壱席目 本編:急
さて、日も明けまして
和蘭亭がございますのは知っての通り品川宿でありますが、そのお隣といえば
ヒュン、と風斬る音が響き、ドサッと何かが落ちる――蜷川家の庭先での一幕でございまして。転がっておりますのは、斬り口鮮やかな俵。刀を振るっておりますのは……何と驚きの信三郎ときたもんだ。
ぐうたらの割に、信三郎の朝は早い。「朝の鍛錬」と称して、庭でこうして俵を斬り、剣筋を確認するのが日課になっております。刀を振るうのは好きではありますが、その道を極めんとする程の修羅の如き鍛錬ではございません。ぐうたらをするにも、それなりの免罪符が必要かと、本人なりに考えた結果だそうでございます。
「おお、信三郎。今朝も早くから精が出るな」
声を掛けたのは、信三郎の兄上であります。
「おはようございます、兄上。……いやぁ、
何とも、免罪符が上手いこと働いておるようでございまして。
「そう言えば信三郎、
「なんでしょう?」
「お前が知らんはずも無かろうが。……番町の噂さ。あの『お菊の皿』の怪談よ。夜な夜な井戸から女の声で皿を数える声が聞こえるという。……『一枚、二枚……』と、な。しまいには『一枚足りなぁぁぁい!』と、引きつったような悲鳴が響き渡るそうだ――」
兄の言葉に、信三郎は内心でニヤリとしました。やはり、あの話か。みなもから聞いた話と寸分違わぬ。
「――まぁ、その話自体はどうでもいいんだが、その噂のせいで、屋敷はすっかり人が寄り付かなくなり、御曹司は怯えきって、ついには気が触れたとまで言われる始末。奉行所での話なんだが、屋敷の取り潰しの話を上に持っていく話も出始めててなぁ……。そんな厄介事で仕事が増えるのも気分のいいものではないから、どうにかならんものかと考え倦ねていてな。……信三郎、お主、何か妙案はないものか」
兄上は、眉間に深い皺を刻み、心底困り果てた様子でございます。そして、「困った困った」とぶつぶつ
信三郎はそんな兄上の背中を見送りながら、昨日のみなもの言葉を思い出しておりました。
――なるほどな。あの『幽霊』の正体は、やはり庄兵衛の仕組んだからくりか。御曹司を怯えさせ、屋敷の評判を落とすことが目的……何企んでやがんだか。兄上も、まんまと騙されちまってるって訳だ
腕を組んだ信三郎の口角が、見事なほどに上がっておりました。怪談の裏にある
「おい、みなも。聞いてくれ!」
いきなりところは変わって品川宿。信三郎が高輪の自宅で朝稽古に励んでおりましたのが半刻ほど前でございますから、どれほど
みなもは、といいますと、チラリと信三郎を一瞥しただけで、すぐにいつも通りに難しい顔をして書物を睨みつけておりました。
信三郎はドヤ顔をしながらも息切れしておりますが、みなもは顔を上げることもなく、指先で器用に書物の頁を繰っておりました。
「ねぇ、息切れしてるけど、
「何言ってやがる! あの話の真相がスルスルスルッと解けちまったんだよ。 己の名推理を聞かせてやろうじゃねぇか。聞いて驚け!」
ドヤ顔の信三郎に、みなもはキョトンした顔で返します。
「……名推理って何の?」
「お前ねぇ、昨日あれだけのことがあったのに、もう忘れたってぇのか!」
「ああ、番町の件?」
「何でぇ、覚えてんじゃねぇか。その犯人が分かったンだよ! いいか――」
そこまで言って、信三郎は「んんっ」と咳払いすると、一層のドヤ顔になったんでございます。
ところがみなもは、信三郎の顔前にすっと手のひらを向けたんであります。
「いや、いい。興味ない」
さしもの信三郎も、これには盛大にズッコケました。
「あらっ! ……犯人が誰か、気にならんのか?」
「私はただ、『お菊の皿』の謎がどんな理だったのか知りたかっただけ。誰が犯人かなんて、興味ない」
「全く、つまらない奴よ。……まぁいい、ならば己が代わりに下手人を上げてやろうぞ――」
信三郎は、みなもの目の前にどかりと座り込むと、腕を組み、得意げに語り始めました。
「――あの『お菊の皿』の怪談、な。あれは幽霊なんかじゃねぇ。お前が言ってた通り、からくりだ。そして、それを仕組んだのは、あの勘定方の庄兵衛って奴に違いねぇ」
信三郎は、ここまで言い切ると、フンと鼻を鳴らしました。みなもは相変わらず書物に目を向けたままですが、その口元が、わずかに吊り上がっているように見えました。信三郎は続けます。
「――あの野郎、屋敷を潰して、その売却益を横領するつもりなんだろうよ。だから、若旦那を脅し、屋敷の評判を落とそうと画策した。全ては金のためだ!」
信三郎は、拳を握りしめ、まるで悪を暴いた名奉行のように力を込めました。しかし、みなもはとうとう書物から目を離すと、信三郎をじっと見つめ、大きなため息を一つ吐きました。
「……な、何だってんだよ」
「はぁ……。信三郎、あんたは本当に浅いとこしか見えないのね」
その深いため息に、信三郎の眉間に皺が寄ります。得意の推理をあっさりと否定され、不満だったんでしょうな。
「なんだよ、間違ってんのか? じゃあ、一体何だってんだ!」
「確かに、からくりを仕組んだのは庄兵衛よ。あの竹筒や井戸を利用した『虎落笛』の仕掛けも、あんたの言う通り。でもね、庄兵郎の目的は、あんたが考えてるような、浅ましい金儲けなんかじゃないわ――」
みなもは膝の上に乗せていた書物を閉じると、信三郎に顔を向けその瞳を真っ直ぐに見詰めました。
「――あの庄兵衛って人は、この屋敷の行く末を心底憂えている。御曹司の放蕩ぶりを止めさせ、家名を守るために、あの怪談を仕組んだのよ。自分の忠義を、ああいう歪んだ形でしか表現できなかった、不器用な人だわ」
信三郎は、みなもの言葉に呆然としました。悪意と決めつけていた庄兵衛の行動に、まさかそのような忠義の心が隠されていたとは、思いもよらなかったのです。
「そ、そうなのか……って言うか、
みなもはあの風変わりな眼鏡を欠け直し、生真面目に言ったんでございます。
「……『窮理』ってね、現象の裏にある『理(ことわり)』を暴くものだけど、それは同時に、その『理(ことわり)』を動かす人間の心も見せてくれるの。庄兵衛のからくりからは、この屋敷と御曹司とお家を思う、彼の切なる願いが伝わってきたわ」
みなもは、そう言い切ると、立ち上がって蔵の入り口に向かいました。
「さあ、信三郎。分かったんなら、ぐずぐずしてないで支度して」
「え? どこへ行くんだよ?」
「決まってるでしょ? 番町の屋敷。真実を伝えるために、もう一度、あそこへ行かなくちゃ」
みなもは、当然のように言い放ち、蔵の扉を開け放ちました。信三郎は、まだ庄兵衛の真意を理解しきれないまま、慌ててその後を追いかけるしかありませんでした。
番町のお屋敷に到着したのはちょうど昼時でありました。
二人は屋敷の奥、人の往来が少ない脇道へと足を進めました。信三郎は、嫌な予感がしながらも、彼女の後を追います。
脇道を抜けると、そこには質素ながらも手入れの行き届いた離れがありました。どうやら、屋敷の使用人が住む場所のようです。みなもは、その離れの入り口に立ち、静かに扉を叩きます。
「どなたですかな?」
中から聞こえてきたのは、堅苦しい、聞き覚えのある声。
「昨日の者でございます。お屋敷の幽霊の正体をお伝えに参りました」
みなもが朗々とそう告げると、中から「がたっ」と大きな音がしました。戸が勢いよく開き、そこに現れたのは、先日井戸端で出会った勘定方、庄兵衛その人であります。彼の顔は、何やら驚いているように見えました。
「……そなたは、あの品川の変わり者殿か」
庄兵衛は努めて平静を装っておりますが、その声には微かな動揺が隠し切れておりませんでした。
「
「その通りです。貴方様が知りたがっていた幽霊の正体をお教えしよう思い、品川より馳せ参じました」
「……ほう、してその正体は?」
庄兵衛の声にはわずかに震えが混ざる。それに対してみなもは一礼をした後にこう答えたのでございます。
「庄兵衛殿、あなたです」
みなもの言葉に、庄兵衛の顔色がさっと変わりました。彼の眉がピクリと動き、目は大きく見開かれています。信三郎ですら思わずゴクリと喉を鳴らしました。
「何を馬鹿なことを! そんなこと、某がするはずがなかろう!」
庄兵衛は声を荒げましたが、みなもは冷静に、そして理路整然と語り始めました。
「あの竹林には、特定の風向きと風の強さで音を出すように仕組まれた『虎落笛』のからくりが隠されています。さらに、その音を井戸で増幅させ、屋敷全体に響かせている。これは、音響の原理と、人間の恐怖心を巧みに利用したものです。ただし、あの悲鳴のような最後の音は、通常の風だけでは出せません。仕掛けの末端に、特定のタイミングで人為的に強い息を吹き込むことで、初めて発生する音です。それだけは庄兵衛殿が自らが行われたのでしょう?――」
庄兵衛は、みなもの言葉を聞きながら、徐々に表情から血の気が失せていくのが分かります。彼の目はもうみなもを睨みつける力もございませんでした。
「――そして、この仕掛けが最も効果を発揮する時間帯は、貴方がこの屋敷の勘定方として、夜間の見回りを行える時間帯と一致します」
みなもは、庄兵衛の足元に目をやりました。彼の足元には、竹林の土がわずかに付着しています。信三郎もそれに気づき、呆れたような表情で庄兵衛を見つめました。
「……ひ、悲鳴のからくりはそうかもしれぬ。だが、それを某がやったという証拠は何処にあるというのだ!」
落ち着き払って答えようとしている庄兵衛ではございましたが、言葉の端々には怒りなのか諦めなのかわからない感情が宿っておりました。
「この仕掛けは、完璧です。証拠など、どこにも残っていないはず」
「な、なんと! では某が仕組んだとはとんだ濡れ衣ではないか!」
「いいえ。貴方がこの屋敷で働く勘定方だからこそ、証拠は残るのですよ」
みなもは、そう言って、庄兵衛の袖口に付着した、ごく微細な竹の屑を指差しました。
「この竹屑は、竹林に生えている竹のものであり、貴方が夜な夜な仕掛けに息を吹き込む際に、衣服に付着したものでしょう。そして何より――」
みなもは、にっこり微笑みました。
「――貴方がこの幽霊騒動を起こしたのは、この屋敷の御曹司に、これ以上の放蕩をさせないためのことでしょう? 御曹司が『気が触れた』という噂を流して、遊び歩けない状況に追い込むための、苦肉の策だったと考えます」
庄兵衛の顔は、驚きと、そして安堵の表情を浮かべました。信三郎も、まさかそこにそのような忠義の心が隠されていたとは、と驚きを隠せません。
「……なぜ、そこまで……」
庄兵衛は、絞り出すような声で問いました。
「私には、このからくりを作った貴方の知恵の方が、よほど興味があるのです。だから、見破る価値があった。それに、このからくりの丁寧な作りに触れるたびに、この屋敷を思う心が伝わってきたから」
みなもは、そう言って、庄兵衛の足元に、件の竹筒をそっと置きました。
「このからくり、見事なものですよ。庄兵衛殿。窮理は人間の悪しき欲だけでなく、秘めたる真心をも暴き出すものだと、私は考えます」
庄兵衛は、ただうなだれるばかりで、何かをこらえているようでした。彼の目にはわずかに光るものが浮かんでいたそうであります。
かくして、番町の旗本屋敷を騒がせた「お菊の皿」の怪異は、みなもの手によって、解き明かされたのでございます。その裏には幽霊などおりゃせず、屋敷と
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