第105話 心臓

「西脇君、おはよう」

「西脇君、おはよう」


 テントの中で目を覚ますと、目の前に、二人の朝比奈さんがいた。

 うちの学校の制服を着て、ピンクのエプロンをかけた朝比奈さんが二人。

 艶々の黒髪をした朝比奈さんが、確かに二人いる。


「さあ起きて、朝ご飯の支度したく、出来てるよ」

「さあ起きて、朝ご飯の支度、出来てるよ」

 左右から、まったく同じ声が聞こえた。

 僕は別に、寝ぼけてるわけじゃないと思う。

 幻覚を見てるわけでもなかった。


「こら、香ちゃん、真似しないの」

「こら、香ちゃん、真似しないの」

 二人の朝比奈さんが、お互いを見合って言う。


「もう!」

「もう!」

 二人がほぼ同時にほっぺたをふくらませた。

 そんな仕草も、二人いると可愛さが二乗だ。

 左右からステレオで可愛さが襲ってきた。



「朝から香ちゃん、私の真似ばっかりするの。ウイッグも黒いのに変えちゃったし」

「朝から香ちゃん、私の真似ばっかりするの。ウイッグも黒いのに変えちゃったし」

 二人が言ってその黒髪を触った。


 そうだ、朝比奈さんが二人に見えるのは、香が金色のウイッグを脱いだからだ。

 香が金色のウイッグを脱いで黒髪に変えると、もう、朝比奈さんと見分けがつかない。

 それが、二人を見分ける目印だったんだから。


「私が本物の朝比奈花圃かほだよ」

「私が本物の朝比奈花圃だよ」

 二人が同時に言った。


「あれ? 西脇君、私が分からないの?」

「あれ? 西脇君、私が分からないの?」

 二人が、左右から顔を寄せて迫ってくる。


 まずい……ホントに見分けがつかない…………


 二人のこと、くんかくんかしてみたけど、二人とも桃の香りがした。



「ほら、私が本物だよ」

 すると突然、左側にいる一人が、僕の右手を取って自分の左胸に当てる。

 僕の手は、朝比奈さんのおっぱいの上に置かれた。


 ああ、ここが天国か。

 今ここで、神が見えた気がする。


 その胸はすごくドキドキしていた。

 心臓が飛び出しそうな、激しい鼓動が伝わってくる。


 朝比奈さんがそんなことするから、僕の心臓の方も飛び出しそうになった(っていうか、もう、半分飛び出している)。


「ほらね」

 左側の一人が言った。

 香に心臓はないから、こっちが本物の朝比奈さんで間違いない。



「えへへ、バレちゃったね」

 右側にいた一人が言った。

 もちろん、そっちが香だった。


「もう! 香ちゃん、なんでこんなことするの?」

 朝比奈さんが訊くと、

「だって、面白いんだもん」

 香はそう言って、悪戯っぽい笑顔を残してテントの外へ駆けていく。



「香ちゃん、反抗期なのかな?」

 二人残ったテントで朝比奈さんが言った。

「アンドロイドに反抗期ってあるのかな?」

 僕が訊く。

 生後数日だけど、香の成長スピードは速いから、今がその時期なのかもしれない。

「なんだか、人間の子供みたいだね」

 僕と朝比奈さんで笑い合った。


 テントの中で向かい合って、二人で笑う。


「あの、西脇君」

 少しして、朝比奈さんが、もじもじしながら僕を上目遣いで見た。

「なに?」

「そろそろ、ねっ」

「んっ?」

「そろそろ、いいかなって」

「なにが?」


「そろそろ、その手、外してもらっていい?」

「えっ?」


 僕の右手は、さっき朝比奈さんが置いたところにあって、その左胸をつかんだままだった。


「もう、心臓の音はもういいでしょ」

 朝比奈さんが、顔を真っ赤にして言う。


「ごごごごご、ごめんなさい!」

 僕は、光の速さで朝比奈さんの胸から手を放した。

 なんか、心地よい感触で、吸い付くようにくっついていて、手が動かなかったのだ。


「別にいいんだけど……」

 朝比奈さんが言った。


 外してなお、そのえも言われぬ柔らかい感触が手に残っている。

 僕はもう、この手を一生洗わないと思う。





 朝比奈さんが言った反抗期っていうのは、どうやら的を射てたらしい。


 放課後、僕達が部室に帰ってくると、部室は惨憺さんたんたる散らかりようだった。


「香! なんでこんなことするんだ!」

 柏原さんが大きな声を出す。

 部室の玄関に置いてあった柏原さんの工具が、庭に散らばっていた。

 工具箱に仕分けてあったネジやナットが、床に散乱している。


「もう、香ちゃん!」

 居間に飾ってある綾駒さんのフィギュアが倒されていた。

 一部が、お風呂の湯船にぷかぷか浮かんでいる。


「ちょっと! 香! 何するの!」

 コンピュータールームからは、千木良の悲鳴が聞こえた。

 部屋の中を這っていた機器の配線が外されて、めちゃくちゃになっている。

 千木良の主食、キャベツ太郎が、幾つも袋を開けたまま放置されていた。


「こら、香ちゃん!」

 うらら子先生のコスプレ衣装が脱ぎ散らかされている。

 黒や紫色の、僕にはちょっと刺激が強い先生の下着が、縁側に散らばっていた(先生、それ、下着っていうか、ひもなんじゃ……)。


 当の本人は、僕達から逃げてそこら中を走り回って、悪びれた様子がない。

 身体能力が高い香を、柏原さんが追いかけてようやく捕まえた。


「香ちゃん、ダメでしょ?」

 朝比奈さんが優しくさとして、香はようやく落ち着きを取り戻す。


「ごめんなさい」

 しょんぼりした顔で謝る香。


「もう、こんなことしたらダメだぞ」

 柏原さんが、頭を撫でながらその目を覗き込む。

 香は「うん」って素直に頷いた。



 みんなで散らかった部室を片付ける。

 香も手伝って、夕方までにどうにか元に戻した。



 昨日までの成長が、順調すぎたんだろうか?

 完璧にピアノを弾いたり、フルートを吹いたり、もうこのままステージに立たせられるって思ってたのに、これでは振り出しに戻ってしまった。


「おかしいわねえ」

 千木良は、ノートパソコンで香のニューロンの映像を見ながら考え込んでいる。

「こんな反応、見たことないわ」

 天才千木良にして、これは想定外の事態らしい。



 その夜のことだ。


 僕がテントで寝てると、また、サクサクと落ち葉を踏む音で目が覚めた。

 そっとテントの隙間から外を見ると、黒髪で白いワンピースの人影が、庭を歩いている。

 たぶん、香だと思う(朝比奈さんの可能性もあるけど)。

 その、香らしい人影が、林の獣道を抜けて外に出て行こうとしていた。

 僕は声をかけようとして口をつぐんだ。

 昨日の、香のログと監視カメラの映像が消えてたのが、思い出されたのだ。


 僕は、急いで寝袋から這い出してパーカーを羽織り、靴を履いて香のあとをつけた。

 見つからないように、足を忍ばせる。


 千木良がGPSで行動制限してるってことだったけど、香はそんなの関係ないみたいに、普通に林を出て行った。


 そのまま、校舎の方へ向かう香。


 暗闇に、香の純白のワンピースはよく目立った。

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