第6話 新しい住居と腫れもの生活



 ふかふかのベッドにふかふかの絨毯、窓越しに中庭を眺めればせわしなく働く使用人たちが見える風景を僕はそれなりに気に入っていた。

 けれどそれらに触れることは、もう許されなくなってしまった。


 赤く腫れた頬を擦りながら、僕はかつての聖女様の小屋の中、ついさっきの事を思い出していた。



 王宮から帰ってきた父は僕に詰め寄った。誰がやったのかなんて一目瞭然だとでも言うかのように。


「聖女にそそのかされたのか」

「僕の意思だ、聖女様は関係ない。もう二度と聖女様のような人はばせな――」


 言い終わる前に僕の身体は床にたたきつけられた。目を白黒させて衝撃の先を見れば、わなわなと唇を震わせる父がいた。

 父は力いっぱい僕をぶん殴ったあとに、息で肩を上下させながら、今にも殺さんばかりの憎しみが滲んだような表情で僕を見下ろしていた。


 殴られたのは、初めてだった。


 親類に向けるとは思えないような、冷たい目をして、父は続けて言った。


「月に一度は王立図書館に連れて行ってやる。それ以外ではモリス家の人間として振舞うことは許さない。貧相な庶民が奉公に出るのと同じ8歳になれば出て行かせる。


もう二度と父と呼ぶな」


 今まで殴られたことなんてなかった所為か、うるうると涙が滲んできていた。

 痛みからか、家族に見放された悲しみからか、それとも父が聖女様のことを最期まで、何も知ろうとしなかった悲しみからかは、分からなかった。

 汚いものを見るように去っていこうとした父に、僕は声を張り上げた。


「図書館へは月一じゃなくて週一でおねがいします!!」


 野次馬のように集まっていた家族は、僕が必死に謝るとでも思っていたのだろうか「はぁ?」とでも言いたそうな顔だ。


「謝る気はなしか」

「ぼくは謝るような事はしてない!」

「そうか、よく分かった」


 怒りを含んでいたはずの父の表情が、そのときスッと無表情になった。

 道端の石でも見るような、あってもなくてもいい存在を見るような、本気でどうでもいいというような表情だ。そこに子供であったものに対する感情は何もない。


「月二回まで許す。二度と話しかけるな」


 広い背中を僕は返事さえすることなく見送った。


「謝んなさいよぉ」


 呆れ顔で姉が弱く小突いて来たが、にじみ出る涙をぐっと堪えながら、僕は黙って首を横に振った。




 そうして僕の今までの部屋はなくなり、敷地内に隠されるように置かれている小さな小屋が、今日からの僕の住処になった。


 今すぐに放り出さないのは、きっと貴族としての面目めんもくの問題なのだろう。

 奉公に出る最小年齢で追い出すということは、対面として、年端もいかぬ子供を追い出し、死なせたと言われないためで、奉公として出してしまえば、その先は野垂死のうが知らないということだ。


 家族を思い出し、うるうるとまた涙がにじみそうになり、気合を入れるために、赤くなった頬を自分でぱぁんと叩いた。

 古めかしいティーテーブルの上に置かれている、枯れてしまった野花を見ながら、僕はもう居ない最愛の人に語りかけるように言った。


「負けないよ、聖女さま」


 父が言っていた「王立図書館に月二回通うことを許す」というのはきっと聖女様が生前に、なにか計らってくださったからだろう。

 すべて取り上げられてしまった僕に残っているものは、きっと、聖女が遺して下さった本たちと、図書館から得られる知識だけなのだ。

 だからこそ、あと一年半ほどの期間で、生き抜くことを心配しなくていいこの敷地内で、たくさんの事柄を吸収しなくてはいけないのだ。




***



 食事は、使用人が食べるようなパンとスープと獣肉だけで、デザートは遠い存在になった。庭に生えている果物は何故か兄専属の使用人であるララリィが気を使ってか、くれるので少しだけ感謝だ。

 家族は母でさえ僕に話しかけなくなった。兄は父と同じく僕の事を、石ころを見るような目で見ていたし、姉も話しかけなくはなったが、いろいろ思うことがあるのか、眉尻を下げて僕をたまに見ている。



 小屋は案外快適であった。長年彼女が住まっていた場所だからか、こっそりと快適に改装していたのだろう、隙間風は入ってこないし、夜になれば照明もつかえる。しかも屋敷の物よりも明るく上等な光だ。カーテンさえ閉めてしまえば、離れた屋敷からは気にもならない明るさだが、日中の光のような明るさに僕は目をぱちくりさせた。


 ロウソクの明かりで本を読むよりはかどりそうで嬉しくなる。

 他にも暮らしの創意工夫はされていて、湯船はないけれど、温水を頭上から降らしてくれるシャワーというものもある。聖女様は僕が思っていたより、辛い生活をしていたわけじゃないと知り、少しだけホッとした。



 屋敷の中に僕の居場所がなくなったからと言って、僕の生活が変わるわけじゃない。


 むしろ家庭教師から神話世代にまでさかのぼる眉唾の歴史を勉強する時間も、初期魔法だけの退屈な理屈だけ延々と教えられる授業もなくなったので、今までより聖女様から教えられた魔法や、勉強へ力を入れる時間が増えた。


 融通の利かない家庭教師は、僕が少しでも基本から外れると頭ごなしに怒るのだ。

 だから家庭教師との時間は好きじゃなかった。


 剣術の家庭教師もよく僕を怒鳴った。剣の持ち方だとか、そんなんじゃ死ぬぞだとか、張り上げた声が中庭じゅうに聞こえて使用人たちが、チラチラと見てくるのが恥ずかしかったのだ。



 庭で一人、自分の太もものように太い棒を振るう。


 身体に汗が伝うのを感じつつ、苦手な剣術の教師に言われたことを思い出しながら、木の棒を振るう。

 ぶつぶつと口で素振りの回数を数えてゆく。


「123、124、125……」

「脇をしめろ!! なってない!! お前が剣を振るう相手は動かない木か何かか!! ただ振ればいいわけじゃないだろう!!」


 そうそうこんな風に……

あれ?


 耳から聞こえてきた言葉が、僕の妄想ではないことにぎょっとした。

 大きな声がした方向を見れば、今にもはち切れそうなシャツを着た、筋肉隆々の無精ひげを蓄えた、30代くらいの杖を突いた男性が、そこには居た。


 その男は、僕をよく怒鳴る剣術の家庭教師あった。


「レオナルド様! 返事はいかがされた!!」

「はっはいっ…」


 前の戦争で怪我を負った将である剣術教師の彼――


 ゾーダ・カムヘルを、僕は前々から苦手に思っていたのだ。



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