第30話 人のちんしこを笑うな02

 魂が骨まで震えた。

 蛇に睨まれた蛙みたいな、それは条件反射だった。


 捨て去った遠い記憶のこととはいえ、身体はくっきりと、当時のことを覚えていた。



 グラウンドと校舎の境界の、狭間のような女子トイレで、俺は今、最大の危機に直面していた。




 魂が震え上がり、骨に伝わって、俺の存在意義ごとおぼろげにさせた。






 開け放たれた個室の前、俺は洋式便器に座った彼女から、ちっとも身動きが取れずにいた。





 なんのつもりだ、こいつは。

 なんのつもりで、俺をこんなに、追いかけるのだ。


 体育教師に捕まるよりも、どっきり大成功の看板よりも、よっぽど事だ。



 官憲にとっ捕まるよりも、社会的地位が抹殺されることよりも、よっぽど事だ。




 この女が、俺を追いかけ、捕まえ、なにをしようというのかが、よっぽど事だ。




 身体中に、警鐘が鳴り響く。

 ロボットアニメで、怪獣が出た時みたいな、爆発的な音である。


 身体中に、警鐘が、これでもかと鳴り響く。



 レッドアラート、危険信号だ。




 逃げない限りは、俺はこいつにまた、なにをされるかわかったもんじゃないのだ。






 だというのに、ビビっちまったこの身体は、ほんの一ミリたりとも、ぴくりとも動いてくれないのだ――!






 蛇に睨まれた蛙――!

 いや、精子のように手も足も出ないのなら、蛇に睨まれたオタマジャクシというところか。


 蛇に睨まれたオタマジャクシ――!



 醜い精子の子みたいな俺は、ばくばく蛇に食われるみたいに、卵子と結合するチャンスすらなく、一憶数千万匹の爪弾きものだ――!




 今日だって俺は、ブッかけレディに応えるために、ザーメン・タンクに可能な限りザーメンを溜めていたのに、こいつをどうすればいいんだ。






 それともフレッシュ・ちんしこ・ミルクをすべてくれてやるから、醜い精子の子みたいな、俺は勘弁してくれと言えば、こいつは言うことを聞いてくれるだろうか――!





 否――。

 断じて否――。


 そんな取引が通用するなら、俺はこいつに、ここまで恨まれちゃいない。



 そんな取引が通用するなら、顔面ザーメン着陸した時に、おしっこをブッかけられたりしない。




 俺のザーメンなんぞに、価値があるだなどと、自惚れてはいけない。




 すべては夢だ。

 すべては幻だ。


 俺たちの関係性は、今ここに砕け散った。



 あったはずの友情は、愛情は、今ここに砕け散った。




 連綿と計算されつくした、ヒエラルキーの頂点の、単純な神々の遊びだ。




 だいたい、おしっこ・ペーパーも、仕込みだろう。

 こんな綺麗な女が、スクールカーストを極めた女が、俺のためにあんなものをこさえないだろう。


 だいたい、舐めつくされたザーメン写真も、仕込みだろう。



 こんな綺麗な女が、スクールカーストを極めた女が、俺のためにあんなものを舐めないだろう。




 だいたい、俺はおしっこの味をすっかり覚えたというのに、おしっこまみれのあの写真たちも、仕込みだろう。




 誰かを、またこいつは、従えているに違いない。

 誰かを、またこいつは、いじめつくしているに違いない。


 おしっこをブッかけたか、ザーメンをブッかけられたか、男か女かは知らないが、グループワークの最中に違いない。


 そして、おしっこをさせたのだ。

 おしっこ・ぺーぱーを、毎日せっせと作らせたのだ。



 そして、ザーメンまみれの、ちんしこセルフィを、毎日べろべろ舐めさせたのだ。




 寄ってたかって、誰だか知らないそいつはこいつによって、俺の写真におしっこをブッかけさせられたのだ。




 ヴァーチャル・リアリティの完成である。

 居もしない、ブッかけレディは、姿形すら容易に想像できる。


 なんのことはない、ご大層なヘッド・マウント・ディスプレイなどなくとも、こんなに簡単に、ヴァーチャル・リアリティの完成である。



 ヴァーチャル・ユーチューバーに熱を上げるみたいに、陰キャで底辺の童貞男子は、すっかり簡単に転げてしまう。




 俺は今の今まで、居るはずもないブッかけレディに、熱を上げていたのである――。




 忸怩たる思いだ。

 本当なら、ぶん殴ってやりたかった。


 洋式便器で、ふんぞり返って、まるで彼女は王様のようだ。



 俺のハニーに跨って、偉そうにして、まるで彼女は王様のようだ。




 本当なら、ぶん殴ってやりたかったが、身体がちっとも動かないのだ。




 レッド・アラーとは、今も鳴り響いている。

 俺の身体は、魂が骨まで震えている。


 俺は今や、手も足も出ない、蛇に睨まれた精子である。



 ぶん殴ってやりたいが、それよりもなによりも脅えて、逃げ出したいのに、指先ひとつも動かないとは、ちんしこマンめどうしたのだ!




 マラソンランナーがスタートラインに押し寄せて、天高く号砲が轟いたのに、俺はなんとしたことか、その音に脅え、すくんでしまった――!




 さあどうする。

 これからどうする。


 一分一秒、これからどうする。



 こいつは長い間、待ってくれるなどあり得ない。



 俺はまた、軍門に下るのだろうか。

 毎日毎日、またいじめられるのだろうか。

 俺はまた、ちんしこさせられるのだろうか。

 毎日毎日、半勃ちしたちんちんを、小さな足で踏まれるのだろうか。


 おしっこをブッかけられて、わけもわからず射精するのだろうか。



 誰とも知らないザーメンを、ブッかけレディの代わりにと、ヴァーチャル・リアリティみたいに現実に、べろべろ唾液のにおいが染みつくくらいに、泣きながら舐めなくてはならないのだろうか。




 スポーツ女子に組み付かれて、いいにおいがして柔らかくて、くらくらとしていい気分で、暗澹として吐きそうで、今度は俺はザーメンの味を覚えさせられるのだろうか。




 逃げよう――。

 逃げよう――。


 逃げよう――――!


 今、何分何秒経った?

 俺が聖域の、五つある個室の、真ん中のドアを開け、どのくらい経った?


 今、何分何秒経った?



 スローモーションみたいな、恐竜の誕生みたいな、もっと前みたいな、随分未来みたいな、地球の消滅みたいな、何分何秒経った――?



 身体の感覚よ、戻れ!

 震えた魂よ、骨よ、踏ん張れ!


 身体の感覚よ、戻れ!



 戦慄いたくちびるよ、縮みあがったちんしこジュニアよ、吠えろ!




 今こそ大きな声で、びっくりしてはいらんないだろうって、吠えろ!吠えろ!!






 体育教師に捕まるよりも、どっきり大成功の看板よりも、官憲にとっ捕まるよりも、社会的地位が抹殺されるよりも、明日が来ないよりはマシだ!マシだ!!






 下唇を噛み千切る。

 錆びた鉄の味を飲み込む。


 震えた手で、ぎこちなくも、俺は動く。



 震えた足で、ぎこちなくも、俺は動く。



 行ける――。

 行ける――!


 今ならばまだ、俺はまだ、逃れられる。



 今ならばまだ、ちんしこマンはまだ、逃れられる。




 薄明かりの、あの狭間の、異境の、出入り口を目指せば、またいつも通りの日常が待っている――!






 ――だからそんなに、待っていてくれるなんて、そんなことないだろう!






 敗因は、なんだと思う?

 俺が女子トイレでちんしこをする、変態だからか?

 ――違うね。


 敗因は、なんだと思う?

 俺が中学生の時、こいつに顔面ザーメン着陸をキメたからか?

 ――違うね。



 敗因は、なんだと思う?

 陰キャのくせに、運命の女ができたと浮かれて、警戒もせずに、今日この個室のドアを開けたことか?



 ――違うね。




 敗因なんて、単純さ、15年と少し前、俺みたいなクソッたれのクズ野郎が、一億数千万の争いにまぐれ当たりで勝っちまって、この世に生まれ落ちてしまったことさ。




 そういう意味では、運命だっただろう。

 俺は多分、こいつに、この女に、抜け殻にされると決まっていただろう。


 そういう意味では、運命だっただろう。



 運命なんて、粉々に砕けて、アスファルトと一緒に固められちまえば、這い上ってくることもなかったのに――。




 運命なんて、エジソンが発明なんてしなければ、遠い将来で手ぐすね引いて、ちんしこマンも死なずに済んだのに――。






 クワガタが獲物を捕らえるみたいに、そいつの脚は伸びて、俺をつかんだ。






 ぐい――と、引き寄せられる。

 ばね仕掛けで、個室のドアが閉まる。


 俺を抱いたみたいに、そいつは身を乗り出して、個室のスライド式の鍵をかける。


 かたん――と、音が響いた。

 のぞき窓の色が、赤くなった。


 レッド・アラート、危険信号だ。



 レッド・アラート、危険信号だ。




 ロボットアニメで、怪獣が出た時みたいな、爆発的な音だ。




 人生の幕の、降りる音だと、俺は思った。

 今この瞬間、この時に、全部すっかり、俺は終わったと、俺は思った。


 人生の幕の、降りる音だと、俺は思った。



 分不相応に夢を見て、結局どぎつく突き落とされて、お母さん今度会う時は、きっと俺は、拘置所の面会室だと思います。




 分不相応に夢を見て、結局地の底までぶち落とされて、お母さん今までずっと、騙していてすいませんなんて、今更すぎて怒られるでしょうか。




 今日の弁当を思い出す。

 残り物詰め合わせの弁当を思い出す。


 今日もニラレバが入っている。



 ニラレバはもはや、我が家の常備菜で、俺はブッかけレディのために、好きでもないのに食べて――。




 とん――と、身体を押され、ドアに当たった。




 きょとん――と、俺はする。

 何度か、目を瞬かせる。


 そろり――と、あたりを見回す。



 何度か、何度か、目を瞬かせる。



 どうしたんだ?

 証拠の写真でも撮るんじゃないのか?


 どうしたんだ?



 こいつが変態ですなんて、脅しにかかるんじゃないのか?




 どうしておまえは、俺のハニーにふんぞり返って、聖母マリアみたいに微笑んでいるんだ――?




 おまえは、いったいなにを――。


 言おうとして、そして遮られて――。



 彼女は人差し指を口の前に立て、キスするみたいにして、そしてそれを俺のくちびるに押し当てて――。




 はじめに貰った写真みたいに、制服の裾をつかんで持ち上げ、ブラごとたくし上げてふたつのふくらみの南半球を覗かせて――。






 左の乳房の影に、色っぽいほくろがあった。

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