第100話 鏡
「ほら西脇! 頑張れ、もうちょっとだ!」
柏原さんが僕の背中を押した。
「うん、ありがとう」
僕は息を切らせながら答える。
僕の背中に触れてる柏原さんの手が温かい。
柏原さんからはやっぱり、ココナツオイルみたいな良い香りがする。
この匂いを嗅いでると、なんだか、すごく落ち着く。
僕と柏原さんは早起きして、学校の周りをジョギングをしていた。
早朝の街を二人で走っている。
たぶん、もう五キロくらいは走ったと思う。
通勤時間前の街は静かで、たまに新聞配達のバイクや、散歩しているお爺さんとすれ違う以外、二人きりだった。
僕達で朝の街を独占している。
明けようとしている紫の空は雲一つなくて、今日もいい天気になりそうだ。
「がんばれ、帰れば朝比奈の美味しい朝ご飯が待ってるぞ」
柏原さんがバテた僕を励ましてくれた。
肌寒いのに、短パンにランニング姿の柏原さん。
その
ランニングの脇から黒いスポーツブラが覗くから、僕はなるべく見ないようにした。
息を切らしている僕とは大違いで、柏原さんは少しも呼吸が乱れていない。
僕には苦行でも、柏原さんには準備運動程度なんだろう。
なぜか僕は文化祭のミスターコンテストでに出ることになってしまって、当日まで、こうして柏原さんの特訓を受けることになっている。
テントで寝ていたところを、まだ暗いうちに柏原さんに起こされて、ジョギングに連れ出された。
「本当なら、数ヶ月は一緒にトレーニングして仕上げたいところだけどな」
柏原さんが言う。
アスリートみたいな柏原さんの
「でもまあ、なんにもやらないよりはいいだろ? なにかやっとけば、当日も自信になるだろうし」
柏原さんが、そう言って僕に微笑みかける。
「どうだ? 文化祭の最中といわず、そのあとも、毎朝こうやって一緒にトレーニングしないか? そうすれば、ほら、僕みたいな体になるぞ」
ランニングのお腹の辺りをめくって、六つに割れた腹筋を見せる柏原さん。
柏原さん、ただでさえ薄着でドキドキしてるのに、街角でお
「どうだ? 僕を押し倒せるくらいの体に肉体改造してやるぞ」
柏原さんが悪戯っぽく言う。
柏原さんを押し倒せる体って、どんな体なんだ。
それに、肉体改造っていうワード、なんだかゾクゾクした。
柏原さんに改造されたい、そんなふうに考えている僕がいる。
「うん、考えておく」
僕が答えると、柏原さんは声を上げて笑った。
本気だったのか、それとも僕をからかってただけなんだろうか?
林を抜けて部室に帰ると、庭には味噌汁の香りが漂っていた。
「ごくろうさま。さあ、シャワーで汗流したら、朝ご飯にしよう」
玄関で迎えてくれた朝比奈さんが朝日みたいな笑顔で言う。
「ご飯にしよう!」
隣に香もいて、同じ笑顔をしていた。
早起きした千木良もお手伝いしていて、エプロン姿でちゃぶ台に配膳している(先生と綾駒さんはまだ布団の中だ)。
「どうだ西脇、一緒にシャワー浴びるか?」
柏原さんが僕に訊いた。
柏原さんは、いつも、夢のあることを言ってくれる。
「ううん、僕は柏原さんのあとでいい」
僕は答えた。
こういうとき、
その日の午後、教室から部室に帰ると、部室の居間には電子ピアノが置いてあった。
ピアノの横長の椅子に朝比奈さんと香が座って、鍵盤に手を置いている。
「香ちゃんに、ピアノの弾き方教えてるの」
朝比奈さんが言った。
すべてにおいて完璧な朝比奈さんは、ピアノだって完璧に弾けるのだ。
電子ピアノの
「今日から始めたんだよね」
僕が訊くと、朝比奈さんと香が同時に頷く。
まだ放課後になったばかりだし、初めてピアノを弾くのにもうそこまで進んでるのか。
やっぱり、千木良のAIの成長はすさまじい。
「さあ、それじゃあ、私達は私達ですることしよう」
部室で待っていた綾駒さんが言う。
白いブラウスの上に、ピンクのカーディガンを羽織った綾駒さん。
「僕達は何をするの?」
「私が西脇君をカッコよくしてあげる」
綾駒さんが言って、僕を庭に連れ出した。
庭には丸椅子が一つ置いてある。
「座って」
綾駒さんに指示されて、僕は椅子に座った。
すると、綾駒さんが僕の首にシーツみたいな白い布を巻く。
「さあ、カッコいい髪型にしてあげる」
綾駒さんがハサミを取り出した。
そういえば昨日、朝比奈さんが綾駒さんに僕をカッコ良くするように、って指示してたけど、その一環なんだろう。
「綾駒さん、髪も切れるんだ」
造形の技術だけじゃなくて、散髪が出来る技術まで身に付けてるのか。
我が部の女子達は、やっぱり多才だ。
「うん、ドールの髪とか、よく切るよ」
綾駒さんが言った。
「えっ?」
ド、ドール?
「大丈夫、うちのドール、みんなカワイイから」
綾駒さんがにっこり笑顔を見せる。
「じゃあいくね。じっとしててよ」
綾駒さんはそう言うと、大胆に前髪からハサミを入れた。
ザクッ、って結構いい音がする。
「あっ」
綾駒さんが、そんな声を漏らした。
あっ?
すると綾駒さんは、反対側に回って、そこにハサミを入れる。
ザクッ、って、さっきと同じくらい、いい音がした。
「えっ?」
綾駒さんが、そんな声を漏らす。
えっ?
すると綾駒さんは、さっき切った方に戻って、そこにもう一度ハサミを入れた。
ザクッ、って、やっぱりいい音だ。
「はぁ」
綾駒さんが、そんな声を漏らした。
明らかに溜息のような気がするんだけど、大丈夫だろうか。
「まあ、男子は、短い髪でさっぱりとしてた方が、好感が持てるからね」
綾駒さんが謎の言葉を吐いた。
「綾駒さん、鏡、見せてもらっていい?」
僕が言うと、
「鏡ってなに?」
綾駒さんがそんな言葉を返してきた。
完全にマズい事態になってると思う。
「鏡っていうのは、
僕の説明を、綾駒さんは全然聞いてなかった。
「ちょっと、待っててね」
綾駒さんはそう言うと、一旦、部室に戻る。
僕は一人、庭に残された。
静かな林の中には、香が練習するピアノの音だけが響いている。
どこからか赤とんぼが飛んできて、僕のシーツの肩に止まった。
なんだか鼻の辺りがかゆくてくしゃみをすると、トンボはびっくりして飛び立ってしまう。
少しして、綾駒さんが帽子を持って戻って来た。
つばが広い大きな帽子だ。
「ちょっと、これ被ってね」
綾駒さんがそう言って僕に帽子を被せた。
髪を切るのに、なんで帽子が必要なんだろう?
「西脇君、これから私の行きつけの美容院行こうか」
綾駒さんが言う。
綾駒さん、完全に失敗したらしい…………
そのあと僕は、人生で初めて、美容院で髪を切った。
美容院に入った途端、そこにいた美容師さんとお客さん、全員に笑われたけど。
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