31.王立アカデミー編入騒動1
溶けてしまいそうなくらい体が重くて、凍えそうなくらい寒くて、なのに蒸発しそうなくらい熱い。お兄様はいつもこんな思いをしているのか。と、朧げに思ってやり過ごした。
久しぶりに引いた風邪は、熱と咳と鼻水を伴い、私の仮病は正真正銘の本物になった。シシリーの看病を受けて二日、私はベッドの住人になってしまったの。寒空の下薄着だったことよりも、仮病を使ったことを後悔していることにシシリーは笑ったけれど。
熱が下がっても、過保護な両親の指示で、更に三日は部屋で大人しくしていたわ。
「熱も出ないようになりましたし、もう大丈夫ですね」
「ありがとう、シシリー」
ガラガラだった声も普通になり、食事も摂れるようになったことに安堵した。健康だけが取り柄だったから、こんなに熱を出したのは久しぶりで、朦朧としながら死を覚悟したりもしたのよ。
ベッドの上で大きな伸びをすると、シシリーは嬉しそうに食器を片付けてくれたわ。
一人残された寝室で、私はベッドから抜け出して、ガウンを羽織った。今日は調子が良いから少し外に出ようかな。なんて、悠長なことを思っていたの。
考える代わりに、バタバタとした足音が聞こえてきた。多分、シシリーね。でも、珍しい。最近の私は、シシリーが走っているところをあまり見たことがないもの。
大きな音を立てて扉が開かれると、息を切らしたシシリーが、慌てた様子で入ってきた。
「た、た、大変ですっ」
「どうしたの?そんなに慌てて」
「で、で、で……!」
「で?」
小首を傾げると、シシリーは大きく深呼吸をした。まだ落ち着かないらしく、左胸の辺りを抑えている。
「で、殿下が、いらっしゃいました」
「へ?」
こんな間抜けな声が出るものなのね。へー、殿下が来たの、ふーん。って、軽い気持ちで考えていたけれど、私は自分の格好を見直して、血の気が引く思いがしたわ。
「と、とりあえず準備をしよう」
「はい」
「今、アレクは?」
「本邸でお待ちです」
シシリーが慌ただしく、クローゼットの中から服を用意してくれている。男性の着替えなんて女性に比べたら簡単なのだけれど、私の体は女性で、男性の体に近づけるための準備は大変なのよ。サラシだって一人で巻けるわけじゃない。
腰を締め付けるコルセットも大変だとは思うのだけれど、胸を締め付けるのも結構辛いのよね。今は、ささやかな大きさで本当に良かったと思っているわ。
何より一番の難所はこの髪の毛なのよ。ふわふわしてて柔らかくて手触りが良いと評判の髪の毛だけれど、寝起きはまさに鳥の巣。一匹や二匹なら飼えそうなの。どんなに急いだって、こればっかりは時間がかかるのよね。
シシリーが最大限に急いでくれているわ。私ができる手伝いといえば、大人しくしていることくらい。私達は会話もせずに、真剣に準備をした。
今までの中では最短で準備をし、慌てながら別邸を出て、急ぎ足で庭園を抜ける。途中マリーからの可愛い妨害を受けたけれど、涙を呑んで別れを告げた。
本邸に戻ると、使用人達の慌てようが伝わってくる。表立ってはバタバタとしていないけれど、明らかにいつもの落ち着いた雰囲気とは違うのだ。それはそうよね。王族がこの屋敷に来たのは六年も前なんだもの。
客間へと移動すれば、お母様が殿下の相手をしてくれているようだ。楽しそうに笑う殿下の姿が見える。お母様は背中しか見えないけれど、雰囲気は良さそう。
「お待たせしました、アレク。今日はどうしたんですか?」
あまりに急いでいて、先日までどんな顔をして会おうとか、色々悩んでいたというのに、そんなのも吹き飛んでしまっていたわ。
殿下は私の顔を見るや否や、眉を顰めた。今みであんなに和やかな良い雰囲気だったというのによ。そんなに待たせてしまったかしら?
「クリス、風邪はもういいのか?」
「ええ、すっかり」
両手を広げて、全身で元気を伝えたけれど、殿下の眉間の皺は取れなかったわ。お母様の隣に座ると、侍女が私の分の紅茶を用意してくれる。フワリと香る紅茶に、目を細めた。五日ぶりの紅茶だわ。
「それで、どうしたんですか?」
「ああ、迎えに来たんだ」
「迎え?」
王宮の勉強会への迎えということかしら? どうしても、というのなら、使者を寄越せば良かったようにも思える。
「なんだ、聞いてないのか?」
怪訝そうな顔をした殿下から、お母様に視線を移すと、すまなさそうに眉を下げ、肩を竦められてしまったわ。
「ごめんなさいね、クリストファー。伝えようと思ったのよ」
何を、でしょうか?
小首を傾げたけれど、お母様が話し始める前に、殿下が立ち上がり、大股で客間の扉に歩いていく。私はその姿をただボーッと見つめてしまったわ。
扉を前で立ち止まり、振り返った殿下を見て、私は慌てて立ち上がった。もう、何がなんだかわからないのだけれど。
「説明は後だ。時間がない。取り敢えず行くぞ」
「はあ……」
入れたての紅茶はお預けのようだわ。まだ一口も飲んでいないのに! 私は、仕方なしに、殿下の後に続いた。
本邸を出て、促されたのは王宮の豪奢な馬車。ウィザー家の馬車も大きくて立派だけれど、それ以上に豪華だわ。
私はウィザー家の馬車でと、申し出を断ろうとしたのだけれど、殿下の無言の圧力には敵わなかった。
六人は乗れそうな大きさの馬車に、乗り込む殿下の後に続く。二人きりの密室空間は少し緊張したのだけれど、思ったよりも広い空間に少しだけ安堵した。
お母様と、ウィザー家の使用人に見送られて出てきたけれど、行き先はどこなのか。私は何も聞かされていない。お母様は知っていたようだけれど。
向かいに座る殿下を見ると、彼と目が合った。まだ機嫌が悪そうだ。
「風邪、本当だったんだな」
「え?」
今日は意味が分からないことが多くて、首を傾げてばかりだわ。
「十日も来ないから、仮病だと思った」
気まずそうにフイッと顔をそらした彼は、窓の外に視線をやっている。私の中の罪悪感がチクリと胸を刺したわ。だって半分は仮病なんですもの。きっと、殿下は仮病だと疑っていたことを申し訳ないと思っているのね。
「仮病ですよ」
私は微笑んでみせた。殿下にそんな顔させることはできないもの。仮病を、きちんと詫びよう。
「嘘をつくな。仮病の奴はそんなにやつれたりしない」
彼は窓の外を見ていて、私の方には顔を向けてはくれなかった。そんなにやつれてしまったのかしら。確かにこの五日、あまり食事は摂れていなかったけれど。そっと、頬に触れて確かめたけれど、自分ではそんなに変わっていないような気がするわ。
困ったわ。きっとこれは、これ以上私が仮病だと言い張っても、彼は首を縦には振らないでしょうね。申し訳ないとは思うけど、この際、十日も病床についていたことにしましょう。
今はそれより、この馬車の空気を変えたかったの。
「それよりもアレク、この状況を教えて下さい」
殿下は大きく息を吐くと、気持ちを切り替えたのか、私の方にようやっと視線を向けてくれたわ。もう、眉間の皺は消えている。
「今日から王立アカデミーに編入する」
「は?」
私が素っ頓狂な声をこんなにあげる日はなかなか無いと思うわ。いけない、思わず眉間に皺が寄ってしまったわ。
「今日は説明を受けに行く」
「そうですか。それで、私が付き添う必要がありますか?」
私は殿下の侍従でもなければ、護衛でもないもの。まして迎えに来て貰ってまで付き添う必要があるものなのかしら。私は首を傾げて訴えた。
「何を言っている。お前も編入するに決まっているだろ」
「……はい?」
もう、これ以上首は傾かない。それに上手いこと思考が追いついていないわ。
「アレク、意味がよくわかりません」
「そのようだな」
「ええ、一から説明をお願いしても?」
殿下は、一つ頷くと、先程よりも小さな声で話し始めたわ。
「夜会で言ったことを覚えているか?」
「ロザリーの話ですか?次の次のシーズンの始まりまで待つという」
私は神妙に頷いた。私が仮病を使った原因だもの。忘れるわけがないわ。
「そうだ。父上と母上には、ロザリーの名前は出さずに『妃は自分の手で探したい』と言ってある」
「成る程。それでアカデミーですか」
この国の貴族の社交場は何個かある。まずはシーズン中、冬から夏にかけて色々なところで開催されている夜会。昼に開催されるお茶会。後は各々の趣味なんかで集まる紳士クラブ。そして、十四歳から二十歳までの間の二年〜三年通うことが許されている王立アカデミー。
この中で、夜会とアカデミーは恋人を探すのにはもってこいだと言われているわ。
「さすがに自分で探すと言った手前、無下に断ることもできなかった」
「そうですか。でも、アカデミーは夏からでしょう?今からでは入学できないでしょう」
王立アカデミーは原則夏から始まるわ。途中からの入学は認められていない。
「母上が、珍しく王族という権力を振りかざした結果だ」
殿下のため息が馬車を駆け巡る。あの王妃様がそこまでやるとは。予想外だったのね。
「母上はな、『クリストファーも自分で探すそうじゃない? 二人で行けば安心だわ』と、言ったんだ」
「つまり、私は道連れにされたわけですか」
次は私のため息が馬車を駆け巡ったわ。この空気を変えてくれる人は残念ながらここには居ない。
私達はそれ以上何も言ないまま、馬車がピタリと止まるその時まで、馬車の振動を感じているだけになったわ。
「アレクセイ王太子殿下、王立アカデミーに到達致しました!」
殿下と目を合わせると、二人してため息をついたのは、言うまでもない。
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