壱席目 本編:序

 さて、番町の旗本屋敷で夜な夜な聞こえる奇妙な声の噂は、あっという間に江戸市中を駆け巡ります。何せ、あの番町の御屋敷でございましょ?  そんなところに怖いこわーい幽霊が出るってんだから、話はデカくなるばかりです。そこに尾ひれが付いちまって、割った皿が百枚だの、いやいや丼だ、茶碗だ、と関係ないものまで入っちまうんだから、人の噂ってなぁ当てにゃならねぇ。大体、皿が百枚だってんなら、手前なら数え間違いちまうよ。そしたら、「一枚たりなぁぁぁい」なんて、叫ぶことすらままならねぇ。

 ――閑話休題それはさておき

 番町の幽霊話は尾ひれが付いたまんま、実しやかに江戸の町に広がっていく。

 当然、面倒臭がりでぐうたらの蜷川信三郎の耳にも入る。まぁ、とにかく日の当たる縁側で、欠伸あくびをしながら惰眠をむさぼるのが一番の贅沢と、豪語する男でございます。普段ならハナクソ穿ほじって、「ふーん、だからどーした」と聞き流しちまうんでしょうが、今回は「やれやれ、困ったもんだ」と来たもんだ。

 どういう心境の変化と思いきや、こんな理由がございました。

 ぐうたらな信三郎が、渋々とはいえ、ほんの少し前まで通ってた私塾がありましてな、そのときの「ご学友」ってぇなぁ名ばかりの悪友ワルガキがこの番町に住んでいるんですよ。そいつがよしゃぁいいのに、「肝試しだ!」などと意気込んで、くだんの屋敷に忍び込んだンが運の尽き――ってな訳です。

 つい先だって、「久方振りに顔でも見に行くか」と会いに出掛けた信三郎でありましたが、当のそいつぁ、布団被ってガタガタ震えてるもんだから、信三郎も大声上げて笑っちまいました。

「……酷い有様だな? ええ? おい」

「そ、そんなこと言うなよぉ……あの声聞いただけで、背筋が凍っちまいそうになったんだ。未だに寒気が抜け切らねぇんだよォォォォ」

 とまぁ、本人までユーレイのような声出して、布団から出てこようともしません。布団の山は震えるばかりで、これにはさしもの信三郎も「哀れ」と感じたんでしょうなぁ。

 何とも居た堪れなくなって、信三郎はさしたる話も出来ずに悪友のお屋敷から退散する羽目に。そこで、冒頭の「やれやれ、困ったもんだ」に繋がる訳でございます。


 次の日、しかめっ面の信三郎が腕組みしながら向かったのは品川宿の旅籠はたごである和蘭亭おらんだてい――の奥にある古びた石倉でありました。ここには彼が頭を下げて頼る、ただ一人の人物がいるんでございます。

「おーい、いるかぁ?」

 相も変わらず黴臭い蔵の中。そこには相も変わらず返事すらせず、古びた書物の山に埋もれる小さな背中がありました。和蘭亭の名物娘、平賀みなもでございます。ここら辺では名を知らぬ者はなく、「品川宿の変わりモン」と呼ばれておりました。その二つ名にふさわしく、頭には何やら奇妙な眼鏡のようなものをかけ、手には小さな棒が握られております。

「……まったく。居るなら返事くらいせんか。おい、みなも。ちょいと困ったことが起きてな。まずは己の話を聞いてくれ」

 信三郎が声を掛けても、みなもはピクリとも致しません。その瞳は、書物に書かれた微細な文字を捉え、耳は、紙と紙が擦れ合うかすかな音に意識を集中させておりました。彼女はこの書物に収められたありとあらゆる「ことわり」を余すことなく取り込もうとしているかのようでありました。

「人の話を聞かんか! みなも!」

 しびれを切らした信三郎が、いつものようにみなもの頭を小突こうとした、その時であります。

「んもー! 邪魔!」

 みなもが不意に振り向くと、その手にしていた棒が信三郎の目の前すれすれをかすめてったんでございます。信三郎は反射的に一歩退きましたが、みなもは構うことなく書物の虫に逆戻り。

「な、なんだよ、いきなり……まぁ、いい。そのままでいいから聞いてくれ」

 信三郎はぼやきながらもみなもの隣に腰を下ろし、番町の旗本屋敷で起こっている「お菊の皿」の怪異を、事細かに語り始めたんでございます。夜な夜な聞こえる皿を数える声、そして最後の悲鳴。家中の者が怯えきっている様子や、いい気になって肝試しをした挙げ句に未だに怯えている悪友の有様を。

「――とまあ、そういう理由わけでな。もし、あのまま己のダチが布団お化けになっちまったら、己も夢見が悪い。だから、みなも、何とかならんものか?」

 信三郎の必死の訴えに、みなもは一言も発しません。ただ、ジッと信三郎の顔を見つめておりました。信三郎が「な、なんだよ?」と少々後退りすると、みなもはすっくと立ち上がったのであります。

「案内して、信三郎」

「……何処へだよ?」

「決まってるじゃない! 番町!」

 そう言うと、みなもは信三郎を置き去りにして、足早に石倉を出て行っちまいました。信三郎は呆れたように頭を掻きましたが、みなもの瞳の奥に宿る、あの好奇心に満ちた輝きを見逃すはずはございません。彼はため息一つ、やれやれやっとやる気になったか、とばかりにみなもの後を追ったのでございます。


 実のところ、品川宿から番町までは結構な距離があるんですよ。真っ直ぐ行けりゃぁ大したことのない距離かもしれねぇんですが、江戸城を回ってかなきゃならない。これが地味に遠回りなんですな。地下鉄もありゃしませんしね。ちなみに、今の距離に換算しますと……ひぃふのみ……えー、十キロ以上はある計算ですな。……何? 正確な距離を教えろだとォ? こまけーこたぁいいんだよ! 遠いんだ、とにかく遠いの!

 んん、気を取り直して――

 道中、二人は賑やかな江戸の市井を抜けてきます。

 蕎麦屋からは出汁のいい匂いが立ち込め、飴売りの声は高く、すれ違う人々は皆、夏の暑さにうんざりしながらも、どこか活気にあふれている。そんな中、そこかしこの立ち話で満開になっていたのは、やはりあの「お菊の皿」の噂話でありました。

「……聞いたか、あの番町の御屋敷の幽霊話よ!」

「ああ、夜な夜な皿を数える声が聞こえるってやつかい? 恐ろしいねぇ」

「いや、なんでも、屋敷の若旦那もすっかり気が触れちまって、引きこもりだって噂だぜ」

 信三郎は先程も聞いてた故、そんな噂話に耳を傾けることもなく、ただ前を歩くみなもの背中を追っておりました。その時にしんざぶろうは気付いたんですな――スタスタと足早だったみなもが、ほんのわずか緩んだのを。

 そして、信三郎には耳には入らぬような小さな、しかし確かな「……ふむ」という呟きが聞こえた気がした。みなもは脇目も振らず前を向いて歩いておりましたが、耳だけは市井の噂話の方へ極々僅かに傾いでいるようにも見えたのであります。

 ――ほほう? みなもめ、人の噂なんざぁ聞いてない振りしやがって、ちゃっかり手掛かり探してるじゃねぇか。

 信三郎は、心の中でニヤリとほくそ笑みました。


 なんだかんだ言いましても、やっぱり番町は近かぁない。ここのツ過ぎに和蘭亭を出て、ツ刻頃にゃぁ、やっとこ江戸城辺りに差し掛かる。

 もう少しで番町ってなところで、みなもの足がぴたりと止まりました。

 信三郎は何やら嫌な予感がしながらも、みなもに声を掛けたんですな。

「おーい、どうしたみなも。腹でも痛くなったか?」

 すると、みなもは何やらぽつりと呟いて、あさっての方向に歩いていくではありませんか。

「何処行くってンだよ。番町はそっちじゃねぇぞ」

 信三郎の声掛けにゃピクリとも反応せず、みなもは歩いた先の縁台に腰を下ろしたんでございます。そして、中から出てきた女中に何やらぼそぼそ言っている。

 眉をひそめた信三郎。訝しげに顎を擦っておりましたが、「……あーっ!」と思わず声が出た。

 当時の江戸城周辺にゃ此処彼処に甘味処がありましてね――現在いまでも営業っている当時の店とこもあるんですよ。例えば西山、あるいは梅園――とと、店の宣伝してる場合じゃねぇや。

 折しも八ツ刻、加えて、ずっと歩いていたみなもが空きっ腹になるのも無理はない。信三郎が元に駆け寄るのと、みなもがあんみつを口に運んだのはほぼ同時でありました。何とも声を掛けあぐねる信三郎をよそに、みなもはあっという間にあんみつを平らげたんでございます。

「信三郎、払っといて」

「……お、おい、ちょっと待て! 待てってば!」

 手を合わせて「ごちそうさま」と一言残し、みなもは番町方面に向かってスタスタ。後を追いかけようとした信三郎の背中に声が掛かる。

「お代を頂戴できますかね?」

 振り返ると、女中が腕組して半分睨めつけていた。

「……あ、ハイ」

 返事とともに、信三郎の巾着はちょいとばかし軽ーくなっておりました。


 さてさて、そんなこんなで、みなもと信三郎は今や江戸随一の怪談スポットに到着したのでございます。ちなみに、その隣が信三郎の悪友の屋敷であります。

 怪談スポットの割に野次馬はおらずしんと静まり返っていて、信三郎もちょいと拍子抜けしておりました。

 まぁ、考えてみりゃ、幽霊が幅を利かすンは丑三ツ刻だ。まだまだお天道さまも高いとくりゃ、野次馬たちにゃぁ徒労に過ぎぬ。

「ふむ」と一言漏らす新三郎。「何か分かるか」とみなもに声を掛けるも、返事はなんざぁあることもなく。「返事くらいせんか」と隣を見るも、みなもは門から屋敷の奥へと続く道を、まるで獲物を見定めたたかのように鋭い眼差しでじっと見つめていたんでございます。

 何とも集中している様のみなもに、どう声を掛けたものか、と考えあぐねる信三郎。そうこうしている間に、みなもはするりと門をくぐり、屋敷の敷地へと足を踏み入れちまったんですよ。これには信三郎も慌てて後を追いかけました。

 広大な屋敷の中は、噂に違わず、陰気な空気が漂っております。昼日中だというのに、どこか薄暗く、人気ひとけがない。

 信三郎の目は庭の片隅に佇む古びた井戸で止まります。いかにもと言った古井戸なんですが、真新しい七五三縄しめなわが張られ、供え物らしきものまで置いてあるんですから、如何に家中の者が怯えているかが、この光景一つで分かろうというもんです。

 そんな場所にズケズケと近寄り、七五三縄なんぞも気にもせず、井戸の奥底を覗き込むバカがおりました。

 「――!」

 流石の信三郎もこれには肝を冷やした。慌ててみなもバカに駆け寄ると、腰を引っ捕まえて、井戸から引き剥がす!

「……何すんのよ、信三郎!」

「何すんのよはこっちの台詞だ! 大体、お前は――」

「そこで何をしておる!」

 口喧嘩の最中に嘴挟む奴がいる。みなもと信三郎は同時に声の主と目を合わせることとなりました。

 二人の目に映ったのは、質実剛健をそのまま形にしたような御仁――羽織袴姿で腰元の大小にも緊張を感じさせるようなお武家様でした。

 信三郎が口を利く。

「これは失礼申した。拙者、品川宿の蜷川信三郎と申す者。故有って、こちらの井戸を見学させてもろうております」

 ぐうたら三男坊と言えども、礼儀だけは怠りありません。このあたりは蜷川家の躾の賜であります。

「ほほう、品川宿の」

 信三郎とお武家様が何やら言葉を交わしておりますが、みなもはそんな事などお構いなしに、井戸の周りをウロウロ。挙句の果てにゃまたもや井戸を覗き込んでおりました。

 井戸の底から、ひんやりとした空気がふわりと舞い上がってくる。みなもの顔が、真剣な探求者の顔へと変わります。そして、井戸の縁にそっと手を触れ目を閉じる。

 まるで、井戸から発せられるかすかな震えや、水の匂い、空気の流れ一つ一つを、全身で感じ取ろうとしているかのようでありました。

「そちらの女性にょしょうはもしや――」

 お武家様がみなもに向き直ったとき、みなもは井戸から顔を上げてにっこり微笑んだ。

「私は平賀みなも! お武家様、お見苦しい姿を晒しまして、大変失礼致しました」

 そう言ってペコリと礼をしたもんだから、お武家様も破顔した。

それがしはこの屋敷の勘定方、庄兵衛と申します。……そなたがあの『品川宿の変わりモン』と名高い――」とまで口にして、「失礼」と、頭を下げた。

「あはは、気にしないで下さいな。それより、この井戸、もう少し見ていてもいいですか? あの幽霊の噂の謎があるかなぁって思ってるんですよ」

 この言葉に庄兵衛の眉がピクリと動く。だが、それもおくびにも出さずにみなもに言ったんでございます。

「はっはっは。そうですか。怖いもの知らずのお嬢さんだ。お好きなだけお調べなさい。何か分かったら、某にもお教えいただきたいものです」

 そう言って庄兵衛は踵を返したんであります。

 背を向けて二人の元を去る庄兵衛はニンマリしておりました。

「……フッ。井戸には何もありゃせんよ。『からくり少女』と聞いて、少々肝を冷やしたが大したことはなさそうだな」



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