第40話 真実を教えて


『八重樫くんは、さくらのことが好きだよ』


 昼に聞いた優の言葉が、脳裏で幾度も反芻する。自分が、ここまで相手の気持ちに疎い人間だとは思わなかった。


 煉の気持ちだって確かなことは何も解らない。それなのに、八重樫くんの気持ちまで聞かされた私は、一体どうすればいいのだろう。


 退勤し家路を辿る最中、さくらはただひたすらに苦悩していた。何気なく視線を上げると、すでに自宅マンションの扉の前だった。扉を開ければ煉が待っている。ドアノブに触れる一瞬、躊躇う。けれど、此処で永遠に悩んでいても何も変わらない。──今はどうすることも出来ない。


 さくらは一度、深呼吸をすると扉を開けた。


「ただいま……」


「帰ったか。今日は鶏肉が特売でな、さくらの好きな唐揚げを作ったんだが…………何か有ったのか?」


 煉はリビングに現れたさくらの様子が何時もとは少し違うことに気付き、咄嗟に腕を掴み引き留める。だが、さくらは目線を落とし煉と目線を合わせようとしない。


「ううん、何もないよ」


「なら、どうしてそんな顔をしている。会社で何か有ったんだろう。言え」


「…………腕、痛い。離して」


「俺には言えないことなのか」


 さくらの細い腕を掴む煉の力が徐々に強まっていく。振りほどこうにも、腕に込められた力が強く抵抗も虚しく終わる。


「本当に何でもないの。お願いだから、放っておいて」


「そんな顔をされて黙って放っておける程、俺は無関心じゃない」


 どうして。どうして、こんな時に煉は平気で、そんなことを言えるの? そんなことを言われたら、ほんの少しでも私に気があるのかもしれないって勘違いをしてしまうじゃない。


 きっと、そんな事はないのに。


「せっかくのご飯が冷めちゃうね」


 場にそぐわない、美味しそうな夕食の香りが鼻先を掠めていく。それなのに、今は少しも食欲が湧かない。


「はぐらかすな。……もしかして、あの男か?」


 煉はさくらに詰め寄り、リビングの壁際に追い込み、逃げ場を無くしていく。煉に包囲され逃げ場を失ったさくらは、俯く。


 今は煉と目を合わせるのが辛い。


 気付かなければ良かった。本当は何時の日からか、煉のことを好きになっていたという自身の感情を。八重樫くんの私に対する好意的な感情を。


 あの時みたいに、お酒の勢いで冗談めかして告白をして誤魔化せる状況なら良かった。

 それなら、例え失敗しても、断られてもなかったことに出来る。冗談だよって言えた。


 でも、今は言えない。

 そんなこと、出来ない。


「聞いてどうするの。煉には何の関係もないよね……」


「有るに決まっているだろう! 俺は……」


「今は何も聞きたくないの!!」


 ただの同居人だって、今さら再確認をさせられるくらいなら、そんな言葉、要らない。


 ──聞きたくない。



「……分かった」


 鬱血するほど強く掴まれていたさくらの腕から、煉の手の力が抜けて、するりとほどける。


 さくらは顔を上げることが出来ず俯いたまま、その場に立ち尽くしていると、煉の気配が徐々に遠ざかっていく。


 そして、煉は玄関から部屋を出て行った。


 ◇


 外は豪雨だった。梅雨時の湿った空気が雨と共に身体に纏つく。

 煉は傘を差すこともせずに、全身を雨に打たれたまま夜の街を宛もなく、さ迷い歩く。


 濡れた髪が視界を塞ぎ、前が見えずに傘を差した通行人と衝突する。


 何て言えば良かった。どう声を掛けてやれば良かった。


 さくらのあんな姿は、共に暮らし始めてから一度も見たことはなかった。


 こんな時に限って、何の言葉も思い浮かばない自分の無能さに苛立ちが募ってしまう。


 俺がいるから、さくらは苦悩してしまうのだろう。ならば、何も言わずに、さくらの前からそっと消えてしまえばいい。


 理解していたはずだが、その居心地の良さに、今までずっと実行出来ずにいた。良い機会じゃないか。これで、自分が不死身だとさくらに知られて、怖がられることも気味悪がられることも、全て無くなる。


 最初から、こうすべきだったんだ。


 これ以上、さくらを悲しませることも無い。


 これが、最初で最後の俺の我が儘だ。


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