1-019 お屋敷の休息
ボグダンさんという人が来てから、わたしの奴隷生活は良くなった。
屋根裏暮らしは変わらないけれど、柔らかい寝床を用意してくれたし、毎日しっかりご飯が食べられるようになったし、何より痛いことがなくなったのが嬉しい。
故郷の村に居たときだって、隙間風の入り込むぼろい家だったんだから、屋根裏とあまり変わらない。
寒くないから良いぐらいだよ。
柔らかい寝床なんて藁ぐらいしかなかったし、それも取り合いだったから、専用で寝床を持てるなんてとても良くなったと思える。
ご飯をお腹いっぱい食べられるなんて、幸せなことよ。
唯一、昔から悪くなっていた『傷みを与えられること』が無くなったんだから、今のまま生活できるなら嬉しいな。
床を雑巾で拭いたり馬小屋の掃除をするぐらい、昔に比べたら楽なことよ。
故郷では、寒い中薄い服で凍えるような水を汲みに行ったり、裸足で雪の積もる山の中に薪を集めに行ったりしてたんだもの。
でも、ボグダンさんは、このお屋敷の使用人達にあまり好かれていなかったみたい。
不思議な魔法で美味しいお菓子や美味しいお水をいっぱいくれて、痛みも取り除いてくれて、寝床もくれて、お洒落な靴までくれる優しい人なのに。
昔の行いが悪いからって言われてたのだけど、それだってボグダンさんが毎日使用人に差し入れを持ってくるようになったから、段々仲良くなっているみたい。
ボグダンさんと使用人達が仲良くなるにつれて、わたしの買い主であるネブンが、もっと好かれていないことが分かってきた。
元々嫌いだったみたいだけど、陰口を言ってるのを見付けられたら殺されるからって、言わないようにしていたみたい。
でも最近ネブンはほとんど寝てるから、段々使用人達の気が緩んでるんだって、コリーナさんが言ってた。
ネブンが寝てばかりなのは、わたしが寝かせてるからなんだけど。
悪い悪魔が寝ている間だけでも、楽しく過ごせた方が良いよね。
使用人達の表情が穏やかになるにつれて、コリーナさん以外からも優しく接して貰えるようになってきた。
このままいけば、わたしもそのうちここの下女になるのかな?
この屋敷がイヤなわけじゃないけど、ネブンに仕えるのは絶対嫌だな……
ネブンがどこかに行かない限り、わたしはいずれここを離れると思う。
夏が終わってネブンが城に帰るときに、わたしは捨てて行かれるって言われたから、この村で住むところを探せたら良いな。
でも、わたしなんかが雇って貰えるところなんてあるかな……?
もしかしたら、もっと別の村に行かないといけないのかもしれないけど、痛くないならわたしはどっちでも良いや。
早くネブンに捨てられるように、夏が終わって欲しいな……
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ボグダンというこの村の村長の息子が来て、ネブン様を眠らせてから、わたしは子供の時以来の安らかな気持ちで生活することが出来るようになった。
ボグダンはネブン様を眠らせた魔法を、実際にわたしにも体感させて、効き目を教えてくれた。
魔法というのは凄いもので、絶対に抗うことが出来なさそう。
いくつか注意しないといけないこともあるけど、怒りを抑えられれば、頭の悪い命令を出すだけだろうから、適当に
しかし、昨年までのボグダンは、非道で冷酷で出来れば近付きたくない──ネブン様みたいな人間のクズだと思ったのだけど……今年は見た目も柔らかくなっていて、近くに居ると安心するような雰囲気になっていた。
ボグダンに何があったのか気になるところだけど、それよりも、ネブン様が簡単に眠ってくれるというのだから、この機会を逃す手は無い。
数日間様子を見てから、家令に相談して休みの日を一日もらった。
丁度、ネブン様が勝手に外出されて、ずぶ濡れになって帰ってきた日だ。
この休みはわたしの心に残る日となるだろう。
この村の広々とした温泉につかり、普段の仕事で凝り固まった肩や腰をほぐして久々に寛いでいたら、少し変な言葉を話すとても美しい人魚が通って行った。
お伽噺に聞いた人魚の姫かと錯覚するほどの美しさに、心が浄化されるような心地で、普段どれだけ自分が『美しくないもの』を見ていたのだろうとショックも受けた。
しかしながら、その美しいものは、そんな日常など忘れてしまえと言わんばかりに、わたしの前にくるくる回りながら戻って来て、なぜか大量のお酒を差し出してくれた。
女神様か?
勧められるままに口にしたお酒は、蕩けるほどに甘く濃く、一瞬にしてわたしを酔いの淵に投げ込んでしまった。
とても気持ち良くふわふわする頭が最後に記憶しているのは……女神様のような人魚が、これぞ女神様と言えるような女性にわたしを手渡し、その女神様が温泉の休憩室にあるベッドに寝かしつけてくれたことだった。
酔った頭だから正確な記憶では無いかも知れない。
しかし、わたしも女性だが、美しい女性に優しくして貰えるのは格別だと思ったものだ。
休憩室で起きれば、すでに日が暮れていた。
ただ、それでも、一日中寝ているネブン様が起きるまで、まだまだ時間がある。
ここまで幸せな半日だった。
そして、残りの半日も驚くような日だった。
起きて身体を起こすと、小さな女の子が横に座っていた。
とても可愛らしいのにとても立派な牙のある、やけに落ち着いている不思議な女の子だった。
人ではないのかもしれない。
最近この村に居着いたらしくて、今は温泉や宿屋と南北にある門で働いているらしい。
小さいのに大変そうね。
ネブン様に酷い扱いを受けている奴隷の子もいるわけだし、昔のわたしも裕福ではなかったし、それぞれ苦労しながら生きているのよね、と勝手に納得することにした。
わたしが起きたらご飯に誘おうとしていたらしく、小さい女の子に宿屋へと連れて行かれた。
お詫びだとかなんとか言ってたけど、詫びられるようなことをされた覚えがないのだけど……
でも、折角のお休みなのだから、好意に甘えることにした。
そして宿屋の1階で、試作品だから好きなだけ食べて、と言われた食事が、もうほっぺただけ出なく顎まで落ちそうなほど美味しかった!
領主様も食べたことが無いんじゃ、と思えるぐらいに美味しかった。
世話好きそうなおばさんが作る料理を、小さな女の子と一緒に食べる、食べる、食べる……
見た目に寄らずこの女の子が凄い食べっぷりで、見てて爽快な気分になるくらい美味しそうに、勢い良く食べるの。
そしてその上で、料理に意見をしていた。
どこかで食べた料理に似ているけど、それよりも臭みが少ないから美味しいとか、一緒に辛いお酒があったらもっと美味しくなるだろうとか……
なんだか色々なところを旅してきたみたいで、やっぱり苦労してるんだなと思ってしまった。
おばさんの方は、女の子の意見が参考になるって嬉しそうで、どんどん新しい料理を差し出してきたの。
わたしも美味しいから、たくさん一緒に食べさせてもらった。
領主の館で一番口うるさいネブン様の侍従として、意見できることは全部出し切ったつもり。
こんな美味しい料理のお代のかわりにもならないと思うけど、おばさんはやっぱり喜んでくれた。
気持ちの良い温泉に浸かって、とても美しいものを見て、美味しいお酒を飲んで、美味しい食事を食べて、人から感謝されて、そしてぐっすり眠れるなら……まるで夢の国のよう。
生まれてこの方、夢というのは恐怖でしかなかったけれど、良い夢もあることを知ることが出来た。
これまで我慢ばかりしてきたけれど、ようやく報われた気がした。
ただ、また明日からネブン様のお相手をしないといけないのかと思うと、憂鬱な気分にはなる。
幸せなことを知ると不幸せなことも同時に知ることになって、なんだか複雑な気持ちになるのね。
でも、今はこの休息を存分に味わい尽くしてから帰ることにしよう。
明日にはまた地獄が待っているかもしれないのだから、今ぐらいは休んでしまっても良いでしょう……
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
何かおかしい。
身体は何も問題ない──むしろいつもより調子が良いはずなのに、最近寝てばかりいる。
『あいつ』が来てからか?
いつもイライラしていたオレの感情も、静まりかえっているようだ。
だが、ふとした瞬間に怒りは出てくる。
それがすぐに収まることが多くなったのだ。
しかし、自室から離れたときは、前と変わらないように思う。
『あいつ』が部屋に何か魔法でも掛けていったのか?
バカにしやがって!
ちょっと魔法が使えるようになったからって、良い気になってやがる!
そう、こんなことを思えばすぐにイライラするのに、またすぐに抑えられる。
目の前でミレルという『あいつ』の女が、『あいつ』の自慢話をしている。
本当ならこんな話をされたら、怒鳴り倒して殴って犯した後に、晒し者にしているところだ。
なのにあまり怒りも出て来ず、だから何となく、オヤジの言いつけもあって話を聞く日々が続いている。
『あいつ』のことで怒るのに疲れたのかもしれない。
失望感があるわけでも無い。
ここまで静かだと、無理矢理押さえつけられているような気もしてくる。
余りにもつまらないので、屋敷を抜け出してみて、この田舎くさい村を歩いてみた。
そうしてみれば、やはり怒りがふつふつと湧いてくる。
怒りをぶつける村人を探してみても、人が見付からない。
畑の方に人が見えるが、あんな臭いところに近付きたくはない。
歩いていれば、なぜこのオレが歩かねばならないのか?とまた怒りが湧いてくる。
バカバカしい。
そんなとき、ガキ2人が道を歩いているのを見かけた。
この村ではあまり見ない外見だが……この村は美人の多い村になったとか言っていたから、その影響でガキも美人になったんだろう。
「おい、そこのガキ2人!」
オレが声を掛ければ、こちらを振り向いて──目を細めやがった。
「あ゛! なんだその目は!!」
イライラをぶつけるのに丁度良い。
ガキ相手なら弱いし、気が済むまで殴れるだろう。
そう思って胸ぐらに掴み掛かった。
だが、オレの手は空を切った。
「行こう、アナスタシア。関わると面倒なヤツだ」
「んだとっ!? お前……」
声を荒げようと思ったときには、2人は目の前から居なくなっていた。
どういうことだ? わけが分からん。
逃げられたことに更に苛立ちは増し、他のヤツを探すために街道へと出た。
するとまた、さっきとは違うガキの後ろ姿が見えた。
なんだ、この村は?
昼前にはガキしかいないのか?
まあいい、丁度良い。
次こそは憂さ晴らしをさせてもらう。
だがその前に、オレの目は、ガキの持つ大剣へ吸い寄せられた。
小さなガキが、身長に見合わない大剣?
はんっ! 見栄っ張りなだけか!
大方、遊び用の模擬剣だろ!
からかうには丁度良い。
「おい! そこのガキ!」
声を掛けてみれば──無視してそのまま歩いて行きやがる!!
オレの声を無視するとは、領民として許されないだろ!!
「躾が必要なようだなぁ!」
後ろから肩に掴みかかる。
そして、またオレの手は空を切った!
「ああっ!! んだてめぇは!?」
言葉と共に振り返ったガキから、重い重圧と共に向けられる獰猛な視線。
口元に見える鋭い牙。
こいつ、異種族か!?
「ガキはお前だろうが! 実力の差も分からずに喧嘩を吹っ掛けてくるなんて、どうなっても文句言えねぇよなぁ!!」
食い殺されると錯覚させるだけの威圧感。
手はすでに剣に添えられている。
くそっ! 異種族が居るなんて聞いてねえ!
こんなの分が悪すぎる。
だが、オレが恐怖するなど有り得るか!
「お前は、オレが誰だか分かっているのか!! 次期領主のネブン様だぞ!!」
……威圧感が和らいだ。
どうやら、分かったようだな。
オレにそんな口を聞いたことを、たっぷり後悔させてやる。
「なんだ、そこまでバカなガキだったか……」
更にオレを罵倒しただと!?
オレは今、猛烈な怒りを感じている。
最近抑えられていた怒りが、今この瞬間に全て溢れてきた気分だ。
オーガでも射殺せそうな殺意が、視線に乗っていることだろう。
「なんだそれは……? 殺気ってのは、こういうもんを言うんだ」
突然、前のガキが膨れ上がったように感じた。
いや、オレが尻餅をついたんだ。
ガキはつまらない物を見る目でオレを見た後、何も言わずに立ち去って行った。
その間、オレは見送ることしか出来なかった。
だが、ガキが見えなくなると、また怒りが戻ってきた。
どいつもこいつもバカにしやがって!!
許せん!!
この村のヤツらはどうかしている!!
1人ぐらい懲らしめてやらないと気が収まらん!!
オレは更に獲物を探すために村を歩いた。
いつの間にか温泉に来ていた。
そうだ、ここには憂さ晴らしに丁度良いヤツがいるじゃないか。
初めてこの温泉に来た日に見た、あの女だ。
色々と溜まった物を出すのに最適だ。
入り口がどこかは知らんが、適当に入って探せば良いだろう。
と思ったのに、目の前には透明な板で囲われた水路が長く続いていて、温泉に入ることが出来ない。
なんだこの邪魔な水路は!
拳を叩きつけてみると、思ったより硬く、拳に痛みが走った。
また、怒りが膨れ上がっていく。
もう一度殴ろうと拳を振り上げると、水路の中に何かが現れた。
「何してるケ?」
その何かは、水路の上からオレを見下ろして、問い掛けてきた。
美しい。
美しく、そして若い人魚だ。
この村はこんなものまで飼っているのか?
王都には、屋敷にこのような透明な水槽を造って、そこで人魚を飼っている貴族がいるとか。
「どうしのケ?」
はっ!
あまりの美しさに我を忘れていた。
しかし……
こんな田舎風情が、プラホヴァ領都でもしていないようなことをしているだと?
しかも、田舎臭い訛った言葉を人魚に喋らせてやがる!
許せんな。
これは領都に持って帰って教育すべきだ。
この美しさはこの村には似合わん、領都にこそあるべきだ。
「お前。飼い主は誰だ?」
「飼い主ケ? それは何なのケ?」
ふんっ! 知能も低いのか……まあ、飼うならその程度でも良いか。
「お前にエサを与えている者だ」
「エサ? 魚ケ? それはボーグケ〜」
ボーグケ?
いや、ボーグか?
どこかで聞いたような……
最近良く耳にしたような……
『あいつ』のことではないか!
あの男は、どこまでもオレの邪魔をするのか!!
オレの頭は一瞬で怒りに支配された。
「あいつのものなら丁度良い! 今すぐ引っ張り出してやる!!」
近くの木に足を掛け、オレを見下ろしてくる人魚へと腕を伸ばす。
だいたいオレを見下ろすところが、すでに教育がなっていない。
引きずり下ろして、分からせてやる。
「いやケ〜」
人魚はあろうことか、折角オレが登ったというのに、水路に沈み込んで底から見上げてきやがった。
本当に、どいつもこいつもバカにしやがって!!!!
オレは水路の淵に手を掛けた。
その途端、バシャっと盛大な水の音がして、オレはずぶ濡れになり、木から落下して、尻餅をつかされた。
「いてぇな!! くそっ!!」
どこから水が飛んできたのかは分からないが、水路の上からまた人魚がオレを見下ろして──笑っていやがる!!
もうダメだ!
怒りすぎて頭がおかしくなりそうだ!!
頭の中で何かが切れそうだ!!
くそっくそっくそっくそっ
「こんなところにいらっしゃいましたか」
怒りに任せて勢い良く後ろを振り向くと、侍女が立っていた。
来るのが遅いだろう!
「オレの求めていることを、さっさと……」
オレは言葉を途中で止めた。
どういうことだ……?
まただ……さっきまでこれ以上無いぐらいにイライラしていたのに、すーっと怒りが引いていった。
「ずぶ濡れではないですか、お召し物を着替えるためにすぐに戻りましょう。馬車を用意していますので」
「あ、ああ……」
自分の急激な感情の変化に戸惑いながら、オレは屋敷に戻った。
この侍女が何かしているのか?
こいつも『あいつ』の手先なのか?
オレは屋敷に戻り、奴隷を呼びつけたところでまた眠気が襲ってきて、眠ってしまった。
何が起こっているのか……
分からぬまま……
誰かに呼ばれてた気がして、いつもとは違う時間に目を覚ました。
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