第58話


「あの子ね、料理が出来ないことが原因で、以前交際していた方から振られたことがあるの。確か、大学生の時だったかしら……」


 煉は作業をする手を止めず、相槌を打つこともせずに、ただ静かに紅子の言葉に耳を傾ける。


 さくらの過去について、本人から何かを直接聞いたことは今までになかった。自身も、つい先日までは過去を隠して、さくらに接し続けていた。過去を隠すということに後ろめたさがなかった訳では無い。お互いに言うタイミングが掴めなかっただけだ。


「でも、貴方は娘のことを見放したりはしなかったのね」


 米を研ぎ終えた紅子は、煉の方へ振り向き微笑む。


「人間、誰にでも得手不得手がある。それを相手に求め、責めるのは筋違いだと俺は思う。さくらの駄目な部分は俺が補えばいいだけだ」


 料理が破滅的に下手だからと言って、俺がさくらを嫌う理由はどこにもない。料理や掃除が苦手ならば、俺が代わればいいだけの話だ。


 そのことに不満は何一つない。寧ろ、野良猫のような俺を拾ったさくらを、今でも心から感謝している。


「ふふっ。はっきりとものを言うのね。でも、嫌いじゃないわ。そう、お互いの足りない部分を補い合える関係になれたら良いわよね。凄く素敵なことだと私も思うわ。……だから、貴方は料理教室へ通おうと思ったの? 料理が出来ないさくらの代わりに」


「いや、料理に関しては、ただの趣味だ」


「あら? そうなの?」


 即答した煉を、紅子は少し驚いた眼差しで見つめる。


 男が料理をするというのは、やはり、世間一般的にはまだ浸透していないのだろうか。昨今のテレビ番組では、料理男子なる者がここぞとばかりに、モテはやされているというのに。


「……ここ最近、さくらの元気がない。だから、少しでも気分が晴れるようにと、普段とは違う料理を学び、作る為に此処に来た」


「そういうことだったのね…………あっ! なら、良いことを思いついたわ! あの子が好きなお菓子を二人で作りましょう。貴方がさくらの為に作ってくれたと知ったら、絶対喜んでくれるわ!」


 紅子は瞳をきらきらと輝かせ、両手を胸の前で合わせて、妙案だとばかりに嬉しそうに破顔する。


「生憎だが、菓子作りは未経験だ」


 料理は生きていく上で自然と身に付いた。だが菓子作りについては百年以上も生きていながら、未だ経験をしたことはなかった。

 作る手間を考えると、買った物を食す方が合理的だと思っていたからだ。


「平気よ。私がついているんだから」


 どうするべきか思考していると、さくらによく似た紅子の瞳が、煉の姿をじっと見つめ捕らえていた。


 ◇


「どうだった? お母さんの料理教室」


 陽が傾き始め、橙色に染まっていく空を眺めながら、二人はゆっくり家路を歩く。さくらは車道側を歩いている煉の横顔を見上げた。


「ああ、実に有意義な時間を過ごせた。感謝している」


「なら良かった。私のお母さん、ちょっとテンションが高い人だから、煉は苦手かなって心配してたの」


 煉の満足げな表情に安堵し、思っていたことを口にする。


 さくらは料理教室へ向かった二人を胸裏では心配していた。自身の母親と煉の性格が合わず、大変なことになっているのではないかと、気が気ではなかったらしい。実際はさくらの杞憂きゆうで終わったようだが。


「そんなことはない。料理について色々なことを聞けた。昔ながらの豆知識も豊富な方だった」


「そっか。で、何を作ったの?」


「今日の夕食に作ろうと思っている。だから、それまでの楽しみに取っておけ」


「そう言われると期待度上がっちゃうなー」


 冷蔵庫の中身を脳裏に思い浮かべて、食材の有無を確認していた煉は、さくらの期待の眼差しを一身に受け、満更でもない様子だった。


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