絶望論(2)良心

 ……気がついたら、のしかかられていてな。

 そいつの表情は、見えなくてな。



 ……俺は、なかば寝ぼけながら。

 その名前を、呼んだんだっけな。

 人間だったころの、いや、俺がまだあいつを、――アレを人間だと思っていたころの名前を。

 白磁の陶芸品を思わせる……あいつに、アレになんかに、世界でいちばん似つかわしくない、あの名前を。


 ……あのときにはまだ、口にして親しく感じることのできた、名前を。




 ……どうしたの? なんて、尋ねたんだっけな。そのときのあいつはいやアレは、もぞりと身動きした気がする。ああ。僕もほんとうに、愚かだったよな。そんな口調で、そんなオンナっぽく尋ねたら、……余計に増長させるだけだったろアイツを、僕は、ほんとうに――愚かだった。




 返事がないから、たぶん、もういっかい、どうしたの、と尋ねたんだ。

 したらさ、急にアイツ謝りはじめて――。




『ごめん。ごめんな。ごめん、猫』





 ――そう言いながら俺の胸をまさぐりはじめたの。

 さすがにさあ、なにすんだよって。やめろよ、って。最初は、俺は笑えたんだけど。だから、愚かにもヘラヘラした口調で、そんなん言ってたんだけど、……そうほんとうに愚かにも。

 そのうち、笑えなくなってきたよ。そりゃそうだ。――やめろよっつってんのにやめねえんだ。



『ごめん、ごめん、ごめんな』



 なんだかほんとうに泣いてるような声だったんだ。俺は、なんだ、なんだって思った。悩みか? って、名前まで呼んでやって、尋ねた。

 ……馬鹿らしい、阿保らしい。僕はあのとき、だってちょっと嬉しかったんだよ。

 なにがって、もしかしたら、――コイツはほかのだれでもなく僕に頼ってくれてるのかな、って。

 ほかのヤツはもう寝たけれど、もしかして僕にだけ言える、僕にだけしか言えない悩みがあるのかな、って。




 だとしたら、それは――俺がずっと貧しくてひもじくて惨めでひとりぼっちな人生のなかで、割り切ったようで、……ほんとうは諦めきれてなかった、心のどっかで望んでいた、親友、そう、親友じゃねえかよ! 仲よくしてるのは仲間どうしだとしても、コイツは、……俺とふたりでコンビを組める、親友なのかもしれねえって――!





 ……ああ。

 馬鹿だったな。阿保だったな。

 俺。ほんとうに、……愚かしかった。




 当たり前だ、やつが泣いてたのなんか、これから俺を犯すからだったんだよ、しかもあとでよさんざん理解ねえ頭わりいどうしようもねえ周囲のやつどもに言われたけど、良心の呵責かしゃくだとか、ふざけんな、マジでふざけねえでほしいんだよな、良心の呵責だと? ――良心なんざ人間らしい心を持った人間が友達を犯すかよ、ああ、どうにか言えよ人間どもと人間にも値しない大衆のおえらい聴衆どもよお!






 ……あ、はい、なんでしょセンセ?

 ……あ、はーい、そうですねっ、せっかく私の話を聴いてくれているひとたちに、そんなふうに問いかけちゃだめですよねっ。えへっ、ネコってば反省! いけなーい、頭こっつん! ……はあ。……はーあ。


 ……はあ。……はあ。うん。……そう。

 俺だって先生の言う通りだと思うけど。その点にかんしてのみは。

 つまり、ひとには礼儀をもってかかわらなきゃいけないんだよな? はっ。センセ。相変わらず。そのふにゃっとした、愛想悪い。――気味も気色もサイアクに悪いぜ。






 ……つまりさ、

 ひとには、

 つまり、ひとってーのは、俺が、人間だって認めた相手には、……礼儀をもたなくっちゃだめなんだろ?





 はーい。ネコ、わかりましたっ、センセ。……私なんかのお話を貴重な人生の時間をいただきまして聴いてくださってる酔狂な人間のみなみなさまー、ネコ、わっかんないから訊きたいんですけどおー、――人間なら、良心ってもってるはずでしょ? で、良心をもってる人間は、お友達をレイプしないでしょ? ――ネコってば、お友達にそうされちゃったんだけど、にゃーん、……それってやっぱ、人間じゃない、ってことなんじゃないですかあ?

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