第8話 バック・トゥー・ザ・ちんしこマン03

 自分の中に自分でないものを見つけた時、人は誰しも恐怖する。

 泉新一が寄生獣・ミギーに右腕を奪われたとき、彼は自分の意思で動かない右腕を恐れ、警戒し、包丁でぶった切ろうとした。

 俺だって同じだ。

 メリー・ゴー・アラウンドのような、サーカスのテントのような女子トイレでちんちんががちがちになり、俺は恐怖した。

 なんの知識も俺にはなかった。

 今でこそちんしこマンだが、当時の俺は初心な少年だった。


 ちんちんが膨らんで大きくなり、がちがちに硬くなるなんて、初めての経験だった。



 ちんちんは自分でないなにかで、股間にぶら下がっているものは、宇宙人の触手か触腕なのではと思った。




 がちがちにいきり勃ち、びくびく震えて唾液を散らすさまは、エイリアンにも似ていて、まさか爆発するのではとか、今にも噛みついてくるのではないかとか、ほとんど半狂乱になった。






 だが、俺はすっかり感覚を麻痺させて、狂乱も長くは続かなかった。






 前後を見失う、洞穴のような女子トイレ。

 嗅覚が壊れたのかと思うくらいの、それしか感じられない、ツンとしたアンモニア臭。


 悪さを働き、叱られるのではないかという、大きな恐れ。



 からっぽだった冒険心に、清流が流れ込んできたかのような、そこはかとない満足感。




 男子不可侵の、ほんのちょっぴり覗くことすら許されない女子トイレに立っているという、背筋の震えるような背徳感。




 相乗効果だ。

 カレーはルゥだけでなく、ライスだけでなく、一緒に食う方が美味いのだ。


 相乗効果だ。



 カレーライスという発明があったからこそ、あの致命的に中毒性のある黄色いどろりとしたスープは、日本の国民食になったのだ。




 暗がりも、異臭も、恐れも、満足感も、背徳感も、ひとつではちんちんの異常を乗り越えられなかった。






 しかしすべてがいっしょくたになったことで、カレールゥにライスどころか、福神漬けも野菜サラダも、乳酸菌飲料もセットになったように、軽々と違和感を乗り越えた。






 ラッシーという、あの乳酸菌飲料。

 カレーの専門店にいくと、たまについてくる白いアレ。


 カレーを食べた後の、痛覚に似た辛みを吹っ飛ばす、極上の清涼感。



 ぐるぐるいくつも重なって、そのたび追加されたり上書きされたり、まったくゼロに戻ったり、繰り返して繰り返した。




 ちんちんががちがちに完全勃起したことさえ、ひとつの要素となって、カレーセットのひとつになった。




 もう、恐れることなどない。

 もう、なんにも怖くはない。


 もう、恐れることなどない。



 俺はもう、ひとりではない、こんな幸せな気持ちなんて、味わったことがない。




 カレーライスだけでも最強なのに、福神漬けも野菜サラダもラッシーもついて、ちっとも負ける気がしない。




 虚栄心に満たされた。

 勃起ちんちんを味方にした。


 満足感に溢れていた。



 おまえがエイリアンだったとして、くらいついてきたとして、だからなんだ。



 女子トイレの探検を再開する。

 ばちばちと、かろうじて蛍光灯が一本だけ、点くのか点かないのか、奮闘している。

 異臭で辺りは充満していた。

 暗がりの中でも、黒カビや水垢や、煤けた様子が分かった。


 雨も降っちゃないのに、足を踏み込むたび、ぴちゃりと水音がした。


 そして、異臭が跳ねるのだ。

 そして、空気が混ざるのだ。


 そして、異臭が跳ねるのだ。



 ツンとして、アンモニア臭が脳にまわって、感覚の麻痺が倍加した。



 ぞろりと、俺は見まわす。

 洗面台が、鏡が多いことに気が付く。


 男子トイレでは、洗面台や鏡は二対しかなく、いつも男児が取り合っていた。



 男子トイレでは、洗面台や鏡は二対しかなく、手を洗わずに後にする奴もいた。



 だのに、三つも四つも、五つもある。

 女子たちが、女性たちが、そこで手を洗っている。


 男子トイレにはふたつきりの、洗面台と鏡で、五つもあるそれで、手を洗ったり、髪の毛のハネを気にしたり、化粧を直したりしている。


 女子トイレだ。

 女子トイレだ。


 俺は女子トイレにいるのだ。



 股間のエイリアンが、ズボンの中で成長した。




 俺は今、男子は絶対に入ることのできない、女子トイレにいるのだ――!




 洗面台のひとつを、ためしに手に触れた。

 蛇口の持ち手は、やけにざらりと、そしてひんやりしていた。


 蛇口の持ち手は、やけにぐるぐる回って、持ち手が分捕れるのではないかというくらいのところで、やっと水流を吐きだした。


 そっと、水流に俺は触れる。

 小さなもみじが、水に濡れていく。


 そっと、手指に俺は、水を馴染ませる。



 ――冷たい。



 異常なほど、水は冷たかった。

 おそらく、長く水道管にとどめられて、地中で冷蔵されたのだ。


 もしかしたら、麻痺した身体の中で、手指だけが鋭敏になって、冷たさを増幅させたのかもしれなかった。



 整然として、洗面台や鏡と同じだけの個室があって、どんよりと淀んでいた。



 当然だが、小便器はない。

 L字型のそいつで、肩を並べて、ポークビッツを放り出すことはない。


 女子たちは、個室の奥で、大便器しか使わない。



 L字型の小便器で、ズボンをずり下げて半ケツで、小便の量を競うアホはいない。




 女子たちは、個室の奥で、お上品に大便器でしか用をたさない――!




 女子トイレだ。

 女子トイレだ。


 俺は女子トイレにいるのだ。



 俺は今、男子は絶対に入ることのできない、女子トイレにいるのだ。




 鋭敏な手指に、水流は冷たくて、カレーセットにまた内容が足されて、身体と心が喜び始める。






 俺は今、俺は今、男子は絶対に入ることのできない、目撃されればたちどころに手が後ろに回る、女子トイレに潜入しているのだ――!






 ――。

 ―――。


 また俺は、歩を踏む。



 また水が跳ね、異臭が跳ねる。




 ひとつの個室の、五つあるうちの真ん中の、その前に俺は立つ。




 あやまちの始まりだ。

 ちんしこマンの始まりだ。


 なにがあやまちなのだ。



 男は誰しもちんしこマンだ。




 女は誰しもまんずりガールだ。




 あやまちなどではない。

 これは正義だ。


 ちんしこマンの誕生だ。



 これは正義のヒーローの誕生秘話だ。



 個室便所は閉じてあった。

 単にそのトイレ固有のシステムだろうが、俺は女子トイレだからだと思った。


 女子トイレにいることで、違和感のすべては、女子トイレだからだと思った。



 そのせいで、俺は余計に興奮して、股間のエイリアンがまた成長した。



 個室のドアの、覗き窓を見る。

 鍵のかかったかかからないか、そこで慎重に確認する。


 個室のドアの、覗き窓が赤なら使用中だし、青なら中はからっぽである。



 個室のドアの、覗き窓が赤なら俺は逃走しなくてはならないし、青なら罪を免れられる。



 心拍数が上がった。

 異臭で鼻は効かなかった。


 水流で手指は冷たかった。



 暗がりも恐れも冒険心も背徳感も、俺を興奮させるだけだった。




 どくんどくんと、胸の鼓動と股間の鼓動と、うるさくて耳すらも使えなくなった。






 覗き窓は――青だ!






 誰もいない。

 誰もいない。


 ここは俺しかいない。



 俺だけの、この女子トイレは俺だけのものだ。




 女子トイレこそが、俺のパラダイスで、心象風景で、童心で、生まれた場所だ。




 個室のドアをそっと開ける。

 ギィ――と、軋み上がった音を上げる。


 個室のドアがそっと開いていく。



 暗闇が暗がりになって、徐々に個室は、すべてを俺に見せ始める。




 ――洋式便器!




 ――!

 ―――!


 ――――!


 また心臓が跳ねる。

 またちんちんが跳ねる。


 また五感が失われる。



 宇宙に放り出されたみたいに、ふわふわに足元がおぼつかなくなる。




 カミ―ユ・ビダンが流れ星を見た時みたいに、ふわふわと身体がおぼつかなくなる。




 当時、俺の通った小学校は、和式便器だった。

 それは男子トイレだけでなく、おそらく女子トイレもそうだったのだが、俺はちっとも知らなかった。


 当時、俺の通った小学校は、和式便器だった。



 まだ和式で用をたせない児童が少なく、交換前だったのだが、俺はちっとも知らなかった。




 だから俺は、この時洋式便器を見て、女子トイレだからだと思ったのだ。




 女子トイレは、洋式便器!

 洗面台も鏡も多いし、上品に用を足す!


 女子トイレは、洋式便器!



 半ケツ出して、ポークビッツを放り出して、肩を並べた連れションはしない!




 女子トイレは洋式便器で、個室の奥で上品に、彼女達は花を摘んでいる!






 女子トイレは、洋式便器なのだ――!






 次々と明らかになる、女子の生態。

 次々と明らかになる、女子トイレの真実。


 歴史書を紐解いても、絶対に載ってない、大人の不都合な真実。



 時代の最先端を切り開く、まさに神童であり歴史の探究者。




 女子トイレは洋式便器で、女子たちは、女性たちは個室の奥で、上品に用を足し、花を摘んでいる!






 こんなに薄汚れた、自治体の手抜きのような公衆女子トイレでさえ、恐ろしくも儚く美しい――!






 ばちばちと、かろうじて蛍光灯が一本だけ、点くのか点かないのか、奮闘している。

 異臭で辺りは充満していた。

 暗がりの中でも、黒カビや水垢や、煤けた様子が分かった。


 雨も降っちゃないのに、足を踏み込むたび、ぴちゃりと水音がした。


 そして、異臭が跳ねるのだ。

 そして、空気が混ざるのだ。


 そして、異臭が跳ねるのだ。



 ツンとして、アンモニア臭が脳にまわって、感覚の麻痺が倍加した。




 個室のドアを開けたからか、異臭はまたぞろ跳ね上がり、完璧に俺は自分も失った。




 さあ、最後の探検だ。

 さあ、時代を拓くのだ。


 さあ、最後の探検だ。



 さあ、個室の中に、俺は踏み込んで――。




 大きすぎる些細な発見をして、失った自分さえも砕け散るのは、もう間もなくCMの後である。

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