98.六年の隙間

 それから私達は、扉が叩かれるまでの短い間、お互いを確かめるように抱きしめ合った。部屋を出て行く時には、殿下はいつもの顔に戻っていて、いつも通りの明日が来るような感覚にされらる。


 まるで、友人の見舞いに来たような、そんな涼しささえ感じた。


「じゃあな、クリス。数日はゆっくり休め」


 私は「はい」とも「いいえ」とも言えぬまま、ただ扉の向こうに消える彼の背中を見送るのみだった。彼が離れても、触れていた場所が熱い。身体に残る熱を消化できぬまま、私はベッドの上に倒れこんだ。


 その後の事は良く覚えていない。次に目が覚めた時には優しい日差しが部屋の窓から差し込んでいた。私の手を握るお兄様の顔が少し疲れている様子から、随分と心配をかけたらしいことがわかる。私は素直に頭を下げると、お兄様は何度も首を横に振った。


 お医者様に診てもらいながら、二日間も熱にうなされていたことを知る。私を見るお兄様の瑠璃色の瞳が不安そうにゆらゆら揺れて、長い睫毛が影を落としていた。


 これ以上、お兄様の心に負担をかけたくない一心で、私は口角を上げる。


「大丈夫。もうすっかり良いみたいだから」


 いつも『クリストファー』がするみたいに頭を撫でれば、お兄様は困ったように笑った。


「もう、無理はしないで」

「うん。って、言いたいけど、また同じことがあったら、きっと同じように走ってしまうかな」


 そうしたら、またお兄様も殿下も苦しそうに顔を歪めてしまうのかしら。それでも私は、殿下やお兄様に危険が迫った時は、きっと走ってしまう。私は困ったように眉を下げて肩を竦めた。


 お兄様の小さなため息が、ぽとりと落ちる。同じように眉を下げたお兄様は、私の頭をポンポンと撫でた。


 こんな風に頭を撫でられると、何だか心がくすぐったい。


「仕方ないか。小さな頃からそうだった。今更かな」


 私は諦め顔のお兄様に、腕を伸ばして思いっきり抱きしめた。お兄様は、驚いたように小さく声を上げたけれど、すぐに力を抜いて大人しくしてくれる。だから私は気をよくして、抱きしめる腕に力を込めた。


「そう、だからアレクもロザリー・・・・も私が守る」


 お兄様の温もりが、じんわりと伝わってくる。お兄様も私の背中に手を回してくれた。胸がぽかぽかしていくような気持ちに、私は頬を綻ばせる。


 殿下の時とは全然違う感覚。けれど、私はこの温もりも大好きで、二つとも守りたいと願ってしまう。その為に、私はもっと強くなろう。殿下もお兄様もいっぺんに守れるくらい。


 私は何だか楽しくなって、思わず笑ってしまった。隠れて笑うつもりが、肩が震えてしまう。お兄様も私につられるように笑った。腕を解いて、向かい合えば私達はもう一度頬を緩める。


「良いよ、私も強くなってお兄様のこと守るから」


 お兄様が三日月みたいに口角を上げた。あまりにも不敵に笑うものだから、私の口からは笑いが溢れてしまう。お兄様も同じように笑っている。何だか胸がぎゅっと締め付けられて、私は一度解いた腕をもう一度強くお兄様に絡めた。


 私達が二人でベッドに座ってお話しをしていると、部屋にお父様が訪れた。こんな珍しいことはあまりない。驚いて目を丸くさせてしまったくらいには。だって、仕事ばかりでいつも屋敷にいないお父様が、こんなに明るい時間にいらっしゃるのですもの。けれど、お兄様はあまり驚いていないみたい。


「そんなに驚いてどうしたのかな?」


 私達の前までやってきたお父様がにこやかに笑う。今日はお休みだろうか? 私は首を傾げた。


「今日は出仕しなくても大丈夫なんですか?」

「大丈夫だよ。愛する子供達の為なら、一日や二日。私の仕事は全部押し付けてきたからね」


 押し付ける先が一つしか思い浮かばない。きっとそれは駄目なやつだ。「大丈夫」を二度唱えたお父様の笑顔に、私は顔を引きつらせる。けれど、お父様は気にした様子もない。


「さあ、クリストファー。お父様にすることがあるだろう?」


 お父様は優しく微笑むと、私の顔を覗き込んだ。お父様の瞳が優しくキラキラ光る。隣に座るお兄様が、私の背中を優しく押した。お兄様の方に顔を向ければ、優しく頷かれる。お父様は、催促するように首を傾げた。


 お父様とお兄様に見つめられて、何だか気恥ずかしくなって私は、きゅっと口を結んだ。


「私は本来最初に得られる権利を未来の婚約者殿に譲ったんだから、ね?」


 お父様がもう一度、催促するように首を傾げる。お兄様も私の背中を再度押した。


「父上……いや、お父様・・・。ごめんね」


 私は立ち上がり、ゆっくりとお父様に向かって腕を伸ばす。


「六年振りに娘を抱きしめることができるんだね。ああ、今は息子かな」


 お父様がそっと私の背中に腕を回す。私は背伸びして、お父様の首に腕を回した。六年振りのお父様は優しい香りがする。私はゆっくりと息を吸い込んだ。お父様の優しい香りを、身体中に感じて、私は目を細めた。お父様の体は、ほんの少しだけ震えていた。


「大きくなったね。目で見る成長と、肌で感じる成長がこんなにも違うなんて知らなかったよ」


 今、お父様は笑っているのだろうか。お父様の笑顔は容易く想像できた。けれど、もしかしたら泣いているのかもしれないと思ってしまう。だって、私の目には大粒の涙がたまってしまっているのだもの。


 今にも涙が流れてしまいそうで、私は天井を仰ぎ見た。けれど、努力の成果は全く得られず、頬を伝って涙が流れていく。


「お父様」

「うん」

「お父様」

「なんだい?」

「……おとうさま」

「そうだね、私も嬉しいよ」


 お父様の手は、子供をあやすみたいに、ぽんぽんと背中を撫でる。お父様が優しい言葉をかけるほど、私は涙を流した。相変わらず『ロザリア』は泣き虫で、すぐに泣いてしまう。


 私は「ごめんなさい」も「ありがとう」も言えなくて、ただ「お父様」と呼び続けた。


 すっかり『ロザリア』に戻ってしまった私は、お兄様とお父様と一緒に仲良く三人でベッドの上に腰を下ろした。なかなか泣き止まない私を見兼ねて、お父様は胸を貸してくれる。私は一切の躊躇ちゅうちょも無く、お父様の胸の中に埋もれた。


 お父様が優しく私の肩を抱く。お兄様が私の背中を優しく撫でてくれる。私は二人に甘えるように、涙が引いても尚、お父様に体を預けたままにした。


 お父様とお兄様は、私を挟んで小さな頃の思い出話しに花を咲かせる。ずっとずっと昔の物語のような気がした。


「そういえば、父上は何故あの場を譲ったのですか?」

「ああ、先日のことかな? ロザリアが望んだからだよ。私は可愛い子供達の味方だからね。それに、こういう時に貸しは作っておくものだよ。クリストファー」

「そういうことですか」

「あれは父親と一緒で、一途で向こう見ずなきらいがある。愛する人の為なら大抵のことはする」

「そうですね」

「とはいえ、母親の特性も随分引き継いでいるようだから、一筋縄ではいかないだろうね。敵になるなら、だけどね」


 何だかお父様とお兄様の会話に不穏な空気を感じて、私は頭を上げた。そうすると、お父様は優しい笑顔で私を迎えてくれる。話の内容と笑顔が結びつかなくて、私は小首を傾げた。


「我が家のお姫様はようやく泣き止んだのかな? あと六年分くらいお父様の所にいても良いんだよ?」


 お父様は私の頭を撫でた。大きな手がくしゃくしゃと搔き回す。私は目を細め、肩をすぼめた。


「二人とも、今まで良く頑張ったね。君達はお互いを守る為にこの茨の道を選んだ。数ある選択肢の中から誰も選ばないような道だった筈だよ。そして、運命に勝ったんだ」


 お父様は私の頭から手を離すと、お兄様の頭も撫でる。お兄様は少し困ったように目を細めていた。お父様は立ち上がると、私達の前に膝をつく。ベッドの上に座る私達を見上げて、微笑んだ。


「クリストファー、ロザリア。そろそろ元に戻る必要がある。でも、それが簡単じゃないのはわかるね?」


 お父様の真剣な瞳に、私達は静かに頷いた。柔らかな笑みが返される。


「芸術祭が終わったら、二人はお母様と領地へ行きなさい。名目上はクリストファーの領地の視察と勉強、そしてロザリアの療養だ。期間は冬の舞踏会が始まるまで。それまでに、二人はお互いの情報を共有するんだ。いいね?」


 お父様の言葉に、私達はもう一度頷いた。お父様の真剣な表情に、私達の背筋が伸びる。『クリストファー』としての生活もあともう少しで終わる。私は、どことなく寂しい気持ちで胸がいっぱいになった。


「本来の二人になって戻っておいで。そして、幸せをつかみなさい」


 お父様の目を覗き込んで、にっこりと笑った。お父様も嬉しそうに笑い、私達の頭をもう一度撫でた。


 控え目に扉が叩かれる。私達は皆で突然の来訪者を視線で迎え入れた。扉から入ってきたシシリーは、困ったように眉を下げている。


「それが、ミュラー侯爵家のアンジェリカ様がクリストファー様のお見舞いにいらっしゃいました。どうやらクリストファー様と重要なお話しを、その……二人きりでなさりたいとか」


 シシリーは下がっている眉を更に下げて俯く。思わず私とお兄様は顔を見合わせてしまった。



 ◇◇◇◇



 アンジェリカを迎え入れた私は、彼女の希望する通り部屋に二人きりとなった。本来ならば男と女が部屋で二人きりになるのはと、お父様は渋ったけれど、実際は女同士。しかもアンジェリカの様子から、用事が見舞いだけとは思えなかった。


 噂が出回るようなことになれば、アンジェリカはクリストファーではなくロザリアに会いに来たことにすることを条件に、二人きりになることを許されたのだ。


 日差しが入り込むサロン。アンジェリカの希望で侍女も外に出した。アンジェリカにしては珍しく、出された紅茶に一切触れもせず、腕を組む。


「本当のことを教えて頂戴。クリストファー様。いいえ、ロザリア様かしらね?」


 私は、アンジェリカの言葉に目を丸くした。私からではアンジェリカの表情は日差しが邪魔をして良く見えない。三日月みたいに口角が上がっているのだけが、見て取れた。

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