93.焦り

 殿下の号令で動き出した芸術祭の準備は、驚く程にうまくいっていた。王太子殿下の名は伊達ではないということか。「大抵のことは殿下の名でまかり通る」というのは、アンジェリカの言である。私はその言葉に、苦笑を浮かべる他無かった。


 舞踏会を開く為に、アンジェリカは「まずは署名を集める」と言い、私を巻き込んだ。真っ新な用紙とペンを私に握らせて、アンジェリカは人の悪い顔を見せる。笑顔で課せられた使命に、私は頬を痙攣ひきつらせることとなった。


「良い? 貴方の笑顔で令嬢全員の署名を集めなさい。男共は私がやるわ」


 生徒のの願いで舞踏会を開催するとあれば、アカデミー側も「否」とは言いにくい。それがアンジェリカの言い分だ。ごもっともな意見ではあるけれど、さすがに全員の署名を集めるのは難しいだろう。私は眉をひそめた。私の気持ちを察してか、アンジェリカは形の良い眉をピクリと動かす。そして、ゴホン、と咳払いをすると、別人の様に薄っすらと笑みを浮かべた。


「お前ならできる」


 いつもよりも落ち着いた低い声。殿下の真似をしているのだろう。私は受け流すつもりで、軽く肩を竦めた。けれど、アンジェリカはなかなかいつもの顔には戻らない。彼女は私の返答を所望するように、腕を組んだ。私は仕方なく、用紙とペンをポケットに押し込むと、胸に手を当て首を垂れる。


「承知いたしました。やってみせましょう」


 ようやくアンジェリカは、嬉しそうにニッコリと笑った。その日から、私の署名集めは始まった。


 アンジェリカの要望通り、私は隙あらば令嬢達の署名を集めた。声を掛け、舞踏会の話をすれば、皆揃って署名をしてくれる。全員に声を掛けなければならないということ以外は苦ではなかった。


 日を追う毎に、私から声を掛けなくても、声を掛けて貰えるようになっていく。彼女達の情報網は侮れない。舞踏会の説明をしなくとも殆ど知っているのだから。


 声を掛けた令嬢の内数人が、手伝いを申し出てくれた時には、アンジェリカは腹を抱えて豪快に笑っていた。


 アンジェリカから「良し」と言われたのは、署名が八割方集まった頃だった。その後、アンジェリカの集めた署名と合わせて、企画書として提出されたらしい。舞踏会の話が通ったと聞いたのは、その後会議の中でだった。


 帰りの馬車では、殿下と二人きりで触れる為に試行錯誤していたけれど、なかなか上手くいかない。夏の足音が聞こえてくる度に、私の胸には不安が募っていった。


 迫り来る刻限。けれど、殿下はあまり気にした様子はない。「無理なら対策を考えている」と彼は笑い、決して私に無理はさせなかった。ただ馬車の中で他愛もない会話をする日もある。気遣われているのがわかる分、私は酷く焦っていた。


 演劇の台本が配られ、練習が始まる。新しい演目や展示の内容が増え、打ち合わせも多い。生徒から自主的に新しい企画を提案されることもあった。私達は処理に追われ、少しずつ帰る時間も遅くなっていく。けれど、皆イキイキとしていた。


 毎日が慌ただしく過ぎていく。新しいことが決まり、頭を悩ませながらも、毎日確かに前進していた。だからこそ、私だけが、六年前に取り残されているような不安を募らせてしまっているのかもしれない。


 私は屋敷に帰ってからも、クロードやセバスチャンに手伝って貰いながら、触れる為の練習を重ねた。それでも成果は現れない。不安で眠れない毎日が続いた。


 その日は日差しも強く、暑い日だった。私と殿下は二人で、いつものようにサロンで芸術祭の準備をしていた。珍しく他には誰もいない。


「クリス、顔色が悪い。今日は帰れ」


 書類を整理する私に、殿下は近づき、眉を寄せた。私は「なんともない」と、笑顔で頭を横に振った。ほんの少し寝不足なくらいで、本当に何でも無かったのだ。やる事はいくらでもある。寝不足くらいで皆に迷惑は掛けられない。


 けれど、思いっきり頭を振ったせいかもしれない。目の前が歪む。例外は無く、殿下の顔もサロン中が歪んでいった。うまく足に力が入らない。背中に暖かさと力を感じた。


「おい、クリス大丈夫か?!」


 殿下の声が微かに聞こえる。


 大丈夫、ただの寝不足です。


 そう、言いたいのに、口が回らない。私は闇に包まれてしまった。




 遠くから声が聞こえる。じわりじわりと夢の世界から押し戻されるのを感じながら、身体の外に意識を向けた。


「疲れが出たのでしょう。少し休めば大丈夫です」

「そうか、良かった……」


 聞き覚えのある声が二つ。殿下とお医者様の声だ。私はいつもよりも重い瞼をこじ開けなが、身体に力を込めた。


「ん……」

「クリスッ!」


 瞼を開ければ、酷く狼狽している殿下の顔が映る。まるで、この世界の終わりでも見ているような顔だ。


「すみません……」

「そんなことより、痛いところは無いか? 辛いところは?」


 殿下から矢継ぎ早に問いかけられ、私は目を白黒させた。歪んだ殿下の顔は、私よりも苦しそうだ。


「殿下、クリストファー様も困っておりますから、質問は程々に。今日はこのまま連れて帰ります」


 お医者様はニコニコと笑いながら、私と殿下の間に割って入った。私はこれ以上迷惑かけまいと、精一杯笑って見せた。


「アレク、大丈夫です。ご心配おかけしました。先生まで呼んでいただき申し訳ありません」


 精一杯の笑顔を見せたのにもかかわらず、殿下の顔色は晴れない。それどころか、もっと苦しそうに眉を寄せてしまった。


 お医者様の勧めもあって、帰って休むことになり、私はサロンを後にする。帰り際、殿下はまだ浮かない表情で、私を見つめていた。


「クリス、当分無理はするな。帰りの練習も休みだ」

「それでは……当日までに間に合いません」

「それは私の方で何とかする。安心しろ。今はお前の体の方が大切だ。とりあえずゆっくり休め」


 殿下の言葉が耳から離れない。布団を目深に被っていても、鮮明に聞こえる。


 もしも、本当に最後まで彼の手を触れることさえできなかったらどうなってしまうのだろう?


 もしも、このまま冬まで来てしまったら。


 もしも、このまま一生彼の手を触れることさえ許されなかったら……。


 不安だけが募る。こんな不安な夜は早く終わってしまえと、何度も何度も心の中で唱えた。



 ◇◇◇◇



 次の日から、殿下は宣言通り、帰りの馬車の時間を取りやめにした。そして、彼はひときわ過保護になり、アンジェリカやレジーナは首を傾げている。


「クリスが昨日倒れたから無理はさせない。皆も無理はするなよ」


 殿下の言葉に皆が納得したけれど、私の心は晴れなかった。不安な気持ちは募るばかり、それでも平静を装っていられたのは、ひとえに忙しさのせいだった。無理はさせないとはいえ、忙しければそう言ってもいられない。数日は早く帰っていたけれど、馬車での練習以外、すぐに元通りとなった。


 アンジェリカは、相変わらず不機嫌を表に出していることが多い。最初の頃よりも、殿下に直接文句を言うこともと増えた。私はそれを少しだけ羨ましく思っている。この気持ちをぶつけたら、何か変わるのではないかと、心の隅で気持ちが動いているのだ。けれど、毎日忙しそうにしている殿下に、これ以上負担を掛けるわけにはいかない。何より、この問題は私自身の問題なのだから、自分で何とかしなければ。私は、決意する様にぎゅっと手を握りしめた。


 私の不安をよそに、明日から本格的に演劇の練習が始まろうとしている。

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