偽りの青薔薇〜男装令嬢の華麗なる遊戯〜

10.クリストファーの長い一日2

　酷い目にあったわ。それは大きなため息を思わず漏らす程だ。汚れてしまった上着を脱ぎ捨て、シャツの袖を捲り、私は猫を洗おうとした。水を見るまでは大人しく成されるがままだった猫が、突然暴れ出したのだ。

　私の腕を引っ掻き、飛び跳ね、シシリーを威嚇し、全力で洗われるのを拒否する彼女は真剣そのもの。

　格闘の末、茶色い猫は、フカフカの白い毛を取り戻したけれど、私もシシリーも傷だらけのずぶ濡れになってしまった。私は元々汚れを落とす必要があったから良いものの、それを必要としないシシリーも犠牲になってしまったことに心が痛い。

　使用人用の浴室まで足を運ぶのは億劫だろうと、お茶目に「一緒にはいるかい？」と聞いたら、顔を真っ赤にして拒否された。私の身体なんて見慣れているんだから、良いじゃない。

　猫は今、満足そうに私の膝の上で眠っている。こんなに真っ白だったのね。出会った時は茶色くて、ゴワゴワだった。今はフワフワ、フカフカで手触りが良い。ずっと触っていられそう。

　シシリーが、紅茶を手にサロンに入ってきた。アールグレイの香りが広がる。けれど、シシリーの顔には疲れが滲み出ていた。

「お猫様は休まれましたか？」

「ああ、ぐっすりだよ。まさか、あんなにお転婆なご令嬢だったは思わなかったよ」

　背中を撫でてやっても、起きる気配はない。お腹がゆったりと上下に動いている。膝の上から幸せな暖かさが広がってくる。

「ええ、そのお猫様のせいで私は他の侍女に嫌疑をかけられてしまい、ほとほと弱っております」

「へえ……どんな？」

「クリストファー様の濡れた御召し物と、ずぶ濡れの私。想像力豊かな他の侍女達は、私がクリストファー様と恋仲なのではないかと」

　それはとても申し訳ないことをしてしまったのね。主人の息子と恋仲だなんて噂になるのは、侍女として汚点だろうに。シシリーの眉毛がハの字に下がる。

「皆、想像力が豊かなんだね」

「きっと今頃、屋敷中に広まっておりますわ。勿論二人で猫を洗ったせいだと言ったのですが、完全に納得して貰うことができず。申し訳ありません」

　シシリーは腰を折って頭を下げる。猫を洗いたいと言った私のせいなのに、まるでシシリーは自分の責任だと悔いているようだ。

　私は猫を抱き上げ、そっと床に下ろした。猫は驚いたように目を丸々と開け、その愛らしい瞳で私を見上げる。私は彼女の頭少し撫でると、立ち上がり、腰を折り続けるシシリーの前に立った。シシリーの肩が小さく揺れる。そんなに緊張しなくても良いのに。

　床に膝をつくと、彼女の両肩に手を乗せて、顔を覗き込んだ。

「シシリー、顔をあげてくれないかな？　私は気にしてないよ。それに、シシリーの方が大変だろう？　他の侍女と話すことも多いだろうし、早く誤解を解いておいた方が良いね」

「ありがとうございます。クリストファー様は侍女の間でも大変人気ですからね」

　シシリーはようやく頭を上げると、困ったように笑った。私は彼女の肩から離れた右手を、顎に当てて小首を傾げた。

「人気？　五年振りに現れたクリストファーが珍しいだけだろう？」

「いえいえ、確かに物珍しさもありましたが、五年間決して姿を見せなかったご嫡男であるクリストファー様が、大層見目麗しく、しかもお優しい。目を合わせた侍女は頬を染め、声を掛けられた侍女は失神したとか。あまり侍女に色気を使わないで下さいませ。ク・リ・ス・ト・フ・ァ・ー・様」

　そんなこと、有ったかしら？　確かに『クリストファー』になってから、本邸には良く顔を出している。座学は本邸で習っているもの。でも、侍女と話すことなんて殆どない。

　一度だけ、花瓶に花を飾っている侍女に、声をかけたことがある。とっても綺麗な花を飾っていたから。でも、その侍女は私を見てただ、礼をしただけで、失神なんてしていなかった。とっても静かな子だったの。お花の話を少し聞きたかったのだけれど、すぐに執事のセバスチャンに呼ばれて話せず仕舞いだった。

「身に覚えが全くないんだけど」

「そうでしょうね、クリストファー様は無自覚の女誑しですもの」

　シシリー、目が笑っていないよ。

「私にはシシリーの言葉に棘が見えるよ」

「それは、大変失礼いたしました」

　もう一度腰を折るシシリー。なんだかわざとらしい。失礼なんて、思っていないんでしょう？　シシリーってば。

「さて、シシリーとの誤解はどうにか解くとして、まずは母上に手紙を書くから、書き終わったら持って行ってくれるかな？」

　気を取り直して私は椅子に座った。猫が待ってました、と言わんばかりに私の膝の上に丸くなった。

　貴女、私の膝が気に入ったの？　背中を一撫でしてやると、嬉しそうに「ミャー」と泣く。机の上には、シシリーによって真っ新な便箋といつも使っているペンが用意される。

「外でお待ちしましょうか？」

「すぐに終わるからそのままでいいよ」

　私がシシリーを見上げて微笑むと、彼女は一礼して一歩下がる。静かな部屋に、私の筆を走らせる音と、猫の欠伸が響いた。

　たった一言書いて、筆を置く。インクが乾ききったことを確かめると、半分に折り、封筒の中にしまった。

　シシリーを見ると、少し困惑しているようだった。

「たった一言でよろしいのですか？」

「ああ、良いんだよ。部屋から出る口実が必要なだけだから。さて、本邸に行こうか？」

　私はシシリーに手紙を手渡すと、猫を抱いて部屋を出た。シシリーが後から付いてくる。

　別邸から本邸までは、庭園の中を歩く必要がある。また猫が汚れては敵わないから、抱き上げて連れて行くのだけれど、とても大人しく私の腕に抱かれている。水を前にしなければ、素直で可愛い子だ。

「この子にも名前をつけてあげないと」

「そうですね。可愛らしいお名前を差し上げて下さいませ。屋敷の者にも周知させます」

　とっても白くて上品だから、素敵な名前が良いわね。琥珀色の瞳、フワフワで毛の長いとっても美人なご令嬢よ。人間だったら縁談が何件も舞い込んで、姿絵で部屋が埋めつくされるに違いない。

「よし、貴女は今日からマリアンヌ嬢だ。よろしく、私の可愛いマリー」

　額に口付けすると、心得たように「ミャー」と鳴いた。ああ、可愛いわ、マリー。なんて愛おしいのかしら。きっとお父様もお母様も、お兄様だってマリーが好きになるわ。

　本邸へと着くと、私はシシリーに手紙を任せ、サロンでマリーとお茶会を始めた。陽の当たるフカフカの椅子を彼女は気に入ったようで、大人しく丸くなっている。

　本邸に勤めている侍女が紅茶を用意してくれた。最近、本邸で過ごすことになって気づいたのだけれど、侍女によって選ぶ紅茶に違いがある。シシリーはどちらかというと、あっさりめの飲みやすい物を出してくれることが多い。この侍女は少しクセが強くて香りが良い物を選ぶ傾向にある。

「ありがとう」

　優しく微笑むのは、お兄様の真似。もう大分板に付いてきたのよ。夕陽のせいで侍女の頬は真っ赤に染まっていた。

　話し相手が居ないお茶会は寂しい。紅茶を口に運ぶ以外にやることがな。サロンから見える庭園の風景は確かに素敵だけれど、穴が空くほど見つめても、突然花が咲き始めるわけではないもの。

　結局、途中からマリーを構う時間が始まった。お昼寝の時間を邪魔するのは可哀想と思いながらも撫でてしまう。マリーも満更じゃなさそうだし、良いわよね？

「それが、手紙にあった猫ですか？」

　不意に扉が開いて、声をかけられた。久しぶりのお母様の声。振り返ると、少し居心地の悪そうな顔で、お母様が佇んでいた。お母様の後ろに控えるシシリーも少し嬉しそう。大成功よ、シシリー。視線だけでシシリーに気持ちを伝えると、彼女は小さく頷いてくれる。ついでにお母様もそれに気づいてしまったのか、眉がピクリと動いていた。

「母上。ええ、そうです。こちらのご令嬢は、マリアンヌ嬢。マリーと呼んであげて下さい」

　マリーを抱き上げて、そのままお母様の腕の中へやる。マリーは暴れずにお母様の腕の中に、すっぽりと収まった。良い子ね、マリー。マリーの力でお母様を笑顔にしてあげて。マリーは私の意図を察したように、可愛らしく「ミャー」と鳴いた。

「マリーちゃんと言うのね。なんて可愛いのかしら」

　私はお母様の腕に抱かれているマリーの頭を撫でてやる。すると、マリーは小さく「ミャー」と鳴いた。既に彼女はサロンの中のヒロインだ。皆が頰を緩ませて彼女に注目している。

「母上、マリーにお洒落なリボンを贈りたいのですが、一緒に考えてはくれませんか？」

「仕方ありませんね……メアリー。わたくしの部屋から裁縫道具を持ってきてくれるかしら？」

「かしこまりました。奥様」

　メアリーが頭を下げ、部屋を後にすると、別の侍女がお母様の分の紅茶を用意する。そろそろ頃合いだろうか。

「さあ、母上、こちらにどうぞ」

　覚えたてのエスコートで、私はお母様を椅子に招いた。両手はマリーで塞がっているから、そっと肩に手を添える。お父様はよく、そうやってお母様をエスコートしていた。お母様は少し驚いたように目を見開いたけれど、私のエスコートを受け入れてくれる。

　お母様は目を細めて嬉しそうに、マリーを撫でている。お母様はマリーを一頻り撫でると、満足したように手を離す。猫の魔力は凄いなぁ。なんて、思いながら、私はお母様の横顔を眺めた。

　マリーはというと、仕事は終えたと言わんばかりにお母様の膝から飛び降り、一番陽の当たる所で丸くなって眠ってしまった。自分の役割が分かっているのか分かっていないのか不思議な子だ。その丸くなった背中すら可愛いと思ってしまうのだから、仕方がないのかもしれない。

　部屋が静まり返る。さて、どう切り出したら良いものか。部屋にはシシリーのやメアリーといった事情を知る者の他にも侍女が控えている。つまり、『クリストファー』として、話をしなければならない。

　一人思案していると、お母様の口から小さなため息が漏れた。

「猫のリボンを選ぶ為だけにわざわざこの席を用意した、訳ではないのでしょう？」

　私の目を見つめるお母様の瞳。

　何か言うべきことがあるでしょう？

　そう言っているのだ。私が皆の前でも言いやすいようにわざわざお母様から切り出してくれた。

「母上。私にダンスを教えて頂けませんか？」

　私はお母様が頷くのを待つだけ。きっと大丈夫よ。お母様はもう私のことを許している筈。だって、猫を口実に部屋を出たんですもの。お母様のもの言いたげな目は、何を物語っているのか。静寂は私の鼓動を速めるのには効果的だった。

「……夜会で恥をウィザー家の者が晒す訳にはいきませんからね」

「では……？」

「明日からです。手抜きは許しませんよ？」

「はい。母上。ありがとう」

　そっぽを向いたお母様の顔は、夕日で赤く染まっていた。視界の端ではシシリーとメアリーが静かに目を潤ませている。

　お母様、いいえ、母上。貴女が「クリストファー」と呼ぶに値する男に、私はなります。