episode6.ネットカフェで歯車と狐は出会う

1.オクトパスの一室

 少し前まで感じていたえた匂いは、数分前に嗅覚が麻痺してしまったのか、殆ど気にならなくなっていた。広い空間には歩き声や物音がするが、話し声は聞こえない。誰もが一人でそこにいることの証左のようだった。


 イケブクロの繁華街から少し外れた場所にあるネットカフェ「オクトパス」は、昨今珍しい、会員登録が不要の店だった。その分、サービス内容も必要最低限で、不愛想な若い店員が押し付けてきた個室のカードキーにはガムのようなものが付着していたし、個室も四方を薄いパーティションで区切っただけの安っぽいものだった。

 その代わりに防犯装置の類はレジ周りにしかなく、シズマ達のような境遇の者にとっては天国のような場所とも言えた。


「……オギノ玩具店が、ACUAから消滅したわ」


 脂でギトついたキーボードを操作していたエストレが静かに呟いた。各個室に取り付けられたデスクトップ型の端末は、こんな店にしては上等のようで、稼働音が小さい。しかしエストレの声はそれにすら掻き消されそうだった。


「そうか。早いんだな」


「あの辺りは住宅地だから、関わり合いになりたくなくて出てこなかった人たちが、一斉に「噂話」を流したんでしょうね」


 フラットシートの上に座ったエストレは、後ろにいるシズマを振り返った。右目に消毒液を浸み込ませたガーゼを乗せている姿を見て、眉間を微かに寄せる。


「痛くない?」


「瞼の中で小人がタップダンス踊ってやがる」


「片目で平気?」


 気遣うような台詞を聞いて、シズマは左眉を大仰に持ち上げた。

 ガーゼの上から眼帯を被せ、顔にしっかりと固定する。ジリッと浸み込んだ消毒液が頬の上を流れ、途中で揮発した。


「どうした? 随分と殊勝じゃないか。ついさっきまでの威勢を、水たまりにでも落としたか?」


 エストレは黙り込んだまま答えない。シズマはそれを見て鼻で笑った。


「似合わない面してるなよ。お前が世間知らずのお嬢ちゃんなんてことは俺は百も承知だ。腹も立っていない。だが、俺は俺の命だけが大事だ。オーケー?」


「わかっているわ。さっきのは、ちょっとだけ愚かだったと思ってる」


「ちょっとか?」


「この先のために最大級の反省は残しておきたいわ」


 肩を竦めたエストレに、シズマは愉快だと言わんばかりに口角を緩めた。


「それだけ減らず口が叩けるなら大したもんだ。それで、見つけられそうか?」


「情報量が多すぎて、拾い集めるだけで手一杯ね」


 モニタにはいくつもの仮想領域が起動して、そのそれぞれに文字が流れていた。どの画面も色は異なるが、背景は統一されている。世界的チャットルーム「デルタ」は今日も多くの参加者を抱え込んで、シブヤのスクランブル交差点のような賑わいを見せていた。

 どこかのチャットルームでナンパが始まったと思えば、違うルームでは違法薬物の取引が始まり、都市伝説で盛り上がるルームを監視して嘲笑っている者たちすらいる。


デルタはACUAが最も密接に関わる場所と言われているけど、ご覧の通り、情報量が普通のネットエリアの比じゃないわ」


「お前が欲しい情報は、その中にいくつ紛れている?」


「クロワッサンの気泡の数を数えたことがある? 多分同じぐらいよ」


 シズマは白けたような吐息と共に、後ろの壁に背を預けた。


「途方もない話だな」


「ノート型端末を譲ってくれ、という輩は多いのよ。足の付かない中古であれば尚更。だから所持していなくても、金だけ巻き上げようとする「ディーラー」がいるの」


「更に俺たちは金がないと来ている」


「えぇ。タダで譲ってくれる、まともな業者はいないわ。不用意に行ったが最後、何をされるかわかったものじゃない」


 シズマのノート型端末が失われたため、エストレはACUAへのアクセスを容易に行うことが出来なくなった。ネットカフェの端末でもアクセスは可能であるが、いつまでも此処にいるわけにはいかない。


「この辺りには、まだレーヴァンも父の部下たちもいないようね」


 ノート型端末の調達とは別に、エストレは違う情報もその中から吸い上げていた。代理の銃しか持たないうえに目を片方使えなくなったシズマにとって、恐れるべきはレーヴァンや他の追手の追撃だった。

 玩具店でも、フィルがいなければ今頃どうなっていたかわからない。あの女アンドロイドと仲良く四肢を放り出し、雨に打たれていた可能性もあった。


「よくまぁ、そんなチャット画面から情報を抜き出せるな」


「それがACUAよ」


 エストレは入力端子を操作して、一つのチャットルームにフォーカスを合わせた。


「アセストン・ジスティルが実験のために最初設定したキーマンは、今では半数しか残っていないと言われている。でも実験が終了したにも関わらず、キーマンと同じ働きをしている者は当時の倍以上いるの」


「わかりやすい言葉で頼む。噂話を流す連中が増えているという意味か?」


「単純に言えばそうね。でもそれじゃ女子高生のおしゃべりと大差ないわ。キーマンは噂話をコントロールすることで、好きな場所に好きなように広める力を持っているのよ」


 彼らが誰かに話した、あるいはネット上で記載した情報は、一定以上の信憑性を認められて、そこに関わる人々に伝わる。あるいは口頭で、あるいはメールで、あるいはチャットで。作り話の噂話だったとしても、ACUAはそれを切り捨てたりしない。全ての噂を飲み込み、合成し、分離し、当初と全く異なる形にしてしまうことも容易い。


「噂を装飾し、信憑性を持たせる方法を知っている?」


「信じなきゃ不幸になる、と脅すか?」


「いいえ、本物の情報と混ぜること」


 エストレは右手の指を弾いた。

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