第106話 追跡

 夜の闇のなか、僕は香のあとをつけた。

 黒髪をなびかせて、ふわふわと浮かぶように歩く香。

 香の白いワンピースが、月明かりに青白く輝いている。

 森の妖精が、深夜、人目がないのをいいことに、その姿をさらしたみたいだ。



 部室を囲む林を抜けた香は、そのまま校舎の方に向かった。

 渡り廊下の入り口から、堂々と校舎に入る。


 文化祭準備期間の校舎にはたくさんの生徒が残っていた。

 けれど、さすがに深夜二時過ぎともなると、起きてる生徒は少ない。

 みんな教室や部室で雑魚寝したり、廊下に敷いた段ボールの上で横になって眠っていた。

 時々微かな笑い声が聞こえて、廊下の遠く向こうから、突貫とっかん工事の金槌かなづちの音が聞こえるだけで、校舎は静かだった。


 廊下の明かりは落とされていて、所々、教室から漏れる光と、誘導灯が頼りだ。



 香は、校舎の中がどうなってるのか、ある程度知ってるみたいだった。

 前にもここに来たことがあるみたいに歩く。


 僕は香に気付かれないよう、距離をとりながらあとをつけた。

 尾行しながら、香が誰かと出くわさないかドキドキしている。

 何かあったら、すぐにその手を引っ張って部室に連れ戻せるよう、常に構えていた。


 そんな僕の気も知らないで、香は自由奔放ほんぽうだ。


 ふと目についた無人の教室に入って椅子に座ってみたり、机の中に入っている教科書を開いたり、誰かが持ってきたバニーガールのうさ耳をつけてみたり、行動が読めない。

 トイレを覗いたり、水道にぶら下がっている石けんをいじってみたり、無邪気な子供だった。


 生まれたばかりの香には、なにもかもが珍しいのかもしれない。

 こうして校舎を歩き回って、僕達人間のこと、学んでるんだろうか。



 そして、すぐに恐れてたことが起こった。


 階段の登り口で、上から降りてきた男子生徒と、香が顔を合わせたのだ。

 相手は三年生の先輩だと思う。

 その先輩は、白いワンピースの香に、ちょっとびっくりしてるみたいだった。


「朝比奈さん、残ってたんだ」

 先輩が香に話しかける。


 僕は、心臓が飛び出るくらいドキッとした。


「はい、ちょっと、準備があるので……」

 香は普通に答える。

 こんな曖昧あいまいな返事が出来るのは、さすが香だ。

 しかも、相手が上級生ってことで、ちゃんと敬語を使っていた。


「俺も。ほら、うちの部、準備が遅れててさ。大変だよ」

 先輩が香に笑いかける。

「そうなんですね。先輩、がんばってください」

 香が、そう言って微笑みかけた。


「うん、ありがとう」

 香の笑顔を受けて、先輩の表情がぱっと明るくなるのが分かる。

 完全に鼻の下が伸びていた。

 香は、朝比奈さんと同じで、チャームの魔法が使えるらしい。


「それじゃあ」

 結局、先輩は最後までそれが朝比奈さんじゃないってことに気付かなかった。

 香は、完璧に朝比奈さん役をこなした。

 昼間見せた反抗期の香はここにはいない。



「簡単に男を手なずけるなんて、やるわね」

 すぐ後ろから声が聞こえて、僕は思わず、

「ふぁ!」

 って、短く声を出してしまった。

 声を出した僕の口を誰かの手がふさぐ。

 その手の小ささと、背中に触れたちっぱいの感触からすると、これは千木良だ。


 僕はとっさに目の前の教室に逃げ込んだ。


「バカね! 気付かれるでしょ!」

 僕に続いて教室に逃げ込んだ千木良に怒られる。

「バレたらどうするのよ」

 千木良が声を潜めて言った。

「ごめん」

 この場合、突然うしろから声をかけた千木良のほうが圧倒的に悪いと思う。


 階段の登り口にいた香は、一度こっちを振り向いたけど、僕にも千木良にも気付かずに、首を傾げただけだった。


 なんとかバレずに済んだ。



「千木良、どうしたんだ」

 僕は声を潜めて訊いた。


「香が部室を出るのに気付いたから、あとをつけてきたのよ。出て行くのをあえて止めなかったわ。行き先で何をしてるか、知りたかったし」

 千木良が言う。


 パステルグリーンの水玉のパジャマを着ている千木良。

 いつもツインテールにしてる髪を、今は下ろしている。

 そのせいで、千木良の髪は腰の辺りまであった。


「千木良、お腹が出てるぞ」

 千木良のパジャマのズボンがずれて、上着がめくれ上がっている。

 夜中に起きてまだ寝ぼけてるらしい。

 僕は、千木良のズボンを上げてやって、上着のめくれも直した。


「もう、ボタンがずれてるし」

 上着がめくれてたのは、ボタンが一つずつずれてるせいもあったらしい。

 僕がボタンを直してやろうとしたら、

「私は子供じゃないわ、レディよ。ボタンくらい、自分でやるわよ」

 千木良がボタンを外しながら言った。

 一度上着のボタンを全部外して、もう一度上から止め直す千木良。

 レディは、いくら寝ぼけてても、ボタンを間違ったりしないと思うんだけど。


 寝ぼけまなこで一生懸命ボタンを止める千木良を見てたら、なんだか小さい頃の妹の野々を思い出した。

 野々の着替えを手伝うのは、僕の役目だったのだ。


「ほら、口の周りも」

 寝起きで、口の端によだれのあとがついてるから、僕がハンカチで拭いてやる。


「くすぐったいわ」

 僕に口の端を拭かれながら、足をバタバタさせる千木良。


「少し我慢しろ」

 千木良の頭に軽く手を添えて口を拭いた。


 僕に口を拭いてもらってる千木良が、なんだかぽーっとしている。

 暗がりでよく見えないけど、たぶん、ほっぺたを真っ赤にしてると思う。


「どうした? 千木良?」

 僕は訊いた。


「だって、えーと、その、もし私にお兄ちゃんとかいたら、こんな感じなのかなって思って……」

 千木良が、僕から目を逸らして言う。


 一人っ子の千木良には、こんなやり取りが初めてだったらしい。

 千木良の目が、とろんとなっていた。


 僕は、なんだか無性に千木良の頭をなでなでしたくなって、やさしくなでなでする。

 千木良はそれに文句を言わず、受け入れた。


 僕達、夜の教室で、なにしてるんだろう?




「あれ? そういえば香は?」

「えっ?」

 さっき、階段の登り口にいた香が、いつの間にかいなくなっている。


「バカね! あんたが余計なことするから、見失っちゃったじゃない!」

 千木良が言った。


 さっきまで気持ちよさそうに、口を拭いてもらってたくせに。


「探すわよ!」

 千木良と僕、我に返って香を探した。

 夜の校舎を走り回る。


 ところが、廊下の先にも階段の上の階にも、香が見当たらない。

 教室やトイレも見たけど、あんなに目立つワンピース姿の香がどこにもいなかった。

 僕は探す。

 向かいの校舎、カーテンの裏、こんなとこにいるはずもないのに。


 そうして、十五分くらい、千木良と二人で探し回っただろうか?



 きゃーーーーーーーーーーーーー!


 遠くから、女子の叫び声が聞こえた。



 急いで声がした方に向かうと、僕と同じで、ミスター是清学園にエントリーしてる弁論部の佐伯先輩が、目隠しと猿ぐつわをされて、椅子に縛り付けられていた。


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