120.深紅の苦悩
「借り?」
思わず私は首を傾げた。身に覚えがない。レジーナを助けた事なんて一度も無いもの。それともお兄様がだろうか? けれど、それこそお兄様はほんの一瞬しか会っていない筈。貸しを作れるような機会は無かったと思う。
わざわざ馬車に乗って来る程の貸しを作ったことがあったろうか。
「貴女は"貸し"だなんて思ってなかったみたいね。お人好しにも程があるのではなくて? 来て損したわ」
レジーナは大きなため息を吐く。物言いたげな目を向けられても、思いつく貸しが無いのだから仕方ない。お兄様にまで視線を向けられて、私は肩を竦めるしかなかった。
「いいわ。これはわたくしの自己満足のようなもの。これで貸し借りは無しということに致しましょう」
レジーナが背筋をピシリと伸ばす。私もつられて姿勢を正した。貸しも借りも身に覚えがないから、頷いて良いものか悩ましい。
それでも、彼女は危険を覚悟でここまで来てくれた。そのことがとても嬉しい。
「貸しとか借りとかはわからないけれど、こんな遠くまでありがとう。けれど、お母様のことを私達に教えて良かったの?」
彼女は私達にとても大切な情報を教えてくれた。けれど、それは逆を言えばレジーナの母親に反すること。このことで、レジーナは母親に叱られたりはしないだろうか。
「あら、わたしくは独り言を申したまで。決してウィザー家に肩入れしたわけではございません。わたくしは、リーガン家の娘ですもの」
「独り言にしては随分長かったけど」
兄様の言葉を耳にしたレジーナは、お兄様を強く睨みつける。この二人の相性はあまり良くないみたい。一触即発。そんな言葉が似合う。私は慌てて二人の間に割って入った。
「それでも、『ありがとう』と言わせて。遠くまで会いに来てくれたのだから」
「そのことについても感謝は不要よ。わたくしは貴女に会いに来る為だけに、こんな田舎まで馬車を走らせた訳ではなくってよ。避暑の為、療養も兼ねてこちらに来ましたの。勘違いなさらないで」
レジーナはまた顔を背けてしまった。夏が終わって久しい。きっと王都だって過ごしやすくなっている筈だ。レジーナ語で、「気にしないで」という意味だろうか。その優しさに感謝をしつつ、私は相槌を打った。
レジーナはあっさりとしたもので、伝えたいことを伝えるとさっさと帰ってしまった。もっと色々なことを話したかったけれど、今日泊まる予定の家がもう少し先にあるようだ。なんならこの別荘に一泊していけば良いと言う提案は、彼女の冷たい視線によって破棄されてしまった。
小さな別荘とはいえ、まだ部屋は空いている。レジーナの一人くらい泊めることは問題なかった。
少し期待もしていたのに。レジーナとも仲良くなれるかも、と。リーガン家とかウィザー家とか今は色々な溝はあるにせよ、彼女は悪い人では無さそうだ。それに、悪い人はわざわざ独り言を言う為に馬車を走らせたりしないもの。
レジーナを見送って、お兄様と私とそしてお母様でお茶をしながら対策を練ることになった。事情を知ったお母様が形の良い眉を寄せる。
「あの人ならやりそうなことね」
お母様の言葉に、私とお兄様は顔を見合わせた。けれど、お母様はそれ以上のことは何も言わなかったし、聞ける雰囲気でもない。リーガン侯爵夫人は何度か夜会で会ったことがある。そう言えば、冬の舞踏会でもお父様やお母様に苦言を呈していた。
リーガン侯爵夫人のつり上がった目を思い出す。お母様とリーガン侯爵夫人は仲が悪いのかしら。
「どちらにせよ、肩の傷については一生秘密にするのは難しい話だわ。ロザリアは何を言われても平気な顔をしなさい。貴女のその傷は後ろ指を差されるようなものではありません」
私はお母様の話に相槌を返しながら、肩をそっとさすった。もう痛くもなんとも無い傷。けれど、痛々しい程に残った傷跡。もしも私が男なら、名誉の負傷と誇れた傷だ。
あの華やかな会場で、どんな風に傷のことを言われるのだろう。
お母様の話だと、お父様とお母様は私の肩についてはおいおい公表するつもりだったようだ。殿下との正式な婚約の手続きを終えて、落ち着いてからが良いだろうと考えていたという。
女に戻った今、肩のことを秘密にし続けているのは難しい。着替えをこの先ずっとシシリー一人に頼るわけにもいかないもの。
「大丈夫、何があっても守るから。安心して」
お兄様の優しい笑み。瑠璃色の瞳が強い意志を持つ。そうだ、次からはお兄様が一緒にいてくれるのだから、思っているよりも怖くはないのかもしれない。
広い舞踏会の会場で、私は独りぼっちではない。一年前のデビューの時とは違う。私はお兄様の手を強く握った。
「ありがとう。お兄様が一緒だととっても心強いよ。私も当日まで頑張るから」
「ロザリーはそのままで良いんだよ」
「そういう訳にはいかないわ。まだ時間もあるんだから、できる限りのことをしたいもの」
そうだ。肩の傷を笑う声なんて跳ね飛ばすくらい、殿下の隣が相応しい『ご令嬢』を演じてみせる。演じるのは得意だもの。
『クリストファー』の仮面を捨てた筈の私は、気づけば『ロザリア』の仮面を手にしていた。
◇◇◇◇
新しく手にした『ロザリア』の仮面は、思った以上に窮屈だった。微笑み一つとっても、他人のみたいなの。お母様には手放しで褒めて貰えるようになったけれど、これで良いのか不安で一杯だ。
お兄様には毎日「無理はしなくて良いんだよ」と頭を撫でられる。私は今、そんなに無理をしているように見えるのだろうか。無理はしていないと、首を横に振れば、お兄様は毎回困ったように笑う。
私はまたお兄様を不安にさせてしまったのかもしれない。もっと上手に笑わないと。けれど、そう思えば思うほど、うまく笑えなくなってしまった。
冬に近づくにつれて、変化していくことが沢山あった。
一つはお父様のお手紙が段々と減っていったこと。愛するお母様の為に、律儀に毎日のように届く手紙だけれど、随分と薄くなったなと思う。文字も少し慌ただしさを感じる。王宮も忙しいようだ。
殿下も忙しくしているかな。身体を壊していないか心配だ。
一番の変化はお兄様。驚くほど、ぐんっと身長が伸びたの。別荘に来た時にはそんなに変わらなかった目線が随分と高くなった。お医者様が言うには、運動を始めたお陰だという。ますます格好よくなった。昔から王子様みたいだったけれど、絵に描いたようだ。
随分と身長に差ができてしまって、お兄様と二人「もう取り替えっこはできないね」と私達は笑い合った。
そんなお兄様に悲鳴を上げたのは、仕立て上がった衣装を持ってきたマダムだ。袖も裾も足りていないお兄様の姿を見て、文字通り頭を抱えていた。けれど、「新しいインスピレーションが湧いてきましたわ!」と叫んでもいたから、嬉しい悲鳴でもあったのかもしれない。
私の目の前で、『ロザリア』のお披露目の為に用意されたドレスを身に纏った少女は、ニコリと笑う。
小さな頃、鏡の中には別の世界があるという物語を読んだことがある。ならば、この少女はもう一つの世界の『ロザリア』なのだろう。
私は、鏡の中に映る『ロザリア』を見ながら思わずため息を吐いた。無意識のため息に慌てて辺りを見回す。誰も見ていないことを確認すると、ホッと胸を撫で下ろした。
『ロザリア』の為に用意されたドレスは、深紅の薔薇のようなドレス。物語のお姫様のようにふんわりと広がるスカートは、今流行りの形らしい。
リーガン侯爵夫人への対策らしい対策なんて、心構えくらいだった。肩の傷を消すことは不可能だし、リーガン侯爵夫人に口止めをすることも難しい。
殿下の婚約者という意味合いを込めた赤い薔薇のドレス。本物の髪の毛で作られた偽物の長い髪。
「なんだか私じゃないみたい」
鏡に映る少女は、憂いを帯びた瞳で私を見ていた。
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