9.クリストファーの長い一日1

 クリストファー・ウィザーの朝は早い。まだ日が昇らない時間に、朝食を手早く摂ると、朝の鍛錬から始まる。お兄様と一緒に幼い頃から剣を握ってはいたけれど、肩に怪我をしてから離れていた。お兄様も同時期に病気を患っているから、鍛錬に使っていた二本の剣は、すっかり倉庫の奥底で眠っていた。


 この先、騎士を目指すつもりはないけれど、男性らしい身体に少しでも近づくためには必要なこと。


 目指すは、硬い二の腕!


 鍛錬が終わる頃には、家庭教師のエドワード先生がいらっしゃる。お父様が『クリストファー』にと、新しく雇った家庭教師だ。汗を流してから先生を迎え入れて、昼まで座学の時間。本邸の一室で、ウィザー公爵家嫡男として、必要なことを習う。


 勿論エドワード先生にも、私が女であることは秘密。だからずっと気は抜けない。所作の一つ一つに意識をしながら勉強もするから、一日が終わった頃には、体も頭もヘトヘトになる。


 唯一の救いは、別邸で隠れて暮らしていた頃も、勉強はしていたことだ。お兄様と二人での独学と、忙しいお父様や執事の教えだけだから、穴はあるものの、それのお陰で今は、その穴を埋める作業をするだけで良い。


 ただゴロゴロしているだけではなくて、本当に良かったわ。


 勿論、エドワード先生から教えられる新しい知識に驚くこともある。そんな知識を得ると、早くお兄様に教えたくて仕方がない。クリストファーとロザリアの取り替えは、ウィザー家の重要機密だから、一緒に勉強はできない。それが残念で、そして寂しくて仕方がない。いつも私達は二人で一緒に学んできたから。その代わり、私がしっかり勉強をして後でお兄様に教えてあげるの。


 勉強を終えると、昼食を摂る。昼食はお兄様と一緒。天気が良くてお兄様の体調の良い日は庭に出て食べたりもする。大体は、お兄様の体調を考えて、お部屋で摂るのだけれど。


 『クリストファー』として生活するようになって、お兄様と一緒にいる時間が減ってしまったのが一番哀しい。デビューまで時間がない私には、一日たりとも無駄には出来ないのだから、仕方がないのだけれど。


 昼食の後はシシリーとのお茶会。この時間が私にとっては大切な時間。ただお茶を飲んでるわけではないのよ。『クリストファー』には何が必要なのか話し合ったり、シシリーに外の話を聞くことも多い。


 シシリーの話はとても楽しいから、ついつい沢山聞いてしまう。シシリーは町にも出るし、友達も多いから、他の貴族の噂なんかも聞ける。私には重要な情報源だ。


 今日は天気が良いから、裏庭に出たることにした。我が家には大きな庭園以外にも小さな庭がいくつかある。別邸の裏庭はその内の一つ。この裏庭にも花が沢山咲いていて、綺麗なの。小さくて落ち着く、心地の良い場所になっている。


「クリストファー様は本当に男らしくなられました。大分板についてきたと思います」

「ありがとう」


 シシリーには最初の話し方を変えて以降、歩き方や所作、細かいところに至るまで、色々な指摘をして貰っていた。


「ようやく脚が痛むこともなくなったよ」


 私は、あの日のことを思い出し、脚の付け根を撫でた。歩き方を治すために一日中歩いた日のことだ。あれは酷かった。思い出しただけでも涙が出そうなくらい。


「歩き方もすっかり男性そのものです」

「最初は脚の付け根が取れるんじゃないかと不安になったけどね」

「あの日は、ベッドから起き上がれませんでしたからね」


 あの日のことを考えると、痛まない筈の脚の付け根が痛みそうだ。思い出すのはやめよう。


「シシリー、そろそろ私は、母上に会おうと思うんだ」

「奥様、ですか……」


 シシリーが困ったように眉尻を下げた。あの日、私が『クリストファー』になった日から、お母様とは会えていない。お母様は本邸の自室に篭ってしまった。


 何度か会いに行ったけれど、一度も取り合って貰えていない。でも、ずっとそのままでいいわけもなかった。


「ダンスの練習に付き合って貰おうと思っているんだよ」

「そうですね。夜会にダンスはつきもの、奥様はダンスが大変お上手だとお聞きしてますから、適任かと思われますわ。ですが……」

「母上は私が『ロザリア』に戻れば良いと思っている」


 シシリーは神妙に頷いた。メアリーとシシリーは親子。メアリーはお母様付きの侍女た。きっとお母様の話は耳に入っている筈。


「ねぇ、シシリー。母上は私に似て、とても頑固なんだ。本当はとっくに私のことなんて許してるんだよ。いや、仕方ないって思っているだけかもしれないけれどね。でも、簡単に『許します』とは言えないんだと思うんだ。だからね、シシリー。私は母上に、手紙を書こうと思うんだ」


 私が笑顔を見せると、シシリーの不安そうな顔も笑顔に変わる。シシリーの笑顔も私はとっても大好きだから、笑顔になってくれると嬉しい。


「では、早速、便箋と封筒をお持ちしますね」


 シシリーは、素早く下がる。こういう時の行動の速さはさすがに鍛え抜かれた公爵家の侍女だと思う。感心していると、優しい風が流れた。ここに一人残されていることに気づくと、私は椅子から立ち上がり、ゆっくり伸びをした。


 一歩一歩、『クリストファー』に近づいている。けれども、『ロザリア』が無くなってしまうわけではない。気を抜けばすぐに私は『ロザリア』になってしまいそうになる。


 だからというわけではないけれど、誰の前でも気が抜けない。それは、例えお兄様やシシリーの前でも。どこかに『ロザリア』を残しておくと、私は何かの折に必ず失敗する。だから、お兄様に『ロザリア』を返して貰うまで、私の中の『ロザリア』は眠っていて貰わなければならない。それでもやっぱり、一人になるとホッとしてしまう。


 『クリストファー』を演じていなくても良い時間は非常に少ない。だから、私にとっては貴重な時間でもあった。けれど、カサリ、という音がして、私は身を強張らせてしまう。伸びの姿勢のまま、身体が固まってしまった。


 私しか居ない、筈……よね……?


 音は後ろの方から聞こえてきた。ゆっくり、そっと腕を下ろして、振り返ることにする。使用人の誰かだったら、どこまで話を聞いていたか聞かないと。外部の人間だったらどうしよう。クリストファーだったらどうする?


なんて、頭ではずっと考えていた。


「ミャー」


 そこには琥珀色の瞳が愛らしい、薄汚れた猫がいた。


「まぁ!」


 思わず女に戻ってしまった。こういう時に女が出るのはいただけない。気をつけないと。どんな時も平常心よ。例え、目の前の猫が愛らしく首を傾げてても、『クリストファー』の顔を崩しては駄目。


 私は猫を見つめながら、驚かせないように、猫の目線に近づくよう静かに片膝をついた。


「こちらへおいで」


 右手を伸ばし、ちょいちょいと指先を揺らせば、猫は二度瞬きした後、可愛らしく鳴いて、私の側に寄ってきた。汚れて茶色くなってはいるけれど、元は白色かしら?


 猫は私の手にスルリと小さな身体を添わせてきた。猫の社交的な態度に気を良くした私は、目頭を指先で撫でたり、背中をゆっくりさすったりすっかり夢中だ。猫は私にされるがままだ。ゴロゴロと喉を鳴らす。とても社交的なご令嬢だわ。


 シシリーが戻るまでの束の間、私は猫の虜になっていた。愛らしい猫は、自分の可愛らしさを充分理解していて、私に魅了の魔法をかけているのだから仕方ないの。


 一頻ひとしきり撫でてやると、脇腹からゆっくりと持ち上げた。突然のことでも、彼女は成されるがまま。猫の顔を私の顔の近くまで持ち上げてやると、彼女はチロチロと小さな舌を出して、私の鼻を舐める。


 ああ……! なんて可愛いのかしら……!


「かわいいお嬢さん、ウィザー家の子になるかい?」

「ミャー」


 猫が可愛く返事する。ああ、もう貴女はうちの子よ。お父様やお母様、お兄様が反対しても私が護ってみせるわ。


「クリストファー様……?」


 振り向くと、手に封筒や便箋、ペンとインクを手に持って呆然としているシシリーの姿が有った。


「ミャー」


 猫は『私を見て』と言わんばかりに鳴いて、私の鼻をザラザラとした舌で舐めた。自然と目尻が下がって口元が緩んでしまう。だ、だめよ。今は『クリストファー』なんだから! シャンとしないと。


「クリストファー様、そちらの猫は……」

「この子はね、さっき出会ったんだ。とても可愛らしいご令嬢だろう?」


 私が鼻に唇を落とすと、猫は嬉しそうに「ミャー」と鳴いた。


「猫が可愛いのはわかりましたが、お洋服もお顔も、泥だらけでいらっしゃいますよ。一度、お風呂に入りましょう?」


 私の洋服は、猫と同じように汚れていた。


「ああ、本当だ。この子も、一緒に入っても良いかな?」

「駄目だと言っても連れて行くのでしょう?」


 シシリーの大きな溜息が私の耳にも届いた。私のこと、良くわかっているわね、シシリー。そんな貴女も大好きよ。


「良かったね、一緒にお風呂に入ろうか」


 私の言葉など理解していないだろうに、猫はまた可愛らしく「ミャー」と鳴いた。







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