LOST DAYS~It‘s a wonderful WORLD~②

 物心ついた頃にはもう、俺は『立神一』だった。

 

 というと、少し妙な言い回しに聞こえるかもしれない。

 これではまるで、物心つく以前のどこかの段階で、俺が『立神一』ではなかったことがあるみたいだ。

 

 ……まぁ、事実そうなのだからしかたがない。


 実際、俺には何者でもなかった時代がある。

 

 人はオギャーと生まれた瞬間。

 もっと言えば、母親の腹の中で受精卵として芽吹いた瞬間から、何かしらのものになるものだ。

 

 たとえば小さな生命。たとえば愛の結晶。たとえば新たな存在。

 

 たぶん、≪現世界あらよ≫でも≪幻世界とこよ≫でもその理は変わらず同じなのだと思う。

 

 愛し合う夫婦の待望の末に生まれた予定調和的なものもあるだろう。

 決して望まれて生まれてきたわけでもない突発的なものだってあるだろう。

 

 生まれ出でるまでの経緯なり思惑なりは多様であり多彩。


 しかし、たとえどのような命であったとしても、生まれてきた赤子はその産声の第一声を響かせたところで世界から『生きる』という責務を否応なく、そして等しく背負わされることになる。


 それでも無力な赤子の大半は、清潔で柔らかなタオルと考えに考え抜かれた名前、何某さん家の赤ちゃんという肩書を同時に与えられて守られる。


 『生きる』ということの過酷さを知るのはもう少し後。


 それまでは、自分が一体何者なのかなど考えもしないで、大人たちの庇護の下で健やかに育っていくことだけに命を燃やせばそれでいい。

 

 大半……と表現したからには、もちろんそんな恵まれた境遇から漏れてしまう子供たちもまた確かに存在してしまう。

 

 生まれながらにして、『生きる』ことを強いられ、寄る辺もなく、導もなく、力を持たないままただ世の中に放り出されてしまい、それでも生きていかなくてはならなかった、そんな子供たちが。


 ……とはいえ、それはまた別の話。


 ここで長々と彼らの、控えめに表現しても壮絶極まりない人生をあげつらい、語ったとしても、本筋とはあまり関係がない。

 

 今、この場で言いたかった要点としては、俺がその御多分から漏れ出た方の子供であったということだ。

 

 そう、さきほど述べたように、俺は人生の最序盤、生まれてから立神の家に引き取られるまでの数年間、タオルや肩書どころか、名前すら持っていなかった時期があったのだそうだ。

 

 随分、他人事のようじゃないかって?

 

 それはそうだろう。


 実際、俺にはその辺りの記憶がまったくない。


 こうやって普通に人間として生き、普通に呼吸し、普通に歩いている。


 ある日突然、高慢にして高潔、不遜にして超絶的に残念な一国の姫君にスタンガンを当てられて異世界なんてところへ連れてこられているのだから、俺が命あるものとして生まれたことは確たる事実。


 そして、そんなふうに人として生を受けた以上、父がいたのだろうし、母だっていたのだろう。


 まさか桃や竹の中から取りあげられたとか、コウノトリがそっと立神家の門前に赤子の俺を置いていったというわけでもあるまいに。

 

 ……しかし、実のところ。


 そんな荒唐無稽な出自でさえ、俺は頭から否定することができない。

 

 なにせ記憶がないのだ。

 

 ふとした時に母の優しく懐かしい笑顔がよぎるなんてこともなければ、ボンヤリと霞がかって頼りなくも心を揺さぶるような父の力強い声が頭に響くなんてこともない。

 

 柔らかく包んでくれた甘い果肉の香りや、節だった竹の窮屈さを懐かしく思ったりもしない。

 

 感触も、匂いも、温度も、とにかく何もかにもがことごとくない。

 

 自分の歩いてきた道を振り返ってみたとしても、そこにはただの真っ暗な空間が無限に広がっているだけ。

 

 ただ、それだけだ。

 

 そんなもの、もはや赤の他人の記憶と比べてみたってそう大差はないだろう。

 

 幼い頃は、そのあまりに漠然とした暗闇を前に成すすべもなく立ち尽くしていた時期もあった。

 

 この空白の期間。

 

 一番古い記憶として認識している、あの険しい山の更に奥深く、深山幽谷にそびえる立神のだだっ広い屋敷の大広間に辿り着くまでの数年。

 

 『お前は今日からタチガミ・イチジだ』と立神の爺さんに言われるまでの数年。


 俺は幼児の身空で一体どこでどう生き、何を考え、そもそも何者であったのだろう?と……。

 

 そんなことを考えてしまうのは、決まって夜だった。

 

 街灯どころかまともに電気すら通っていない山奥。


 何か譲れぬ信念でもあるかのように、一般的な文明社会や外界から完璧に遮断された仰々しい和風建築の屋敷では、月と星のか細い灯りと時代錯誤の行灯や灯篭だけが頼り。


 それだって季節や天候、あるいは真夜中にあってはまともに機能しなくなる。


 夜が本当に本当に深い場所だった。

 

 ただ黒く、ただただ重たく、夜はどこまでも暗かった。


 まるで自分の記憶のようだと、当時の俺は幼い感受性の赴くまま、二つを重ね合わせて考えてしまった。


 ……いや、考えるなんてハッキリとしたものじゃないか。


 正直、そこまで明確な考察をするだけの知能を当時の俺は持ち合わせてはいなかった。


 それどころか、日常生活を送るための常識も。

 最低限度の会話を行うための言葉も。

 生物としてかくあるべきすべての感情も。


 何も俺にはなかった。


 まったくの空っぽ。


 無限に広がる空白の時間と同じくらい、俺の中身は空白と空虚だけで埋められていた。


 だから、きちんと思考をめぐらせていたわけではない。

 あくまでも本能的にそう感じたというだけ。


 どこまでもモヤモヤとした、自分の存在の不明瞭さに対する漠然とした不安みたいなものだったのだろうと、曲がりに曲がってまだ曲がり続けているなりにも三十路まで成長した今ではそう分析できる。

 

 「……眠れないんだね、イっくん?」

 

 そして、そんな夜には、彼女は必ず俺に声をかけてきた。


 何一つ見えない宵闇を照らす、母のように優しい声。

 何一つ指針を持たずに放り出された空白の中を導いてくれる、父のように力強い声。

 

 必ず彼女は隣の寝床から声をかけてきた。

 

 「それじゃぁイっくんが眠れるまで、わたしがお話をしてあげるんだよ」

 

 時に短く、時に朝日が昇るまで長く、俺がすっと目を閉じて眠りにつくまでの間、当て所もない話を延々と語った。

 

 こうやって回想している中でも思い出せないところをみれば、本当に愚にもつかない話ばかりだったのだろう。

 

 日本のカレーは中辛でこそその真価を発揮するが、カレーパンの中のカレーは辛口こそが至高だとか。

 絶対王者・バターに今もなお果敢に挑み続けるマーガリンの艱難辛苦の歴史だとか。

 

 大人になった彼女が普段から思い付きのまま口走ってきた数々のどうでもいい話と同様に。

 

 たとえこれが千夜一夜にわたって語られたとしても、きっとこの寝物語は一つも俺の記憶には刻まれることはなかったかもしれない。

 

 ただ……。


 顔もわからず、語る言葉の意味だってわからない夜の淵。

 彼女の幼くも大人びたハスキーな声を聞けば、不安のようなものが不思議と和らいでいったことだけは確かに覚えている。



 ……しかし、その日の夜は少しだけ違った。

 

 夜がいつもよりも深かったからだろうか?

 もしくは他の何かがより深まったからだろうか?

 

 それとも昼間に家の雑務を担う侍女的たちが、詳しくは聞き取れずともどうやら自分の話を、それもニュアンスとして、どうも好意的ではない内容の話をヒソヒソとしていたのが耳に入ったからだろうか?

 

 『……なんておそろしい……』


 『……お館様はなにを考えて……』


 『……バケモノ……』

 

 「……イっくん?」

 

 彼女の声を上書きするように、侍女たちの声が覆いかぶさって来る。

 

 その時の雰囲気、その時の言葉。

 

 俺が近くで静かに立ってジッと見ているのに気が付いた時の、彼女たちの怯えたような引きつった表情。


 それが頭から、耳から離れてはくれない。

 

 「…………」

 

 彼女は余計な口を挟まない。

 いつものように矢継ぎ早に言葉を紡いではくれない。

 

 「……そっちに行くね?」

 

 その変わりに、彼女は行動を起こす。

 

 季節はちょうど夏の真っ盛り。

 

 寝室としてあてがわれた、子供二人には十分すぎる畳敷きの部屋。

 街中よりも活発に活動するヤブ・蚊をよけるために張られた蚊帳。

 

 かけられた言葉にもまるで反応を示さず、目を見開いて暗闇を見つめ続ける俺の布団に、隣り合って寝ていた彼女が潜り込んでくる。


 ゴソゴソ……ゴソゴソ……。


 時が流れる音さえ聞き取れるではないかというほどの深い静寂の中、そんな衣擦れの音が大仰に響いた。


 「ばぁ」

 

 微動だにもしない俺の目線に入り込むように、彼女の顔が掛布団の中から飛び出してくる。

 

 暗い室内でも、まつ毛の数までハッキリと数えられるほどの至近距離。

 真っ暗な夜にあっても、仄かに煌めく薄い金色の髪。

 俺の目を覗き込む、翳りなど一切ない澄みきった碧眼。

 なにがおかしいのか、いつも決まって微笑みにかたどられた色艶の良い唇。


 そんな彼女を形作るもの一つ一つが、俺の間近にあった。


 まるで、愛し合う恋人たちの逢瀬のようにピッタリと。

 まるで、二つの体が溶け合ってしまったかのようにシットリと。

 

 将来、たわわに実ることが約束されてはいるが、まだまだそんな兆しを微塵も感じさせない平らな胸を俺に押し付けながら、幼い彼女は、もっと幼く、そしてまだ何者にもなりきれない俺をそっと抱きしめる。

 

 「わたしはマリネ、立神マリネ。イっくんのお姉ちゃんなんだよ」

 

 彼女は静かにそう言った。

 

 何度その台詞を聞いただろう?

 何度、彼女に名前を名乗らせただろう?

 

 何度聞いても、何度名乗らせても、俺にはどうにもピンとこなかった。


 そう、彼女はマリネ。タチガミ・マリネ。どうやらイックンのオネエチャンらしい。

 それはいい。そこまでは理解している。


 ただ、マリネというもの、イックンというものが何なのか、オネエチャンというものが何であるのか。

 そこら辺が俺にはよく理解できなかった。


 出会った当初からしつこくしつこく言われ続けてきたので、さすがにある程度の推察はできる。


 『マリネ』や『イックン』というものは名前であり、オネエチャンというものは何かしらの立場を表す呼称であり記号なのだろう。


 うん、その日はそこまで辛うじて理解することが出来た。


 もしかしたら侍女たちの言っていた『バケモノ』などもそれらと同じくくりに属するものなのかもしれない。

 これは小さくとも大きな前進なのではないだろうか。

 

 それでは、名前とは、呼称とは何か?

 ……わからない。


 では、どうして彼女は今こうやって俺の寝床へ侵入し、体を寄せ、額を合わせ、俺の体をギュッと抱きしめているのだろう?

 ……わからない。

 

 どうして、彼女はそんな柔らかな声で俺に語りかけてくるのだろう?

 どうして、その声が耳に入ると胸の内側がフワフワとするのだろう?

 どうして、その優しく小さな手が触れられたところが、心地よい熱を帯びてくるのだろう?

 どうして、重なり合う胸に感じる彼女の鼓動が、こんなにも安らぐのだろう?

 

 ……わからない。

 ……わからない。

 

 ……やっぱり俺には、何もわからない。

 ……空っぽな俺には、何もかもがわからないんだ。

 

 「……大丈夫……」

 

 彼女が重なり合わせた額をスッと離す。

 その重み、その熱が離れると、なんだかくっつく前よりも余計に夜が濃く、冷たくなったように思えた。

 

 ペロ……。

 

 しかし、そう感じたのも束の間、目蓋に熱く湿ったものが触れた。

 

 額から離れたものよりも一層温かくて、一際柔らかいもの。


 彼女の舌だ。


 彼女が俺の目蓋をそっと舐め上げたのだ。


 「わたしがずっと傍にいてあげる。ずっと守ってあげる……だからね?泣かないで、イっくん?」

 

 ナクってなんだ?

 この目から次々と零れてくる熱いものはなんだ?

 なんでこんなものが俺の体から漏れてくるんだ?

 ソバにいるってなんだ?マモルってなんだ?

 

 わからない。わからない。わからない。

 

 本当に、俺には何もわからない。

 

 「大丈夫。大丈夫だよ」

 

 ……ただ一つ。そんな空っぽな俺にもわかることがあった。

 

 「大丈夫だからね、イっくん。……大丈夫」

 

 彼女が……。

 ペロペロと、俺の涙を溢れるそばから舐めとっていく彼女が……。

 

 タチガミ・マリネというオネエチャンなる者がいてくれればダイジョウブなんだ。


 これまたよくわからない『ダイジョウブ』という言葉に、なんだか安心を感じている自分がいることだけは。

 わからないことだらけの俺にもわかった。

 

 「……大丈夫……大丈夫だからね……」

 

 ペチョ……ペチョ……。

 

 いくら年端のいかない子供同士とはいえ、布団にくるまった男女が行うスキンシップとしてはいささか過剰だったかもしれない。

 

 姉なのだと彼女が名乗りをあげたとしても、所詮は血の繋がりなんてない。


 もしも、まともな大人たちがこの場面に出くわしたら、驚くか怒るかして、俺たちは呆気なく引きはがされたことだろう。

 

 しかし、そこには誰もいない。

 

 まともでもまともではなくても大人なんてここにはこなかったし、そもそも大人でも大人ではなくてもそこに他の者がくることなど殆どなかった。

 

 そこは二人だけの空間。

 ただ二人だけの閉ざされた静かな世界。

 

 だから、彼女はいつまでもいつまでも、誰に憚ることなく俺の涙を舐めとり続けた。

 

 「大丈夫……わたしがずっとずっと一緒にいてあげるから」

 

 ペチョ……ペチョ……。

 

 暗く黒い帳が仰々しくかかる夜。

 彼女の優しい声と、ペロペロという水音だけが響く。

 

 卑猥さなどかけらもない。

 性的な趣など微塵もない。

 

 今思い返してみてもその音とその行為は。

 誰かを癒しながら自分をも癒すというような、ただただ痛々しくて弱々しいいばかりの、傷の舐め合いでしかなかったのだから。

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