感情論(1)自分が、破壊されてゆく

 そのあとのことは、思い出したくもないよ。

 語りたくもない。いや、ほんとうは、語ろうと思っていたんだ。おまえそれを語りに来たんだろう、暴露しに来たんだろう、って嘲る声が、聞こえてくるかのようだよ、……とても明確にね。

 僕も、そのつもりだったんだ。

 じつはもうだいじょうぶって思ってたんだ。

 でも、……でも、はは。

 情けないな。

 どうしようもない。

 あれを、言語化することを――僕の気持ちが、全力で拒んでくるよ。

 理性は、そうしろって言うのに。


 僕も、しょせんは、……理性に負けるのか、情けないなあ。

 情けない。情けなくって、しょうがない。

 僕はね、理性に打ち勝つために、こんなフリフリの――ばかみたいな――頭、からっぽみたいな――ユルユル、みたいな――。

 こんな格好と立場でね、……慣れようって思ってたのに。

 慣れられるって、そのつもりだったのに――。



 ……ああ、ありがとうございます。先生。

 無理すんなって、……うん、しない

 まだ、語るべきじゃないんですよね。語らなくたって、いいんですよね。

 うん、そっか、……そうですか、時じゃない、って。

 時が満ちてないって、はは、……俺、先生のそのダッサい漫画かゲームのダッサい老人みたいな言葉さ、ほんとに意味ある価値あるもんだったんだなあってなあ、感じたの、ぶっちゃけ、はじめてですよ、……すんませんねえ。




 ……じゃあね。それならね。

 ここにいる、人間のひとたちには。

 ただ、僕がそのとき考えていたことを、教えてあげる。








 死にたいなあって思ったよ。最初は。それだけだった。あんなことされてな。あんなふうにされてな。自分が――あんな声を出すのを、聞いちまってな、知っちまってな。アイデンティティが崩壊するなんてレベルじゃないよ。あんなのは。人格破壊、といっても足りないかもしんないね。なんつうのかな自分自身に対するものが、ぜんぶ変わっちまうのよ。イメージとか、自己像とかなんて言わずもがなだし、知ってたこと、知らなかったこと、性格や、歴史、抱えてきたエピソード、想感情、理想、……自分なりの、夢や希望、そんなん、ぜんぶ――変わっちまうんですよ。自分はなずっと人間だとは思ってた。男なのに女として生まれついてしまったまいったぜ、とは思ってたし、それが自分自身のいちばん深刻なエラーだって、あるいはバグだって、信じて疑ってもなかったんですけど、なんつうかそういうレベルからまた変わってしまうんですよね。底辺が、更新されるというの? 最底辺が。ああもっと深いところがあったんだなって。それまでだって僕なんもいい思いしてきてないです。家は貧しいし、妹や弟はうじゃうじゃいるし、俺が母親役やんなきゃ成り立たないところだったし。俺は男なのに姉ちゃん姉ちゃんって言われてあいつらの母親になって高校までを過ごしたんだ。そんでもあのガキどもがまだかわいけりゃやってけたかもしんねえよなあ、ほらよくあるじゃんドラマとかお涙頂戴ノンフィクションふうの、大家族の絆ー、みたいな。なんかああいうところの、チョージョさん、ってさあ、たいていしっかり者でさ、口うるさくて、やかましくて、ちょっとヒステリックでさあ、でも人知れず泣いたりすんの、人知れずったってテレビと大衆は見てんだよ、なんか親もわかるわかる、仲間よねみたいな感じで泣いちまってさあ、うるせーの、おまえらの非計画性と非理性でぽんぽこガキが生まれたんだろって。でもチョージョさんたいてーおべんきょできるくせに頭わっりーんだよな。ほんとうはだれよりも自分より小さな家族たちのことをだいじに思ってるみたいな。えっ、違う? 俺のイメージ、なんか間違ってる? 知らんわ、どうでもいい。ひとのことなんざ、語りたかったわけじゃねーよ。ああ、なんだっていつも俺は、……ひとと自分ばっかりさ、わけわかんねえたとえばっかり、出しちまって。俺も、はたから見たら、そんなんなのかな、……あったまわりい、チョージョさんのひとりに見えてんのかな。つまりさそうなるわけさ。俺にとっての不幸なんて最大の不幸底辺はそこだと、思っていた。



 したらさ、違ったんだよ。俺は頭からっぽ本能子づくり大家族の、醜悪なチョージョだったばかりではない、

 そんなマシなもんじゃ、なかったんだよ。

 なにせ、友達のなかで、ただひとり、しかもノーテンキな頭してさあ、わけもわからず、――気がついたら、犯されていた女なんだよ?




 そうだよ? ほんとうに俺は、よくいる女だったんだから――男に劣情催させるほど、馬鹿、って意味で。

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