108.青薔薇の貴公子3

 先陣をきるために私は殿下に挨拶をすると、アンジェリカを伴って階段を降りた。多くの視線が集まる。なんだか、初めて舞踏会に来た時みたいに心臓が駆け足になっていく。


 私自身を落ち着かせるために、お兄様のような優しい笑顔を絶やさないことだけを意識した。すると、自然と胸の音が落ち着いていく。なんだかお兄様の力を借りているみたいだ。屋敷にいるお兄様が隣にいてくれているみたいで、とても心強い。


 反対に、アンジェリカは終始余裕そうな顔で笑っている。この注目の中で、ここまで堂々としていられる彼女に感心した。私の視線を感じてアンジェリカが首を傾げる。そんな彼女を頼もしく思いながら、私は小さく首を振るに留めることにした。誤魔化すように笑うと、彼女に何か言いたげな視線を向けられてしまった。


 私達二人の為だけに演奏が始まる。広いダンスホールに二人。なんて贅沢な時間だろうか。ダンスホールの中央で、私達は向き合った。形ばかりの礼を取って歩み寄り、最初のダンスを舞う。二人だけのダンスなんて、演劇で披露したくらいだ。演劇の時は、別の緊張があった。何故だろう。あの時よりも緊張している。人の視線を感じながらの一曲は、酷く長く感じた。


 けれど、不思議と「早く終われ」という気持ちにはならない。アンジェリカに軽口を叩けるくらいには、楽しむことができている。


「さすがよね」


 アンジェリカが小さく笑う。私は首を傾げる代わりに、目を瞬かせた。アンジェリカは、身を寄せて私に耳打ちをする。


「余裕そうじゃない」


 アンジェリカも同じことを思っていたのか。それを知ると、なんだか面白くて、私の頰が緩んだ。アンジェリカも、私と同じくらい緊張しているのかもしれない。


 そう思うと、今以上に酷く親近感がわいてくる。


 私の笑顔を余裕の笑みと取ったのか、アンジェリカは小さく息を吐いた。


「常に注目を浴びている人は格が違うわね」


 口を尖らせて怒るアンジェリカに、私は肩を竦めることしかできない。何せ私も緊張している。今だってステップを間違えないかヒヤヒヤしているのだ。


 最近はシェリー役の為にダンスも女性側の練習ばかりだった。こんな注目を浴びている中で、アンジェリカの足を踏んだら目も当てられない。


「でも、近くに良い見本がいて助かったわ」


 アンジェリカは楽しそうにくるりと回る。長い髪が遅れてついていく。豪快に回ったアンジェリカを慌てて支えると、彼女は肩を揺らして笑った。


「ルドルフは貴方を見本に演じたのよ。わからなかった?」


 アンジェリカの口角が得意げに上がる。そんな話は初めて聞いた。秘密の特訓の間だって、彼女はそんな話を一度だってしていなかったのだから。私は驚きに目を丸くした。そんな私を前に、アンジェリカは笑っているだけだ。


 けれど、思い返してみても、私よりもずっと格好良かったと思う。ルドルフが登場すると、他より大きな歓声が沸くのが分かった。一挙動、一挙動が観客を魅了する。アンジェリカの演じるルドルフはそんな役柄だった。私は足元にも及ばないと思う。私は少し考えた後、曖昧に笑った。


「わからなかった。それに、私より素敵だったと思うよ」

「貴方の悪い所って、そういうことをサラッと言うところよね」


 アンジェリカのため息まじりの言葉に私は首を傾げるしかなかった。けれど、彼女はそれ以上何も答えてくれない。そうしている間に、曲が終わりに向かって歩き出す。そうなってくると、あとは二言、三言交わすのみ。最近朝から晩まで一緒にいたとあって、わざわざダンスの間に話すこともあまりないだから仕方ない。


 そして、『ロザリア』だと知られた今、『クリストファー』として会話を重ねるのは何だか気恥ずかしくも感じるのだ。


 そんな気持ちを理解してか、アンジェリカは周りに余所行きの笑顔を振りまいている。一部の令嬢が熱い視線を投げかけているけれど、アンジェリカに気にした様子は無かった。


 社交場は色々とある。お茶会や晩餐会もそうだ。私はその中でも舞踏会が一等好き。楽しい音楽が鳴り響き、色とりどりの花が咲き乱れ、くるくると円を描く。とりわけダンスが好きだ。たった一曲の間に二人きりの思い出が沢山増えるから。


 踊っている間、二人きりの特別な時間はたった一曲。けれど、この短い時間は一対一なのだ。手と手を合わせ、身を寄せ合う。初めて手を取り合った時は、他愛のない会話をしていただけだったのに、回を重ねる毎に気安くなっていく。何度も手を重ねる度に、相手の呼吸を感じることができるようになる。


 相手の手の温もりや息遣いを感じることができるのは、たった一曲の間のみ。私はその短い時間がとても愛おしいと思う。


 この一年で沢山の令嬢の手を取った。他愛のない会話もしたし、楽しい話を聞いたこともある。今日も楽しい思い出を作って帰らなければ。


 アンジェリカとのダンスが終わると、拍手が贈られた。なんだか演劇が終わった後のようで気恥ずかしい。そんな気恥ずかしさを消すように、二曲目が軽やかに流れ始めた。空白ばかりだったダンスホールにも人が溢れ、楽しそうな笑い声が広がる。私達は踊り始めた人の間をぬって、ダンスホールを出た。


 元の席までアンジェリカをエスコートしようと一歩踏み出すと、彼女に思いっきり腕を引かれた。突然のことに驚いた私は、目を大きく見開いて彼女に視線を向けた。


「何かあった?」

「ここで充分よ。貴方はあの男と違って、沢山の女の子達に一曲分のあまーい夢を見せてあげるんでしょう?」


 甘い夢――そんな大層なものではない。けれど、今日は沢山の人にきちんとお別れがしたいと思っていた。もう『クリストファー』として会うことはない皆と。元に戻ったらまた一から関係を作らなくてはならない。それに、女同士ではダンスはできないもの。


 本当にこれが最後。


 私は、素直にアンジェリカの行為に感謝した。手を離す前に、私は彼女の手を強く握る。すると、彼女はほんの少しだけ口角をあげた。


「ありがとう」

「良いのよ。それに、私ばかり貴方を独占していると苦情がくるもの」


 私の手からするりと離れると、手をひらひらと左右に振り、一人で殿下やレジーナの居る席へと戻っていく。


 彼女の背中を目で追う。すると、ふと殿下と目が合った。殿下は視線でダンスホールを指す。彼も私が今日が大切な日だと思っていてくれているのだろうか。「踊るんだろ?」と言いたげな顔に、私は笑顔で応えた。


 ダンスホールでは、楽しそうに踊っている男女達が大勢いる。いつもよりも少しだけ浮ついて見えるのは気のせいではないかもしれない。


 楽しそうに会話をする姿、見つめ合う姿、気恥ずかしそうに目を逸らしながら踊る姿。この会場には優しい空気であふれていた。


 私はそんな空気を味わうように、ゆっくりと息を吸い込む。すると、熱い右から視線を感じた。


「お久しぶりです。クリストファー様」


 視線を巡らせると、琥珀色の瞳が私を見つめている。可愛らしいピンクのドレスを着て、長い亜麻色の髪には可愛らしい花が飾られていた。まるで春の妖精だ。見知った顔に、私は顔を綻ばせる。


「レベッカ嬢、ご機嫌よう」


 レベッカは頬を染めて挨拶を返すと、恥ずかしそうに目を伏せた。長い睫毛が恥ずかしそうに頬に影を作る。レベッカはアカデミーには在籍していない。この舞踏会に来たと言うことは、来期に入学を考えているのだろう。


「今日は来てくれてありがとう」


 私が主催をしているわけではないけれど、なんだか嬉しくなって、主催者気取りで礼を言ってしまった。こんなこと言っていたなんて知れたら、殿下やアンジェリカには笑われてしまうかもしれない。


 レベッカは頬を染めながら、小さく頷いた。そして、恥ずかしそうに俯く。何か言いたいことがあるのかもしれない。私は彼女の言葉を待つことにした。


 彼女が口を開くまで、周りの音に身を寄せる。優しい音色が私達を包んでくれていた。レベッカにもその優しさが伝われば良い。楽しそうな会話が遠くから聞こえてくる。いつも夜会で耳にするよりも、若い声が多い。


「演劇、素敵でした! でも……」


 彼女は何か言いたげに瞳を揺らす。大きな目から溢れそうなくらい大きな琥珀色の瞳が、ゆらゆらと揺れていた。


「でも?」


 やっぱり女役は似合っていなかったのかしら?


 だとしたらとても悲しい。あと数ヶ月でロザリアに戻ることができるのか、不安が過ぎる。けれど、レベッカの言葉は予想に反していた。


「今の方がもっと素敵です……!」

「ありがとう。嬉しいよ」


 きっと、最後まで上手く『クリストファー』になれているということなのだろう。今日の衣装は特別拘った。だから素敵だと言われればとても嬉しい。けれど、女としては少しばかり複雑な気持ちを隠しつつ、私は微笑んだ。


 二曲目が終わろうとしている。三曲目に入る前に私はレベッカの前に手を差し伸べた。


「レベッカ嬢。よろしければ、一曲踊って頂けませんか?」

「よろこんで」

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