67.アレクセイ・セノーディア4
アイリスの花が咲いた頃、家庭教師の目を欺き母のお茶会を覗いたことがある。しかし、そこに会いたかった少女の顔は無かった。母とウィザー公爵夫人が楽し気に笑っているだけだ。
もしかしたら、庭園の花を見ているのかもしれないと淡い期待を胸にそのまま庭園に足を運んだけれど、紫色の見事なアイリスの花が上品に笑っているだけだった。
それ程までに俺との結婚が嫌だったのかと、思い悩むこと数日。俺は珍しく熱を出した。高熱に苦しむ中様子を見に来た母は、「知恵熱ね」と笑った。熱にうなされる中、心配すらされないことに憤りを感じたのは言うまでもない。
ベッドに噛り付くこと七日。当に熱は下がっていた。それでも何となくベッドから起き上がる気分ではなく、俺は人生で初めての仮病を使ったのだ。こんなにも胸を痛めているのだから、これしきのことで咎める者も罰するものもいないだろうと自分自身の傷を舐める。しかし、思った以上に仮病には重い罰が下った。
夕暮れ時。目深に被った布団の隙間から、俺は赤に染まる夕日を眺めていた。そろそろ横になり過ぎて首回りや肩が痛い。布団の中でうじうじしているのも今日が限界だと感じていた。
誰に言うわけでもない言い訳を考えていると、ぎしりと、小さな音が鳴った。侍女の誰かが俺を起こさない様に入室したのだろうか。小さな足音はベッドへと近づいてくる。あまりの不気味さに身を強張らせた程だ。
しかし、足音はいとも簡単にベッドを過ぎ去っていった。安堵のため息を喉元で留め、布団の隙間から見えないものかと凝視すると、出窓に花瓶を置く侍女の姿を見つけた。
しかも、今俺を苦しめているアイリスの花。
「なんで……」
久しぶりに出した声は思った以上に掠れていた。俺以上に驚いたのは、突然声を掛けられた侍女だったのだろう。肩を震わし、振り返って見せた顔は戦々恐々としていた。
「起こしてしまい申し訳ございません、王太子殿下。早く飾った方が良いかと思いまして」
「それは、母上からか?」
心痛の息子を
「いいえ、ウィザー公爵令嬢ロザリア様からとお聞きしております」
「ロザ……リア……?」
全ての音が霧散した。色々と聞きたいことは沢山ある筈なのに、俺は好きな女の子の名前を頭の中で反芻することしかできない。しかし、戸惑う侍女の一言で現実に引き戻された。
「え、ええ、殿下の体調を心配されていたみたいです」
「今日、来ているのか?」
「はい。先程帰られ――」
侍女の言葉を最後まで聞かず、俺は部屋を飛び出していた。もしかしたら、まだ会えるかもしれない。ほんの少しでも可能性があるのならば、それに賭けたかった。
王宮内を走るのはいつ振りだろうか、「王太子として」は褒められたものではない。しかし、沈む夕日が「急げ」と言っている。
王族の居住空間から、王宮の馬車寄せは遠い。息を切らして走り切った頃には、真っ赤な夕日は既に隠れ、
「あらあら、そんな格好で、困った子ね。アレクセイ」
落胆した背中に浴びたのは、聞き慣れた声だった。振り返れば、母が楽しそうに笑っている。
「母上、何故このような所に」
「そっくりそのまま返すわ、アレクセイ。それに、そのような格好でどうしたの? 夢でも見ていたのかしらね?」
王妃と王太子。馬車寄せには到底似合わない。しかも、俺は着替えてすらいなかった。
「母上、ロザリアが来ていたと聞いて」
「ええ、アイリスの花を見に来たのよ。そういえば、『アイリスを数本頂けませんか』ってお願いされたのよ。
母は優しく俺の頭を撫でた。けれど、それが優しさからではないことくらい、俺にでもわかっている。
「何故、呼んでくれなかったのですかっ!」
「あら、貴方は体調を崩していたのでしょう? 無理はいけないわ」
「でも、ロザリアが来るなら――」
無理してでも会いに行った。そう言いたかった。ただの仮病だったわけだから、無理でも何でもない。しかし、言い終える前に、母の両手に俺の頰が強く挟まれてしまった。思うように言葉が出てこない。
「貴方はまだ子供ね。早く良い男におなりなさい。振られたくらいで引き籠っている男は良い男とは言えないわ」
母には全てお見通しなのだろうか。仮病を言い当てられた俺は、恥ずかしさにもう一度布団の中に潜り込みたい衝動に駆られた。けれど、ここは馬車寄せだ。しかも、冷静に考えて今の格好はいただけない。夜着の上に裸足であった。
冷静になればなるほど恥ずかいことこの上ない。
「母上」
「何かしら? 謝罪ならいらないわよ。貴方には充分な罰だったでしょう?」
母は目元と口元に薄い微笑みを浮かべた。俺は頷くことしかできない。もう、仮病など出来ない程に、大きな罰だったのだから。
「ロザリアにアイリスのお礼を言いたいのです」
「あら、そうね。贈り物にはお礼が必要だもの。手紙と贈り物を送って差し上げたら?」
「いいえ、直接渡したいのです」
母が満ちた月のように、目を丸くさせる。俺はそのアイリスの花みたいな目を真剣に見つめた。
「男の顔もできるのね。いいわ、アレクセイ。でも、条件があるわ。何でもできる?」
「できます」
ロザリアの為なら、何だってできる気がした。勉強もマナーも、剣術や馬術だってなんだって。
「そろそろ……とは思っていたのよ。貴方には、次のお茶会に参加して貰います」
母が見せた笑みは、背筋が凍る様な笑みだった。しかし、俺には選択肢は無い。ここで頷かなければ、当分ロザリアには合わせて貰えないだろう。俺は、唇をギュッと噛み締めながら、神妙に頷いた。
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