった。なぜか!?」



 目の前にいたんだ。手を伸ばせば届いたんだ。あの薬が効き始めたとき、まだ目の前には悠真がいた。苦しむ俺を見て笑っていた。悠真さえ何とかしてしまえば、ゆり様のことは助けられたかもしれない。でも、そうしなかった。そんな考えすら思い至らなかった。



「――俺は、ただ恐れた」



 そう、怖かっただけなのだ。失敗して、お前のせいだと指を指され、嘲笑われ、また一人になるのが辛かった。それだけなのだ。それだけの理由で、この街を壊した。

 街を破壊しないなんて選択肢、そのときの俺にはなかった。



「最初っから最後まで、俺は俺のことしか考えてなかった! 姫様のためだ? ゆり様のためだ? ……どの口が言う! 俺は人のためになんて行動したことはたったの一度だってなかった! あの洪水ときだって、俺は父さんに笑いかけてほしかっただけなんだ。あぁ、きっとそうに違いないさ。だって、こんなクズみたいな俺が考えるのなんて、その程度だろうよ!」



 足の痛みなんて、ほんの少しも気にならなかった。剣を杖の代わりにしてよろよろと立ち上がり、その剣を放り投げた。重たすぎたその剣は5メートルくらいしかとばずに、カン、カンと、乾いた音をたてて転がった。



「……俺は、俺には、あの剣を握る資格なんてない。ここにいる資格なんてない。そもそも、スキルもなにも持たない俺が、生きていることすら、本当は許されなかったんだ。きっと俺は呪われているんだ。そうでなきゃ、俺は、もっとましだったかもしれない。……いや、そんなこと、ないか」



 たとえ、スキルがあったとしても、父さんほどの技術を持っていたとしても、誰よりも誰よりも優秀で、この国唯一と言われるほどの天才だったとしても、俺の性根はなんにも変わらない。俺は、どうせ俺は、同じように殺され、どこかに飛ばされ、薬を盛られ、同じように、故郷を滅ぼす怪物になるのだろう。



「俺は……俺が、心底嫌いだよ。少し出来たからって思い上がって、他人を巻き込んで失敗して、自分は逃げて、責任を逃れようとだってしていた。誰かに愛されてるって実感する度に、身を引き裂かれるような激痛に襲われるんだ。この血にまみれた手は、もう償いようがない!」



 自分の両手を、きつくきつく、握りしめた。この手は、本当は、誰かを守るためにあるもののはずだった。でも、結果としては世界を滅ぼした。俺は、自分自身の使い道すら忘れてしまったのだ。自分のことを忘れた人間なんて、救われるだけの価値がない。



「こんな…………こんなどうしようもない俺なんだ。剣を握る資格どころか、生きる資格だってありゃしない! 生きていたって、他人に迷惑をかけるだけの迷惑な存在だ! こんな人間がいたって、誰一人幸せになんてなれない! 姫様の幸せも、父さんの幸せも、ゆり様の幸せも! 全部、全部俺が奪ったんだ! いっそ死んでしまえ! 殺してしまえ! こんなゴミクズ同然の俺なんて、殺してしまえっ!」



 俺なんて、もうどうしようもない。この街だって、俺さえいなければ壊れずにすんだのだ。俺がいたから、姫様は……ゆり様は……。

 …………姫様は、そんな俺を見て、深く息をついた。これだけの醜態をさらしたんだ。当然の反応だろう。



「……ルアン、私は、ルアンのこと、好きだったよ…………?」


「だからなんだって言うんだ。俺は今、これだけのことをした。こんな人間をまだ、好きだなんてふざけたこと言うのかよ。ほら、こんだけ暴言を吐いたんだ。これが俺の本性さ。これが俺だ! 名無しの、役立たずの、ゴミクズのなれの果てさ。俺はこの程度なんだよ!」


「…………私は、ルアンのしたことを、絶対に許さない」



 ……それでいい、それが正しい。俺は罪人だ。それも、重大な罪を犯した死刑囚だ。さっさと殺してくれ。……これだけ、必死に嫌われようとしているだ。頼むから、見放してくれ。

 それでも――



「ルアンが――自分の『命』を否定したことだけは、絶対に許さない」



 姫様は、俺の心も、身体も、殺してはくれなかった。



◈◈◈◈◈◈◈◈◈◈◈◈◈◈◈◈◈◈◈◈◈◈◈



 ……気分は、最悪だった。簡単に例えるものが見つけられないほど、最悪な気分だった。俺が真っ向から否定した自分の『生の意味』を、姫様は遠回しに、真っ向から肯定したのだ。



「だって、ここでルアンのことを許したら、またルアンに逃げ道を与えることになっちゃうでしょ?」



 その理由を、静かに姫様は俺に告げる。逃げ道……。死ぬことか? それが逃げだと言うのは俺自身分かっていなかった訳ではない。でも、どうしたってそうするしかないのだ。償うべきものが多すぎて、生きた俺の身体では受け止めきれないのだ。



「……ルアンが今しなきゃいけないことが何か、分かる?」


「そんなの……俺がやるべきことなんて、罪を償うことしか……死ぬ、くらいしか」


「違うよ」



 姫様は、どこまでも、俺の『生の意味』を肯定し続けた。



「ルアンが殺した人にたいして出来る、一番の償いって、なんだか分かる? ……そこまでしても守らなければなかった『なにか』を、守ることだよ?」


「今から何かしたって遅いんだ! もうとっくに、すべて終わらせたんだ! 俺が! 俺の手で! 俺にはもう、持つべき希望なんてない! 見るべき未来なんてない! 俺が、この世界にいる理由なんてない!」


「ルアンは何一つ見えていない!」



 はっとした。姫様が初めて、声を荒らげたのだ。それに驚いてうつむいた顔をあげると、姫様は俺のことを真っ直ぐに見て、逃がそうとしなかった。

 ……姫様が、俺の汚い呪詛を聞いて、どんなことを思うかなんて、簡単に想像できたはずなのに…………。



「……ううん、違う。ルアンは見えていないんじゃなくて、見ようとしていないだけ。本当に大事なものから、ずっと眼を背けている」



 俺が眼を背けてきたもの。見ようとせず、背を向けて、逃げてきたもの――。本当は、なんのことだか、しっかりと分かっていた。



「ルアンは、血にまみれた過去と、果てのない闇におおわれた未来しか見ていない。――目の前を見ていない。今、この時を見ていない!」



 しかし、今を見たところで、過去は変わらない。過去が過去で、変わらずにあり続ける以上、今どうしたって、未来を変えることは出来ないのだ。



「今、何かをしたって、何の意味もない。過去は変わらないし、未来を変える力もない」


「…………バカじゃないの?

 ――今は、もう過去になっていってるんだよ?」



 …………。


 ………………。


 ……………………え。


 ――今は、もう過去になっていってる?



「私がルアンに話したその一秒後、もうその瞬間は過去になる。過去はそうやって、どんどん、どんどん形を変えていく。過去は――変わってるんだよ、ルアン。

 あのとき、私がルアンを助けていなかったら? ルアンが私を置き去りにしていたら? レオが……街を見捨てていたら?」



 俺は寒さで死に、姫様はスキルの副作用に一人で苦しみ、街は、俺が壊すまでもなく、壊滅していただろう。



「目の前だけを見て、その敵に立ち向かっていけば、過去も、未来も、いいものに変えられる! そんなことも分からないの? 第一勇者なのに……。

 ――…………正義の味方だったのに!」



 俺は口を開いたが、姫様は、反論の時間を与えてはくれなかった。



「過去はどんどん更新されていく。古い過去の上に、新しい過去が積み重なる。過去が変われば、未来も変わる。

 今が過去に変わって、その過去が未来を創るなら――――今を見るしかないんだよ、ルアン。少しでも償いをしたいなら、今を見るしかないんだよ!」


「――――」



 何もかもが、嫌だった。嫌いだった。

 でも、何よりも、自分が嫌いだった。

 自分勝手で、臆病で、弱くて、強がりで、意地汚くて、たちが悪くて……。


 ――でも、



「今、目の前にいるのは、誰?」


「…………ひめ……さ、ま……」


「うん、そう私。フワリリー家の姫にして、あなたの名付け親である私。そうでしょ?」



 ……柔らかく微笑みかけるその笑顔は、それでも、俺を許そうとなんて微塵も考えていなかった。そんな厳しくて真っ直ぐな瞳に見つめられて……俺も、それ相応に、姫様と向き合うべきだと思ったから。



「……結局、なにも出来なかった」


「…………」


「俺は、勇者として、何一つ成し遂げることが出来なかった」


「…………」


「……でも」



 俺は、今、目の前に立つ、たった一人の少女の前に、跪いた。



「…………私には、一人で生きていく自信は、ありません。今このときを見据えるのも、恐ろしいです。だから……」



 そして、その瞳を、真っ直ぐに見た。



「私が先へ進む、手助けをしてください。これからどうすればいいのか、私一人では分かりません、だから――」



 …………姫様は、俺が投げた剣を拾い上げ、そっと、俺に差し出した。



「……まだ、第一勇者としての仕事は残ってるからね。――ルアン・サナック」

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