第86話 悶々

「あんた、そのほっぺた、どうしたの?」

 千木良が訊いた。


 放課後の部室で、千木良が僕の顔を覗き込んでくる。

 千木良が顔を近付けるから、その吐息が顔にかかった。

 その大きな瞳で僕を見詰める千木良。

 千木良からは、相変わらずイチゴシロップみたいな美味しそうな匂いがする。


「うん、ちょっと、夜中にドアにぶつけちゃって」

 僕は、咄嗟とっさに嘘をついた。

 僕の右のほっぺたには、青いあざが出来ている。

 まさか、これはうらら子先生にグーパンチで殴られたとか、本当のことは言えなかった。


「おい、西脇どうした!」

「西脇君、大丈夫?」

 部室に来た柏原さんも朝比奈さんも心配してくれる。


 みんなに顔を覗き込まれると、興奮して血行が良くなったのか、痛みがぶり返してきた。

 右の奥歯の辺りがシクシク痛む。


 でも、こんなふうにみんなが心配してくれるから、たまには殴られるのもいいか、なんて考えてしまった。


 朝比奈さんが、よしよし、って僕の頭を撫でてくれてるし。


「まったく、気をつけなさいよね…………あっ! べ、べつに、あんたのこと心配してるわけじゃないんだからね!」

 千木良のツンデレも心地いい。



 僕が女子部員に囲まれて心配されてると、林の向こうから全速力で走って来る人がいた。

 木々の枝や草が大きくしなって、その人がすごい勢いで近付いて来るのが分かる。



「西脇君! 本当にごめんなさい!」

 走って来たのは、スーツ姿で髪を振り乱したうらら子先生だ。

「ごめんね。大丈夫? まだれが引いてないのね」

 先生、ハイヒールを脱ぎ散らかして、いきなり僕を抱きしめた。


 先生に抱きしめられて、胸に押しつけられて余計に痛い。


「先生! どうしたんですか!」

 女子達が、先生を僕から引きがしながら訊いた。



「うん、昨日の夜、西脇君が私が居眠りしてるあいだに、綾駒さんと二人だけの部屋でパンツ一枚になって、綾駒さんを床に押し倒して、綾駒さんのシャツのボタンを外して、よだれらしながら、今まさにそのレモンイエローのブラジャーをぎ取ろうとしてたのを見て、私、てっきり西脇君が綾駒さんを襲うおうとしてるんだと思って、グーパンチで殴っちゃったの。寝ぼけてたし、勘違いしちゃったのね」

 先生がそう言って、てへぺろみたいに舌を出す。


 あの、先生……


 せっかく僕が誤魔化ごまかそうとしたんだから、余計なこと言って波風立てないでください。


 それに、その言い方だと、誤解しか呼びません。

 色々、脚色きゃくしょくが入ってるし。



「西脇君が……」

「パンツ一枚で……」

「綾駒を押し倒しただって……」

 朝比奈さんと千木良、柏原さんが、殺気に満ち満ちた視線で僕を見た。


 さっきの僕に対するいたわりとは真逆の視線が向けられる。


 柏原さんが玄関から鉄パイプを拾ってくるし、千木良が防犯用のスタンガンを持ってくるし、朝比奈さんは台所からアイスピックを持ってきた。


「説明してもらおうか」


 当然、そのあと僕は、朝比奈さんと柏原さんと千木良に対して、昨日あった出来事を説明することになった。


 それで、僕の大切な青春の小一時間がつぶれる。



「なんだ、そういうことか」

 なんとか、朝比奈さんには分かってもらえた。


「まあ、こいつなら変なことしないと思うけど」

 千木良も言う。


「そうだな、西脇なら、たとえ二人きりの部屋で裸の女子が目の前にいたとしても、手を出さないで固まってるだろうな」

 柏原さんが言った。


 いや、さすがにそれは僕でも自信ない。



「それで、『彼女』の皮膚ひふを貼るの、終わったのか?」

 柏原さんが訊いた。


「うん、終わったよ」

 後ろから声が聞こえて、振り向くと遅れて部室に来た綾駒さんが立っていた。


「夜中まで作業して、なんとか貼り終えたの」

 綾駒さんが欠伸あくびしながら言う。

 昨日、先生に車で送ってもらって家に帰ったのが夜中一時を回ってたから、綾駒さん、眠そうだった。


 僕も、午前中の授業はほとんど寝てた。



「皮膚を定着させるためにまだ吊してあるけど、もうそろそろいいかな」

 綾駒さんが言う。


 「彼女」は、八畳間に全身包帯を巻いたまま吊してあった。

 青紫の包帯を巻いたミイラみたいな姿で、畳の上に浮かんでいる。

 「彼女」からは、濃いエナジードリンクみたいな薬品の匂いがした。



「いよいよ、完璧な『彼女』が見られるんだな」

 柏原さんが、感慨かんがい深げに「彼女」を見る。


「みんなの努力の結晶だね」

 朝比奈さんが言った。


「外は立派でも、まだ中身は赤ちゃん同然よ」

 千木良が冷静に言う。



「それじゃあ、包帯をがしましょうか」

 綾駒さんが、彼女の前に立った。


 ゆっくりと、まず左手の包帯から外していく綾駒さん。

 僕は、助手として綾駒さんから薬品をたっぷり含んだ包帯を受け取ってゴミ袋に入れた。



 包帯の下から現れた左手は、粘液ねんえきに包まれたように濡れていてなまめかしい。


 そしてそれは、どう見ても人の手だった。

 マネキンとか、ゴムの作り物とか、そんなふうには絶対に見えない。

 その中には熱い血が通っている雰囲気があった。

 濡れて貼り付いてるけど、産毛うぶげみたいなのも見える。


「すごいな」

 思わず柏原さんが零した。

ひじしわとか、リアルね」

 千木良が言う。


「先生も、『彼氏』作ろうかしら」

 うらら子先生が感心したように何度も頷いた。


 左手が終わると、綾駒さんは右手の作業に移る。



「ねえ、もしかして、『彼女』って裸?」

 突然、朝比奈さんが訊いた。


「うん、もちろんそうだけど」

 綾駒さんが答える。


「だったら、このまま包帯取ったら……」


 そうか、このまま全部包帯を取ったら、朝比奈さんをモデルにした、朝比奈さんそっくりな全裸の「彼女」が現れることになる。

 手のクオリティからして、朝比奈さんそのものの体が出てくるんだろう。

 おっぱいとか、お尻とかがこのクオリティだったら……


「そうだな。この辺で、西脇は隣の部屋で待ってたほうがいいかもな」

 柏原さんが言った。


 そんな、「彼女」のお披露目ひろめの瞬間に、立ち会えないなんて……



「そうね、それじゃあ、包帯を全部外したら先生の水着を着せるから、それまで西脇君は居間にいなさい」

 うらら子先生も言う。


 先生は、縁側えんがわに置いてある自分の衣装ケースから、紺色の水着を引っ張り出してきた。


「なぜ、スクール水着なんですか?」

 先生の手に握られてるのは、昔の形の紺色のスクール水着だ。


「ええ、この前使ったばかりだから、洗濯して引き出しの一番上にあったの」

 うらら子先生が答える。


 この前、うらら子先生がスクール水着を一体なにに使ったのか、小一時間問い詰めたい……



「さあ、西脇君、出てなさい」

 僕は八畳間から追い出された。


 ふすまは、カミソリ一枚入らないくらいに、ぴったりと閉められて覗くことも出来ない。



 僕は、包帯が外されるのを、居間で悶々もんもんとしながら待った。



「すごい!」

「ホント、そっくり!」

 隣の部屋から、悲鳴のような歓声が上がる。


「やっぱり、おっぱいは綺麗だな」

「お尻だって、キュッとしてて素敵よ」

 そんな声も上がった。


「もう! みんな気軽に揉んじゃダメ!」

 朝比奈さんの声も聞こえる。


 それは、どっちを揉んだことに対して言ったんだろう?


 僕は、襖に貼り付いて考えた。


「綺麗なピンク色ね」

 そんな声も聞こえる。


 一体、何がピンク色なんだ……




「さあ、西脇君、これが私達の『彼女』よ」

 やがて、うらら子先生の声がした。


 襖が開かれたそこには、完璧な「彼女」がいる。

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