第176話 二人の部屋

「あなた、あなた起きて」

 目が覚めると耳元でそんな声が聞こえた。

 耳をくすぐる優しい声で、ほのかに甘い桃の香りがする。


「ほら、起きないと遅刻しちゃうぞ」

 窓のカーテンが引かれて、朝日が室内を満たした。


 ふかふかの布団の上で、僕は幸せな朝を迎える。


「おはよう」

 僕が言うと、

「おはよう」

 朝比奈さんが、太陽よりもまぶしい笑顔で答えた。



「さあ、顔洗ってきて」

 朝比奈さんに手を引っ張られて、僕は二人のダブルベッドから下りる。


 顔を洗い終えた頃には、ダイニングで朝食が湯気を立てていた。

 朝比奈さんが用意してくれる朝食のメニューは、基本的に日本食のメニューのことが多い。


 それは、僕が日本食のほうがいいって言ったからだ。


 今日の朝食は、炊きたての温かいご飯と、豆腐とわかめの味噌汁。

 納豆とアジのみりん干し。

 卵焼きとほうれん草のおひたし。

 自家製の昆布の佃煮。

 それに、デザートのキウイとヨーグルト。



「いただきます」

 二人でダイニングテーブルに向かい合って朝食をとる。


 ここは僕達のマンションの一室だ。

 朝の忙しい時間に、ここだけゆったりとした時間が流れていた。


「もう、『かおかお』ったら、ほっぺにご飯粒付いてるぞ」

 朝比奈さんが僕の頬からご飯粒をとって、自分で食べてしまった。


 いい大人なのに、ご飯粒付けたりして恥ずかしい。


 ちなみに、「かおかお」っていうのは、朝比奈さんだけが呼ぶ、夫婦の間だけの僕のニックネームだ。

 これはよく、朝比奈さんが僕を子供扱いするときに呼ぶ。




「はい、あなた、お弁当」

 朝ごはんを食べ終えると、朝比奈さんがお弁当箱の包みを渡してくれる。

 ピンクのハート柄の包みは、三段重ねでちょっと重たい。

 これは、愛情の重さなんだと思う。


「あの、花圃かほさん。お弁当に毎回、桜でんぶでハートマークを書くのは…………ちょっと…………」

 お弁当を受け取りながら僕は言ってみる(朝比奈さんは自分のこと「花圃」って呼び捨てにしてほしいって言うけど、僕は「花圃さん」って呼んでいる)。


「ハート書いちゃダメ?」

 朝比奈さんが、上目遣いで、少しねたように僕を見た。


「ううん、僕的には全然ダメじゃないんだけど、職場のみんなに冷やかされるから。結婚して5年目なのに、まだまだアツアツなんですね、とか言われちゃって……」


「でも、いいでしょ? アツアツなのは本当のことなんだから」

 朝比奈が小首を傾げて言った。


「うん、そうだね」

 僕だってべつに、嫌なわけじゃないのだ。




「いってらっしゃい」

 玄関で朝比奈さんがお見送りをしてくれる。


「いってきます」

 そう言って、朝比奈さんのおでこにキスをするのが習慣になっていた。

 この習慣を結婚以来5年間続けてるけど、未だに朝比奈さんにキスをするときは緊張する。



 車に乗って駐車場から出ようとすると、マンションのベランダで、朝比奈さんが手を振ってるのが見えた。

 僕は窓を開けて手を振ってから車を走らせる。


 柏原さんがチューニングしてくれたこの車は、パワーがありすぎるから、運転するとき気を付けないといけない。




 会社に着いた僕は、秘書室の自分の机で今日の予定をチェックする。


「おはよう」

 ほどなくして、僕の上司が顔を出した。


「おはようございます。社長」

 僕はスーツ姿の千木良を迎える。


 ダークグレーのスーツの千木良は、大人っぽくなっても髪型はツインテールのままだった。

 顔は鼻筋がスッと通って、カワイイっていうか、美人になっている。



 高校在学中にこの会社を立ち上げた千木良。

 僕はそこで千木良の秘書をしている。


「今日の予定は、午前中に打ち合わせが一本と、午後から二本、それに取材が二本入ってます」

 僕は今日のスケジュールを説明した。

 僕達に一年遅れて高校を卒業した千木良は、今や若手の起業家として名を成していて、経済誌なんかに取り上げられることも多い。


「はぁ、取材はもう飽きたわ。開発に専念したいのに」

 千木良がため息を吐いた。


「これも会社のためですから」

 僕が言うと、千木良は肩をすくめる。


「それから、我が社のマスコットキャラクターのフィギュアが綾駒さんから届きましたけど、これでいいですか?」

 僕はそれを見せながら千木良に訊いた。


「ええ、かまわないわ」

 一目見て千木良が言う。


 現代アートの作家になった綾駒さんは各方面から引っ張りだこで忙しいのに、このキャラクターを作るのには喜んで協力してくれた。



「さて、今日も一日、頑張ろうかな」

 千木良が言うから、僕は先回りして千木良の椅子に座る。


 椅子に座った僕の膝の上に、千木良がちょこんと乗った。

 僕は千木良のおへその辺りに手を添えて、千木良の体を支える。


 すると千木良はカタカタとキーボードを打ち始めた。


 こうやって仕事中の千木良を見守るのも僕の仕事だ。


 良いタイミングで、千木良の口にキャベツ太郎を放り込むのも忘れない。


 千木良の仕事を邪魔せずに、千木良が欲しいと思ったタイミングでキャベツ太郎を食べさせる技術において、僕の右に出る人はいないと思う。


 だけど、千木良も16歳になって、抱っこするには少し重たくなっていた(16歳になった千木良は、胸のほうもかなり成長してるし)。





「お帰りなさい、あなた」

 仕事を終えて家に帰ると、玄関で微笑みをたたえた朝比奈さんが待っている。


「ただいま」

 僕はそう言ってしばらく朝比奈さんを抱きしめた。

 この瞬間、僕の腕の中にはすべてがあるって感じる。


「あなた、お風呂にしますか? それともご飯にしますか?」

 僕に抱きしめられたままの朝比奈さんが訊いた。


「先にお風呂にしようかな」

 僕は朝比奈さんを抱きしめたままで言う。



 頭を洗って、桃の香りがする入浴剤の湯船に身を沈めていると、

「あなた、お背中流しましょうか?」

 脱衣所からそんな声が聞こえた。


「はい、お願いします」

 僕は裏返った声で言う。

 思わず敬語を使っちゃったし。


 すると、脱衣所で朝比奈さんが服を脱ぐのが分かった。

 それが曇りガラス越しに見える。


 バスルームのドアが開かれた。


 湯気の後ろに、裸の朝比奈さんがいる。


 その姿に、目をらしてたら…………




「ちょっと、あんた何してるの?」

 目の前に仏頂面ぶっちょうづらをした千木良が立っている。

 制服を着た、幼女の千木良だ(胸もちっぱいのまま)。


「もう! お茶が冷めちゃうじゃない」

 千木良がそう言って、僕の手元から湯飲みをぶんどった。

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