弐席目 本編:序
さて宗悦、
日増しに完成に近づく地蔵。宗悦は、この仕事が終われば、しばらくはまともな暮らしができると、胸を躍らせておりました。
丁寧にノミを当て、丹精込めて槌を下ろす――これを数え切れないほど繰り返し、地蔵は次第にその姿を露わにしていきます。
そんなある晩――
宗悦は、いつものように地蔵を彫り終え、横になったんですが、どうにも寝付けない。加えて、胸騒ぎが収まらない。すると、どこからともなく、ぎぃ、とも、ピシッとも聞こえるような音がする。
「……ん?」
耳を澄ますと、どうやら
――ガラッ!
「……何でぇ、誰も居ねぇじゃねぇか」
ホッと胸を撫で下ろしたものの、それでも一応地蔵に触れて確認をする。
「俺以外に触った
布団に潜り込んだ宗悦は、今度は朝まで布団から出ることはありませんでした。
翌る日も宗悦は日がな一日、地蔵と睨めっこしておりました。昨夜のことなどさらりと忘れております。そんなこんなであっという間に寝る時間。
すーっと布団に入ったものの、今宵もどうにも寝苦しい。そうすると、昨晩の出来事が頭をかすめる訳でございます。
――ぎいぃぃぃ!
宗悦の目がくわっと開いて跳ね起きる!
その場でジリっと後退りはしたものの、覚悟を決めたとばかりに躙り躙りと作業場へ。
昨晩とは違い、そろりと扉を開けると――
「……な、何でぇ……だ、誰も居ねぇじゃねぇか」
しん、と静まり返る作業場。暗がりの中に地蔵が置いてあるのが見えます。
「ま、まぁ、なんだ。
再び布団に入りましたが、やっぱりなかなか寝付けない。それでも、宗悦は今度はしっかり朝まで寝ることが出来たんでございます。
チュンチュンと雀の鳴き声が宗悦に朝を告げた。いつもはそんなんじゃ目を覚まさないはずなんですがねぇ。
目元に薄っすら隈ができ、何とも落ち着きのない宗悦ではありましたが、仏彫ってりゃ、心も落ち着くってな感じで一心不乱にノミと槌を振るっておりました。
「ごめんよぉ!」
戸口をガラリと開けて入ってきたのは、隣りに住む大工の熊八であります。
いつもの宗悦であれば手を休めて「何でぇ、熊公」と返すところですが、昨夜の件があったもんだから、ビクッとしちまいました。
「何驚いてンだよ。らしくねぇじゃねぇか」
「うるせぇ。仕事に没頭してりゃぁ、驚きもすらぁ!」
「何いってんだよ。いつもボーッとしてるじゃねぇか」
クックックと含み笑いの熊八に、眉間に皺が寄る宗悦。
「おう、そういや、聞いたか? 番町の幽霊話の顛末をよォ。……ありゃ『からくり』だったって話だぜ?」
「からくりだぁ?」
「おうよ。それを暴いたってぇのが、裏の『品川宿の変わりモン』なんだってよ。……あぁ、そんなんで来た訳じゃねぇんだった。……ほれ、研ぎ上がったノミだ。受けとんな」
宗悦は熊八伝てでノミの研ぎを頼んでたんですな。キラリと光るノミの刃先。普段であれば、ここで腕捲って「いっちょやるか!」ってな話になるんですが、口を吐いて出てきたのが「幽霊話……か」だったのでございます。
その晩、ついに宗悦はまんじりとも出来ませんで、ぼーっと布団に座しておりました。そして、迎えた丑三ツ時。
――ぎいぃぃぃきゅぅう!
宗悦の目が
さぁて、宗悦はと言えば、なんだかんだ言いましても流石は江戸っ子、遂には肚を括って立ち上がったんでございます! 体の震えは残ってますが、「べらんめぇ、武者震いよ!」と言わんばかりに、扉をガラリと開けた!
宗悦の目に映った地蔵は、さっきまで自分の見ていたものと何ら変わりはありません――ええ、見た目は。しかし、地蔵は唸っていたんでございます。
それでも、まだ宗悦はやせ我慢をしておりました――元はといやぁ、桂の木っ端だ。風に鳴いたか、火で軋んだか。しかし、窓は開いておらず、竈が近いはずもなく……。
「まさか……」
宗悦は、恐る恐る地蔵に近づきました。まさか、
ツーっとこめかみを流れる汗が疑心暗鬼を募らせる。
――金を納めたら祟りが起こる? ……そんなの、まるで講談の作り話じゃねぇか!
これはまさしく、物怪の
「ぎゃぁぁぁっ!」
宗悦が目を醒ましたのは翌る日の朝でございました。
さて、それからというもの、宗悦の夜は安らぐことがございません。夜更けになると決まって、地蔵の中から「ぎぃぃぃ」という音と、低い唸り声が聞こえてくるんでございます。
宗悦は、もはや恐怖に怯え、ノミを持つ手も震えが止まりません。このままでは、地蔵の完成どころか、正気さえ保てなくなりそうでございます。
この奇妙な怪異を、宗悦はどうすることもできませんでした。顔色は土気色、目には隈、ノミを持つ手は震え、まともに仕事もできやしねぇ。
そんな宗悦の様子を、熊八含めた長屋の者が不審に思わぬはずがございません。
「おい宗悦、どうした? まるで幽霊でも見たような顔をしやがって」
「いや、それが……」
宗悦は、金塊のことは口が裂けても言えませんからな。ただ、地蔵から奇妙な音が聞こえる、とだけ、ぼそぼそと語るんでございます。
呑み仲間の一大事と感じた熊八は、宗悦の肩をぽんと叩く。
「ついて来な。いい人を紹介してやる」
ところ変わって長屋の端。ここは空き家になってるのをいいことに、誰かさんがちょくちょく使っていたんでございます。……誰かさんって誰だってぇ? 野暮なことお訊きになさんな、あいつですよ、あいつ。
そのあいつ――信三郎は、いつものように長屋の縁側で、だらりと寝転がっておりました。真っ昼間から酒を
ああ、まァまァ。ご指摘はごもっともでございます。信三郎は十と七――つまりは十七歳でございますからな。まぁ、今の世でしたら、生徒指導室に呼ばれて大目玉の上停学一週間ってなところかもしれませんが、この時代は元服を迎えちまえば大人の仲間入り。酒も煙管もやり放題ってな訳です。
それにしてもこのぐうたら侍が何故こんな長屋にいるのかと申しますと、この長屋、すぐ裏が和蘭亭でしてね。和蘭亭の裏木戸くぐりゃぁ、すぐにみなものいる蔵へと続いているんですな。
実は信三郎、少し前まで蔵で昼寝をしておりましたが、それをみなもに見つかって「出てけ!」と追ン出されたんでありました。
ハナクソほじりながら腕枕をしているところにやってきたのが、熊八に連れられてきた宗悦だったんでございます。
寝転がったまま片目開きの信三郎に、熊八が言う。
「信三郎さんよ、ちょっと聞いてやってくれ。この宗悦って仏師が、変なことに巻き込まれてるんだ」
信三郎は、面倒くさそうにもう片方の目も開けて、宗悦を
「なんだい、仏師殿。幽霊でも見たってのか? 俺は幽霊なんぞ信じねぇよ。どうせ気のせいか、腹でも下したか、その類だろう」
信三郎は、前回みなもに散々からかわれた手前、幽霊話には辟易しておりました。しかし、宗悦の顔色の悪さ、そして切羽詰まった様子を見て、さすがにただ事ではないと感じたんでしょうな。
「いえ、それが……地蔵の中から、夜な夜な、ぎぃぎぃと音がして、低い唸り声が聞こえるのでございます。まるで、誰かが中に閉じ込められているかのように……」
宗悦は、震える声で訴えました。信三郎は、その言葉を聞いて、ふと、あることを思い出しました。
――地蔵の中から音、か。そういや、あの変わりモンが、音の響きがどうとか、物の共鳴がどうとか、訳の分からねぇことを言ってたな……。
信三郎の脳裏に浮かんだのは、みなもの顔でございます。前回の「お菊の皿」の一件で、みなもの「窮理」の力は嫌というほど思い知らされておりますからな。
「……よし、仏師殿。その話、俺が聞いてやろうじゃないか。だが、俺一人じゃちょいと荷が重い。とっておきの奴を紹介してやる。ひょっとして、そいつならお前の怪異の正体を見破れるかもしれねぇ」
信三郎はそう言って、宗悦を連れて裏木戸を潜ったんでございます。もちろん、さっきの今だ。機嫌が悪いかもしれんから、この宗悦連れてきゃ何とかなるだろ、くらいに考えておりました。あわよくば、みなもをこの男に任せて、自分はいい塩梅の蔵の中でもう一寝入り、なんて目論見もあったやもしれません。
信三郎が蔵に入ると、みなもは相変わらず床に散らばった書物や奇妙な道具の山の中で、なにやらゴソゴソと作業をしておりました。
「おう、みなも。ちょっといいか」
その声にピクリと反応したみなもが信三郎を睨めつけました。何とも機嫌が悪そうで、「この野郎、追い出したのにもう戻ってきやがった」的なオーラが何とも立ち上っております。
しかし、信三郎もみなもの扱いにゃ慣れたもので、そんなのにゃ気にもせずに宗悦をみなもの前に引っ張り出したんでございます。
「この御仁、裏の長屋の仏師殿だ。どうにも困りごとがあるんで、『からくり少女』と名高いみなもに相談に乗ってもらいたんだと」
ところが、みなもときたら「ふーん、そうなんだ」と、さも興味なさそうに宗悦をちらりと見たんですな――何とも酷い
どんな目にあったらこんな酷い有様になるのか、みなもはそこが気になった。
「……仏師殿、ここへ。とりあえず話だけはうかがいます故」
さも興味がなさそうにみなもは振る舞っておりますが、信三郎はフフンと、鼻で笑ったんでございます。「こいつぁ喰い付いたな」と。
宗悦はと言うと、変わり者の少女と、その散らかった部屋に戸惑いながらも、恐る恐る口を開きました。
「あの、手前、宗悦と申します仏師でございますが……実は、彫っている地蔵から、夜な夜な、奇妙な音と声が聞こえるのでございます」
宗悦は、先ほど信三郎に語った怪異の顛末を、今度はみなもに詳細に語り始めました。金塊のことは、もちろん伏せて。
みなもは、宗悦の話を聞きながら、ぴくりとも表情を変えません。ただ、その瞳は、まるで珍しい虫でも見つけたかのように、きらきらと輝いておりました。
「……ぎぃぎぃという鈍い音と、低い唸り声が、まるで誰かが中に閉じ込められているかのように。このままでは、正気さえ保てなくなりそうでございます」
「へえ」
みなもは、膝を抱え直し、宗悦の顔をじっと見つめました。その真っ直ぐな視線に、宗悦は居心地が悪そうに目を逸らします。
「ねぇ、それ、見に行ってもいい?」
みなもの言葉に、信三郎は「待ってました」とばかりに膝を叩きました。
「だろ? だから連れてきたんだ。よし、仏師殿。今すぐに行こうじゃねぇか」
「しかし、夜にならぬと……」
「いいんだよ、仏師殿。昼間っから行ってみりゃあ、何か手がかりがあるかもしれねぇ。それに――」
信三郎は、みなもの顔をちらりと見て、ニヤリと口角を上げました。
「――昼間なら、幽霊も出てこねぇだろ?」
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