116.前途多難
馬車を走らせること二日。何度か休憩を取った後、たどり着いた北の領地。『ロザリア』としての第一歩を踏み出す別荘は、森の緑と池の青に囲まれた静かな屋敷だった。
本邸から一緒に来たのは、侍女のメアリーとシシリー、セバスチャンとクロード。そして、お医者様がこの旅に付き添った。全員私達の秘密を知る者だ。残りは地元に住む数名を雇い入れた。私達には関わることのない雑事は、その人達に任せることになるらしい。
到着してすぐにお兄様は熱を出した。長旅で疲れが出たのだというお医者様の言葉に、私の瞳は涙で一杯になってしまう。看病という名目で、お兄様の部屋にへばりついた私は、久し振りに見た赤い顔に再び不安で胸を一杯にした。
「泣き虫なお姫様に戻ってしまったね」
いつもより熱を帯びた手が、私の頬を撫でる。その時、これからは妹として兄『クリストファー』を支えなければと、奮起した。
けれど、『ロザリア』としてどうすれば良いのだろう?
私はお兄様の為に何ができる? この熱すら代わってあげることのできない非力な私に、できることなどあるのだろうか。
今私にできることなんて、お兄様のことを元気付けることくらい。私はまだ熱を帯びた額に手のひらを当てながら、微笑んだ。
「元気になったら近くの池に遊びに行こう? 変わった花が咲いているらしいよ」
「なら、その花が枯れる前に治さないといけなね」
お兄様がにっこりと笑顔を返してくれる。元気付けるつもりが、逆に元気づけられてしまった。
数日もすれば、お兄様は何事も無かったかのように元気な顔を見せてくれる。どんなにお医者様に「大丈夫」と言われても、小さな頃から苦しそうにしているお兄様を見ていた私は元気になるまで不安で一杯だった。元気な姿を見つけると、思わず抱きしめてしまう程に。
お兄様は私の背をさすりながら、「大袈裟だ」と笑っていた。
「泣いていたら遊びに行けないよ」
「泣いてないから大丈夫」
身体を話して笑って見せたけれど、瞳には随分と涙が溜まっていた。誤魔化すように、約束の池に行こうと私はお兄様の手を引く。けれど、そう上手くいく筈もない。
すっかり元気になったお兄様と目に涙を浮かべる私を見ながら、お母様は腕を組んでにっこりと笑う。その姿はさながら女王様みたいで、私は思わず肩を震わせてしまった。
「あなた達。目的を忘れてはいませんね?」
私達はお母様の恐ろしい笑顔に、どうにか笑顔を返しながら、顔を見合わせた。
そうだ。初めての長距離の移動、初めての領地、初めてだらけで浮かれていたけれど、これはただの旅行でもなければ、療養でもない。
私達は、一年半の帳尻を合わせないといけないのだから。
その日から始まった勉強は厳しいもので、私は毎日のように悲鳴を上げることになった。
『クリストファー』は夜会やアカデミー等、多くの場所に顔を出している。私達は双子とはいえ、別々の人間だもの。どんな人とどんな会話をしてきたか、細かく教えることが必要になってくる。冬には皆がお兄様を以前のままの『クリストファー』として話かけてくるだろう。顔見知りに「初めまして」なんて返事が出来るわけもない。
私はお兄様に沢山のことを話した。それは、令嬢との簡単な挨拶から、アカデミーの配置に至るまで。全部だ。
夜会に参加することが多かった分、知り合った人は数知れず。特にダンスの相手が必要な分、令嬢の知り合いは数え切れない。
最初の内は隣でこっそり教える方が良いのかもしれないと、私は真剣に悩んだ。
お兄様も初めて名前の羅列を見た時は、その綺麗な眉を顰めた。けれど、少し悩だ後に何でも無いようににっこりと笑う。
「心配しなくても、困ったら、『妖精さん』とか『蝶々さん』とか呼べばその場しのぎにはなるから大丈夫だよ」
「お兄様」
お兄様の手にかかれば、夜会が御伽噺の世界に早変わりしそう。でも、さすがに一晩中そんな呼び方をすれば、勘のいい誰かが気がつく。抗議の目を向けると、お兄様は肩を竦めた。
「さすがに多用はできないから、特徴を教えて?」
人の名前だけで目が回りそうになる量を、お兄様はさらさらと覚えていった。
反対に、人の目に余り触れていない『ロザリア』は自由度があると言っても過言ではない。だから、元の私に戻れば良いと安易に考えていた。けれど、『ロザリア』も別邸の小さな部屋にずっと籠っていたわけではない。屋敷の使用人が違和感を感じるようではいけないとお母様は言った。
それに、病気で臥せっていたとは言え、ウィザー公爵家の娘として恥じない行動が求められる。ましてや、『ロザリア』は王太子殿下が求める、婚約者候補なのだから。
私が失敗をすればウィザー家に、そして『ロザリア』を選んだ殿下に迷惑が掛かる。私だけが笑われるのなら、甘んじて受け入れることもできる。けれど、お父様やお母様、お兄様だって笑われるかもしれない。そして、殿下にまで波及するだろう。
そんなのは絶対に駄目。
冬までに、私は完璧な令嬢にならなくてはいけない。私は、ぎゅっと両手を握りしめた。
けれど、染みついた『クリストファー』としての習性は、世間で謳われる『ロザリア』とは程遠い。
「それにしたって、深窓の令嬢はないと思う」
私とお兄様はようやっと手に入れた休憩時間を利用して、すぐ近くの池の畔に遊びに来ていた。深い緑と優しい青に囲まれたこの場所は、すぐに私達のお気に入りの場所になっていて、既に何度か足を運んでいる。別荘からは歩いてもそこまで遠くない。馬で走れば一瞬だ。
王都では、女性が馬に乗ることは少ないけれど田舎に来ると別のようで、地元から雇われた使用人は女の私にもあっさりと馬を用意してくれた。ただ、乗馬を嗜む婦人達のような横乗りはできなくて、今まで通り馬に跨ると、使用人も目を丸くする。
『ロザリア』は馬に乗れないことにしよう。私は心の中で小さなため息を吐いた。
近くの木に馬を二頭繋いで、池の周りをぶらぶらと散策する。池の中を覗き込むと、不思議な模様の魚がいたり、変わった草がふよふよと浮かんでいて飽きないのだ。野に咲く珍しい花を見つけることもできる。ここは新しいものだらけの不思議な場所。
敷き布を広げて、お兄様と一緒に寝転ぶと、私の世界が空に変わる。
木々の緑と空の青。絵に描いたような雲が浮かんでいた。池の魚が水音を作り、鳥達が噂話に興じている。
殿下にも見せてあげたい。
ふと浮かんだ彼の顔は、少し困ったように笑って、すぐに消えた。
食事や勉強の際にお母様から聞く『ロザリア』は、病気勝ちな深窓の令嬢でお淑やか。絵に描いたようなご令嬢のようだ。
それに引き換え、私はと言えば歩くたびに「歩幅が広い」と注意を受ける。終いには「立ち振る舞いが男らしい」とまで言われてしまった。
私の知っている深窓の令嬢からは程遠い。
理想の『ロザリア』に近づこうとすればする程、本物の私からはどんどんと遠のいていって、窮屈なものになっていく。
「噂は噂。気にしなくて良い。ロザリーはそのままで充分魅力的だよ」
お兄様が笑顔で慰めてくれる。今日もまた、隣に寝転んだお兄様が優しく頭を撫でてくれた。お兄様の言葉に甘えたい気持ちは大きい。けれど、今のままで良いとは思えなくて、私は頭を横に振った。
「ありがとう。でも、最後まで頑張るよ」
「忘れていたよ。やると言ったらやるのがロザリーだった。一緒に頑張ろう」
私はお兄様の手をぎゅっと握って頷いた。私は一人ではない。だから、ウィザー家に恥じない令嬢になろう。
「クリストファー様〜?」
シシリーの声がする。寝転んでいるから見つけられないのかもしれない。私を呼ぶ声に、慌てて起き上がった。ぐるりと見渡せば、シシリーが別荘の方から走ってくる。
居場所を示すように片手を上げた。
「どうしの? シシリー」
シシリーは私の元まで来ると、長い睫毛を瞬かせる。
「ええと……」
「私に何の用かな?」
私が首を傾げると、シシリーは少し困ったように眉尻を下げた。何か問題でも起きたのだろうか。不安が胸に渦巻いた。
「その、クリストファー様に用事がありまして」
それは短い間だった。鳥の笑い声が何処かしらから聞こえてくる。シシリーと私は呆然と見つめ合うことしかできない。
ロザリアに戻ったというのに、私はクリストファーの気分で反応してしまった。
隣に寝転んでいたお兄様がゆっくりと起き上がると、困ったように眉を下げる。
「一年半も呼ばれ慣れた名前だから、ロザリーが『クリストファー』に反応するのも無理ないよ。私も自分の名前を呼ばれたというのに、他人事のような気分だったしね」
私とお兄様が一緒にため息を吐くと、シシリーは苦笑を浮かべる。前途多難な日々を応援するかのように、水辺の魚がぽちゃりと跳ねた。
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