第196話 スリップストリーム
見下ろすサーキットで、ついに勝負が始まった。
僕達「卒業までに彼女作る部」の部員は、ピットの上の観覧台からその勝負を見守っている。
いつになく不安そうな千木良が僕の服の裾を引っ張るから、抱っこしてあげた。
千木良は僕にひしと抱きつく。
朝比奈さんと綾駒さん、滝頭さんも心配なのか、僕にくっついてきた。
朝比奈さんと綾駒さんが僕の両腕を取って、滝頭さんが僕の背中に両手をつける。
広いサーキットなのに、僕達は一カ所に固まっていた。
厳しい表情でコースを見ている柏原さんだけは、観覧台の手すりに張りつくようにしてたけど。
山々の間に、二台のスカイラインの甲高い排気音がこだました。
僕達の後でこのサーキットを使う人達も集まってきて、コース脇からこの勝負を興味深そうに見ている。
先行するお父さんの車に、我が「卒業までに彼女作る部」号は、必死に食いついた。
直線では車と車のあいだが三十メートルくらいに広がるけど、コーナーに差し掛かると二台がくっつくくらいの距離に縮まる。
次の直線で距離が開いて、またコーナーでくっついた。
二台はそんなことを繰り返す。
激しい勝負でタイヤがキュルキュルと悲鳴を上げた。
辺りにタイヤが焦げる匂いが立ちこめる。
盛り上がったギャラリー達が、腕を突き上げて声援を送った。
しばらくすると、二台のスカイラインは、コースの上でシンクロでもするかように走り出す。
先生がお父さん車の挙動をなぞって、お父さんのラインを完璧にトレースした。
お父さんはそれに負けじと、さらに厳しくコーナーを攻める。
走りながら、うらら子先生の運転技術がどんどん上がっていくのが分かった。
競走してるっていうより、コースの上で二台の車がダンスしているように見える。
「
柏原さんが言った。
確かに、タイムの上では一周で三十秒くらい差がつくはずなのに、二台の距離は全く開かない。
それどころか、確実に縮まっている。
いくら先生の運転が上手くなったとはいえ、元レーサーのお父さんの運転技術に敵うわけがなかった。
それに、単純に、エンジンも足回りも、お父さんの車の方が完成度が高いし。
「畜生、親父の奴、手加減なんかして」
柏原さんが下唇を噛んだ。
手加減するってことは、お父さんがこの勝負に真剣じゃないってことか、それとも、柏原さんに工場を継がせたいってことか、どっちにしても、真剣に取り組んだ柏原さんにとっては
柏原さんは、勝つなら全力のお父さんに勝ちたかったのだ。
「いえ、手加減なんてしてないわ」
千木良が言った。
千木良は、手にしていたストップウォッチを柏原さんに見せる。
ストップウォッチに刻まれた一周のラップタイムは、1分02秒48。
お父さんは、自身のベストタイムを更新するペースで走っている。
柏原さんのお父さんに一切の手抜きはなかった。
「ってことは、やっぱりうらら子先生が……」
綾駒さんが言いかけて言葉を失った。
目の前の直線で、先生のスカイラインがお父さんのスカイラインに並んだ。
スリップストリームから出て並んだと思ったら、そのまま併走して、第一コーナーのブレーキングで一気に抜き去った。
ギリギリまでブレーキを我慢した先生は、信じられない速さでコーナーに突っ込んでいく。
コーナー外側の縁石からはみ出して、コースの外に敷いてある砂利に車輪を落としたけど、先生はどうにか車を立て直した。
小刻みにカウンターを当てながら、次のコーナーに突っ込んでいく。
まるで、機械のように正確なドライビングだ。
お父さんの車は、先生の車の
僅か五周で先生がお父さんの車を抜いたのだ。
一旦抜いてしまうと、あとはぶっちぎりだった。
先生のスカイラインとお父さんのスカイラインの距離が広がる。
びっくりしたお父さんが走りのペースを乱して、なんでもないコーナーでスピンしそうになった。
一体、なにが起きたのか分からなかった。
だけど、少したって目の前の事態を理解した僕達は、飛び上がって喜ぶ。
「やったー!」
そこにいるみんなで抱き合った。
「やったね!」
「勝ったよ!」
「先輩、やりましたね!」
朝比奈さんと綾駒さん、滝頭さんに千木良、僕はみんなにもみくちゃにされる。
僕もみんなをもみくちゃにした。
柏原さんだけ、信じられないって感じで立ち尽くしてたけど、やがて僕らの歓喜の輪に入れられて、僕と同じようにもみくちゃにされる。
でも、柏原さんは全然納得してないみたいだった。
勝負がついて、二台の車はスピードを緩める。
そのまま、エンジンを冷ますようにゆっくりと走った。
僕達の「卒業までに彼女作る部」号の、ウイニングランだ。
「まあ、当然よね」
歓喜の輪が少し落ち着いたところで千木良が言った。
やっぱり、千木良が何かしてたんだろうか?
千木良が言ってた必勝の秘策が、今ここで発動したのか?
なんだから分からないけど、嬉しいからとりあえずほっぺたすりすりしておく。
「こら! 勝手にすりすりするな!」
千木良は口ではそう言うけど、あんまり抵抗しなかった。
「ふう、やったわね」
うらら子先生も言う。
「先生、やりましたね!」
勢いで、僕はうらら子先生に抱きついてしまった。
先生のほうが背が高いから、僕は先生の胸に顔をうずめるような感じになってしまう。
先生はそんな僕を受け入れてくれて、その懐に抱きしめてくれた。
みんなと抱き合ってるときと違って、先生はしっとりと柔らかいというか、僕の体が吸い込まれていくというか……
これは、大人の抱きしめ方だ。
うらら子先生の腕の中は、僕のすべてを無条件で受け入れてくれる、限りなく優しい空間だった。
先生の胸元からは、やっぱり、ダージリンティーみたいな良い香りがする。
あれ?
でも、先生はドライバーで、今、車の中にいるはずで……
えっ?
えっ!
ええっ!!
先生が乗っているはずの車が、甲高いエンジン音を立てながら僕達の前を通り過ぎていった。
その運転席には、確かにドライバーがいる。
それなのに、僕は、レーシングスーツのうらら子先生に抱きしめられていた。
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