居場所。

 家の中はしんとしていた。

 この時間帯、雅弘の母はパートに出かけている。父はもちろん会社勤めである。電気の点いていない部屋の中は、静けさをより一層深いものにさせていた。

 まず電気を点けようと、手探りでスイッチを探し、押す。ぱっと明かりがともり、リビングが見えた瞬間ほっと緊張が和らいだ。これで躊躇なく理奈の顔が見れると思った。

 雅弘は理奈をソファーに座らせ、ホットミルクティーを注いで持ってきた。キャラメル色のそれは二人の顔を映しはしなかったが、喉を潤すことと身体を暖めることはしてくれた。

「おいしいね。このミルクティー」

 理奈の顔に少し笑顔が戻り、雅弘は安心した。

「市販のやつだよ。制作会社がいいんじゃない?」

 雅弘は口にすすりながら、理奈の外見を瞬時で見た。

 色褪せない黒髪、肩までの長さもちょうどいい。それに濡れたような大きな黒い瞳、少しつり気味に上がった目じりは黒猫を連想させる。鼻は小さく、鼻筋がすっと通っていて、そこは彫刻のような美しいラインだ。

 かわいい。やっぱりこの子はかわいいんだ。

 雅弘は今一度確かめた。そして確信した。クラスで一番のかわいさとは、こういう子のことを言うのだと。

 雅弘は急に先ほどと同じような動機を覚えた。心臓が高鳴り、理奈の顔をまともに見れなくなる。

 どうしたんだろう、俺は。

 自分でもわけがわからなくなった。一体どうしたというのだろう。

「あの」

 ふいに理奈が口を開いた。

「ん? どうしたの?」

 雅弘はなるべく平常心を装って言った。

「理奈でいい」

「え?」

「呼び方、理奈でいい」

 理奈は少し顔を赤らめてぼそぼそとつぶやいた。

「私たち、もう友達でしょ?」

 理奈はうつむきながらも、今度ははっきりとした口調で言う。

「雲雀君が前に言った」

 急に秋の名前が出てきて、雅弘はなぜか心臓をわし掴みにされたような痛みが走った。

「友達だから、理奈でいい」

 理奈は雅弘の目を見ていなかったが、しっかりとティーカップを力強く握り締めていた。

「私も、秋、雅弘って呼ぶから」

「友達ねえ……」 

 雅弘は何だか急に、邪悪な気持ちが沸きあがってきた。そして泣きたくもなってきた。自分でも意味がわからない。

「男二人はべらせて友達って、周りに何て言われるか知らないよ? 俺」

「え……?」

 理奈は何を言われたのかわからないというように、顔を上げて目を見開いた。

「だってそうじゃん。はたから見たらその光景、綾瀬さんが二人の男と連れ立ってるっていう風にしか受け止められないと思うな」

 雅弘の口は自身の意思を無視してぺらぺらとしゃべりだす。

「だから友達っていうのは無理なんじゃない?」

「な、何……? 意味わかんない……! 何でいきなりそんなこと言うの……!」 

理奈はおろおろとしながらも、怒りの意を確かに表情に表せて言った。

「俺は事実を言ってるまでだよ」

 何かっこつけてるんだよ、俺! 今ならまだ引き返せる! 謝れ、俺!

 雅弘は自分の心に怒鳴りつけるが、心のほうはまったく言うことを聞かなかった。

「綾瀬さん、男たらしって言われちゃうかも」

 何言ってるんだよ、俺!

「桜木君の言ってることは事実じゃないよ……! 単なる意地悪だよ……!」

 理奈の怒りの言葉を聞きながら、雅弘は、そうか、俺が今してることは意地悪なのか、と頭の隅でぼんやりと思った。ならばなぜそんなことをしているのだろう。

 理奈の目に涙がたまってきた。雅弘をぐっとにらみつけ、ティーカップはふるふると震えている。

「いいもん……! そんな風に思われたって……! 私は二人が好きだから、一緒にいるもん!」

「……え?」

 雅弘は思わず聞き返した。

「ちょっと待って綾瀬さん。す、好きって、俺たち二人のこと?」

「そうだよ。声をかけてくれたのはあなたたち二人だけだったから、友達として一緒にいさせて」

「あ、ああ、そういうことか……」

 雅弘は、理奈が秋に興味があるのではないかと思っていた。秋は人見知りをしない性質で、異性はともかく同性には気軽に声をかけられる。そこに雅弘がくっついて行って友達を増やしたようなものだった。秋には勝てない。どうやっても。自分がどんな麗しい姿になったとしても、秋を称えることはやめないだろう。

 雅弘はようやく自分の気持ちが見えてきた。このかわいい少女から親友の名前が出てきたので、動揺したのだった。一瞬、秋と理奈が二人きりでどこか遠くへ行ってしまうのではないかという思念が沸き、あわてて彼女に否定的なことを言ってしまった。自分の気持ちが理解できた途端、雅弘は耳まで真っ赤になった。

 恋をしている。

 俺は、恋をしている。綾瀬理奈に。

 この女の子のことが好きだ。

「綾瀬さん、あの、ごめんね。さっき言ったこと、気にしないでいいから」

 雅弘はすぐさま理奈に謝る。すると彼女はふっと笑った。もう怒ってはいなかった。

「呼び方、理奈でいいんだよ」

「あ、じゃ、じゃあ、理奈」

 理奈、と唇が動くのを感じ、その声には照れくささと戸惑いと、ほんのわずかな湿り気があった。理奈はにこりと笑った。

「私も、雅弘って呼ぶね」

「う、うん。あの、綾……理奈、さっきは本当にごめん。俺、どうかしてたんだ」

「気にしてないよ」

 理奈は軽く笑うと、学生鞄を肩に下げた。

「あ、帰るの?」

「うん。長居はできないし。思い切ってドアを開けてみるよ」

「いっそ蹴り飛ばしちゃえ」

「アハハ」

 二人はしばし笑い合った。その時だった。

 部屋のインターホンが無機質に鳴り響いた。雅弘は少し名残惜しそうにしながらも受話器を取って相手を確認する。

「はい」

「あの、桜木さんですか?」

「ええ、そうですけど」

「そこに、その……高校生くらいの女の子はいませんか。僕の姉なんですけれど……」

「あ……」

 弟だ。瞬時に雅弘は思った。前に弟とヘルパー、三人で暮らしていると言っていた。

 雅弘は一応受話器を耳から放し、理奈のほうへ顔を向けた。

「綾……えっと、理奈。弟さんが迎えに来たみたい……」

「……え?」

 理奈は困惑した表情を見せた。

「どうしよう。何て言って会えばいいかわからない……」

「自然体で行けばいいんだよ。いい弟さんじゃん。迎えに来てくれるなんてさ」

「うん……」

 理奈は決心をしたようで、瞳を真っ直ぐこちらに向けて頷いた。

「あなたのお姉さん、いますよ。綾瀬理奈さんですよね? 今呼んで来ます」

 雅弘は早急にそう言うと、受話器を置いて理奈を玄関まで連れて行く。

 ドアを開け、そこに立っている人物を見つめる。

 そっくりだった。

 さらさらとした黒髪。黒猫を連想させるような漆黒の瞳。小さくて、すっと通っている鼻筋。雪のように白い肌。目じりが少しきりっと上がっている。雅弘より少し身長が高いので、こちらを見下ろす格好になっている。

「すみません。姉がご迷惑をおかけしました」

 男の子は小さく頭を下げ、侘びを言った。見た目よりずっと礼儀正しい子だと雅弘は思った。

「帰るぞ、理奈」

 かと思いきや男の子はずかずかと、雅弘を押しのけて玄関へ入っていった。

「待って、智広(ちひろ)」

 姉の制止の声も聞かず、彼は理奈の手をむんずと掴み、さっそうと玄関を出て行った。雅弘もあわてて彼と理奈の姿を追う。

「雅弘!」

「えっ!」

 理奈が振り返って自分の名前を叫んだ。

「明日、学校でね!」

「あ、ああ。バイバイ!」

 雅弘は小さく手を振るしかなかった。弟の智広はこちらのほうを見ようとはせず、ただ自分たちのマンションだけを見据えているようだった。二人は霙の降る中を早足で自宅へ突っ切っていった。

 乱暴に玄関のドアが閉まり、雅弘はぼうっと立ち尽くした。理奈のこと。理奈の弟のこと。そして、秋のこと。雅弘の中で三人の人物たちがぐるぐると渦巻いていた。


   ✉


 今日の天気は快晴だ。昨日とは打って変わって、日差しが強く地面を照り付けている。気温は二十度まで上がり、四月下旬から五月の気候だと天気予報士はテレビの中で言っていた。

 トーストを齧りながら、雅弘は理奈への思慕に心を躍らせていた。

 そうかあ。俺は理奈のことが好きだったんだなあ。

 早く食べないと遅刻するわよと母にたしなめられ、急いで口に入れると弁当をかっさらって自分の部屋へと直行する。弁当を鞄の中に入れ、制服に着替える間も理奈の顔が浮かんでは消えなかった。学校へ行くだけなのにワクワクする。

 朝、教室に入ったら一番に「理奈」って声をかけよう。そして秋を驚かせてやるんだ。

 雅弘は躍る心のまま、制服を少し着崩す形で羽織り、スニーカーを履いて玄関のドアを勢いよく開けた。

 秋とは通常、待ち合わせをしていない。学校へ行く途中でタイミングよく会うかどうかだ。なので一人で登校する日も多い。今日は自分一人だけのようだ。雅弘は強く照りつける日差しに目を細めながら、商店街の道を早足で歩いていった。

 校舎が見えてくる。木立市立高等学校と名を彫られた銀色のネームプレートが、朝日の光を浴びて輝いている。校門をくぐったその先に、雅弘は重要な人物を見つけた。

 柊だ。

 そしてなぜか、秋が彼を先導するように大股で歩いていた。

 秋?

 雅弘は不穏な予感を抱いた。気になってこっそり後をつけてみる。

 体育館の裏まで二人は歩いていった。不安はますます募るばかりだった。

 ふいに二人は立ち止まり、向かい合う形となった。秋は険しい顔で柊をにらみつけている。後ろ姿の柊の表情は汲み取れない。

 秋が口を開いた。

「お前、どういうつもり?」

 訊かれた柊は何とも思っていないような口調で答えた。

「何が?」

「雅弘のことだよ」

「ああ、桜木君?」

「執行係に仕立て上げやがったじゃねえか」

「だって、彼ならぴったりだと思ったんだもん。あんな格好だけど真面目そうだし、仕事ちゃんとやってくれそうだろ?」

「おい、あんまナメんじゃねえぞ」

 秋の声の調子が低くなる。表情はますます険しくなり、いっそ憎んでいるような目つきだった。

「てめえがあいつを善意で執行係に選んだんじゃないことぐらい、わかってんだよ!」

 秋は怒鳴りつけた。ドスの効いた声が雅弘の耳に突き刺さる。耐え難くなって耳をふさぎたくなった。

 秋が自分のために怒ってくれている。

 それくらい、自分は無力だ。

 柊は高らかに笑ったあと、嘲笑を込めた笑みで秋を見て言った。

「雲雀君、勘違いしてるのは君のほうなんじゃない?」

「どういうことだよ」

「桜木君は自分から執行係に名乗り出てきたんだよ? それを俺が企んだとかさあ、証拠でもあるわけ?」

「証拠も何も、あいつがお前にハメられたって言ったんだよ!」

「それだって真実かどうかわからないじゃん。嘘かもしれないよ? 案外、ハメられてるのは君のほうかもしれないね」

「はあ……?」

「俺は桜木君のこと気に入ってるけど、桜木君は俺のことが嫌いなのかもしれない。だから親友の君にわざと泣きついて俺を悪に仕立て上げようとした。案外、桜木君もなかなかのもんだねえ」

「てめえ……人をおちょくるのもいい加減にしやがれ……」

 あ、やばいと雅弘は思った。秋の拳がぎりぎりと食い込んでいるのを見たからだ。

「雅弘はそんなことするやつじゃねえ……。俺が一番よく知ってる……。てめえなんかにわかるはずがねえんだよ!」

 そのまま秋は食い込ませた拳を柊に向かって突き出そうとした。

 柊が笑ったように感じた。後ろ姿が勝利の笑みを携えていた。

「待てよ、秋!」

 とっさに雅弘は飛び出していた。秋と柊の間に割って入り、秋に飛びつき、拳を無我夢中で止める。

「ま、雅弘?」

 秋はわけがわからないというように目をぱちくりとさせた。

「ど、どうしてお前がここにいるわけ?」

「たまたま通りかかったんだよ! それよりもやめなよ! 人を殴ったっていいことなんか一つもないよ!」

「だって、殴らなきゃすまねえよ、こんなやつ!」

「やめろって! もういいんだよ!」

「何がだよ!」

「だって……!」

 秋に自分のせいで暴力人間呼ばわりされてほしくない。柊なら真っ先に保健室に駆け込んであることないこと言いふらすだろう。手を出したほうが負けなのだ。雅弘は悔しくてたまらなかったが、秋を上手く落ち着かせる方法が浮かばなかった。

「なあ、俺もう帰っていい?」

 柊がつまらなそうに二人を見つめて言った。秋は額に血管を浮き上らせ、今にも掴みかかっていきそうな勢いだ。

「まだ話は終わってねえぞ!」

「秋、やめろってば! ごめんね柊君。秋が何だか勘違いしちゃって……。本当にごめん」

 雅弘は柊に向かって頭を下げて謝った。

「なっ……!」

 雅弘は己の情けなさと羞恥心で秋の顔が見れなかった。きっと秋はえもいわれぬ顔をしているだろう。柊は愉快でたまらないというような表情を見せて言った。

「いいよいいよ。きっと何かすれ違っちゃったんだよね。桜木君がそんなに謝ってくれるならもういいよ。じゃあね」

 柊は最後にハハハと笑うと、くるりと踵を返してさっそうと帰っていった。

 残された秋と雅弘は、気まずそうにお互い顔をそむける。

「雅弘、どういうつもりだよ。何であんなやつに謝るんだ」

 秋が責めるような口調で雅弘に言う。雅弘はただ下を向いているしかなかった。

「……何とか言えよ!」

「……ごめん」

「謝るなよ!」

「…………」

 次の言葉が口から出なかった。確実に秋を怒らせてしまった。雅弘は泣きたくなった。

「お、俺の、ために……」

「何だよ」

「お、俺なんかの、ために、人を、殴らないでくれ」

「…………」

 今度は秋が黙り込む。二人の間に重い沈黙が下りる。

「……教室、帰るぞ」

「……うん」

 ふいに秋は雅弘の手を取り、校舎のほうへと歩き出した。

 秋に手をつながれた瞬間、またしても雅弘の心臓はどくんと波打った。秋の背中がとても男らしく、かっこよく見えた。

 秋、俺は……。

 雅弘は確信を得た。

 お前のことが、好きなんだ……。


 校舎が見えてきたところで、雅弘は手を繋いでいるところを誰かに見られたら嫌だとごねたので、二人は一定の距離を保ったまま無言で歩き続けることになった。玄関で靴から上履きに履き替え、一年三組までの廊下を歩く時も、気まずい空気が二人を覆っていた。

 二人して下を向いたまま、教室の扉を開けた。

「あ……あ、秋! おはよう!」

 理奈が二人の前に小走りで近づいてきて、勇気を振り絞って挨拶をした。頬はわずかに上気している。

「お、おお、おはよう」

 秋は理奈の勢いに気圧されたようで、しどろもどろに返事を返した。

「これからは、呼び方、理奈でいいから!」

 理奈は恥ずかしそうにしながらも、秋の顔を真正面から見て言った。

「おお、わかった。まあ理奈のほうが二文字で呼びやすいしな~」

 秋はあっけらかんと言い、恥ずかしい素振りなど見せず「理奈」と言った。この大らかさも雅弘の心を動かした。

「雅弘も、おはよう」

 理奈は振り向いて笑顔で言った。

「うん。おはよう」

 雅弘も笑顔で返した。

 彼の心の中には、渦潮のようにうずまいている混乱と不安があった。自分は理奈と秋、両方のことが好きなのだという自覚。しかしそれは一種の錯覚なのではないかという戸惑い。そして、今の自分は恋愛に落ちている状態なのだとしたら、これから先、二人との関係はどうなっていってしまうのだろうという思い。行き場のない暗闇が雅弘の心を覆った。

「雅弘?」

 呼ばれて気がつくと、理奈が雅弘の顔を覗き込んでいた。

「ん?」

「大丈夫?」

「え、大丈夫だよ?」

「なんか今日、二人とも元気がないよ」

 理奈は心配そうに二人を見比べる。

「あー、それは、その、気のせいだって」

 秋が手を振りながら乱雑に答える。それに対して理奈はわずかな不満を募らせた表情を見せた。

「なんか、怪しい」

「普通だってば!」

「えー」

 秋と理奈が口論している中、雅弘は一人で立ち尽くしていたが、新たな不安が生まれた。

 もし、この二人が恋人同士に発展したとしたら?

 俺は、どうしたらいいんだろう。

 どこへ行けばいいんだろう。

 先行きの見えない未来に、あり得るかもしれない未来に、雅弘の心は曇っていく。

 自分の居場所はどこにあるのだろう。


 瞬く間に帰りのホームルームの時間が来た。今日は新聞委員の仕事がある。

「秋、先に帰ってていいよ」

「いや、待ってるよ」

「じゃあ、私も待ってる」

 秋と理奈はお互いに若干言葉を被らせた。しばらく二人で笑い合っている。雅弘はわずかな孤独感を覚え、それでも笑顔で手を振りながら教室を出た。

 階段へ向かう途中、嫌な人物を見た。柊だ。仲間たちと一緒にげらげら笑いながら階段を下りている。雅弘は少し距離を取ってゆっくりと歩いた。

 俺はお前の思い通りになんかならない。絶対に根を上げたりなんかしないからな。

 雅弘は無言のにらみを効かせた。

 新聞委員の教室の中は以前よりも人が少なくて閑散としていた。それもそうだ。執行係のみ仕事が山積みであるだけで、それ以外の委員は執行係が作成した「木立新聞」を各学年に配るだけなのである。執行係にならなかった場合は実に楽な仕事だ。今さらながら柊に憎しみめいたものを感じる。

「あ、汐君。早いね」

 教室に入るなり亜麻色の髪が目立っていたので、雅弘はすぐに相方を見つけることができた。汐は前のほうの席に座って文庫本を読んでいた。

「何読んでんの?」

「ジャン・コクトー。『怖るべき子供たち』」

「何それ」

「…………」

 汐の顔はそれさえ知らないのかという表情に変わる。雅弘は若干恥ずかしくなり、それ以上話はせずに黙って彼の隣の席に座った。それでも会話がしたくなり、がんばって彼に話しかけてみる。

「それ、ええと、『怖るべき子供たち』だっけ? 面白い?」

「まあ、面白い」

「ホラーなの? 何か怖そうだよね。今度貸してもらっていい?」

 すると汐は見る見るうちに嫌そうな顔になった。

「君にはちょっと難しいかも……」

「そ、そうか」

 どう見ても貸したくないと目が語っていた。

「萩尾望都の漫画版なら君にも読めるかもしれないけれど……」

「誰? その人」

「…………」

 汐の目はこれ以上話したくないという目だった。仕方なく会話は中断になり、気まずい沈黙が流れるまま時は過ぎていった。

 ようやく全執行係が集まり、三年生が教壇に立った。雅弘は知らずほっとした。

「えー、みなさん全員集まってますね。それではみなさんに原稿用紙を配ります。各学年に二枚。各自受け取ってください」

 黒髪の三年生が言うと同時に、髪が茶色くて少し長いもう一人の三年生が、B5サイズの原稿用紙を配り始めた。雅弘たちは何が始まるのだろうと疑問符を頭に浮かべる。

「全員行き渡りましたね。ご存知の通り、もうすぐGWが始まります。この学校はGWの前日に『GW直前ドッヂボール大会』というものを催します。何だその大会と鼻で笑う人もいるかもしれませんが、これがけっこうな盛況ぶりで、毎年体育会系の人たちが参加し、大掛かりな試合となっています」

 雅弘たち一年生はへえーと心の中でつぶやいた。そんな行事があったのか。

「その原稿用紙二枚は、いあわば新聞の面に載せる原稿です。みなさんにドッヂボール大会の様子を現場でリポートしてきてもらいます。この大会は本当に盛り上がりますからね、みなさん心がけて取材してきてください」

えー、けっこう大変じゃん。雅弘たち一年生は心の中で愚痴を言う。

「原稿用紙二枚を埋めるくらいの度量で励んでください。二枚で充分です。すぐに書き終わりますよ」 

三年生は根拠のないことを言って一年生の尻を叩く。二年生たちはもう慣れているのか、文句も言わずうなずいていた。

「それでは、当日は現地集合。あ、現地は体育館です。必ず下書き用の紙を持ってリポートに臨んでください。それではみなさん、四月三十日にまた会いましょう。あ、言い忘れていましたが僕の名前は黒井(くろい)。あっちの茶髪のやつが渋谷(しぶや)です。では、これからもよろしくお願いします」

 黒井と名乗った三年生は慇懃に頭を下げた。

 名前のほうを先に言っとくべきなんじゃ……と雅弘たちは思ったのだった。


 汐とは教室を出て別れた。「またね」と雅弘が手を振ると、彼もぶっきらぼうに手を振り返した。

 教室に戻ると、秋と理奈が笑顔でしゃべり合っていた。とても楽しそうだ。

 雅弘の心臓が再びトクンと鳴る。

 理奈、かわいい。

秋、かっこいい。

 やっぱり俺は、二人のことが好きなんだ。

 雅弘ははやる心を抑え、笑顔で二人に近づいた。

「あ、雅弘、お帰り」

「おー、わりと早かったな」

 二人は優しく雅弘に声をかける。それだけで彼の心は朗らかな気持ちで満たされた。

「ただいま。いやー、三年生の話が長くてさー、参っちゃったよ」

 本当は大して話していないのだが、何となく嘘をついてしまう。

 秋が机から身を乗り出して言ってきた。

「あのさ、今から俺ん家に夕飯喰いに行かねえ? 三人でさ」

「え? 俺と理奈で、秋の家に?」

「ああ。俺ん家、焼肉屋やってるから。そこで無料で食わせてもらおうぜ」

「い、いいの? なんか秋のご両親に悪いなあ……」

「いいんだって。友達連れてきたほうが父ちゃんも母ちゃんも喜ぶしよ!」

「秋の家の焼肉、すごくおいしいらしいよ!」

 理奈が瞳をきらきらさせて言った。どうやら肉が大好物らしい。意外な好みだ。本人の容姿からはまったく想像がつかない。

「行こうぜ!」

「行こう!」

 二人は双子みたいに身を乗り出して雅弘を誘った。雅弘は何だかおかしくなって、ぷっと吹き出しながら承諾した。


 木立(こだち)商店街を三人でしゃべり合いながら歩き、走ってくる車をよけながら秋の店に着いた。

 焼肉屋と豪快に書かれた暖簾が、三人を見下ろす形で風に吹かれてなびいている。雅弘と理奈は秋に続いて暖簾をくぐり、木製のドアを開けた。

 そこは焼肉の匂いで充満していて、雅弘は匂いをかいだだけで腹がいっぱいになりそうだったが、二人はきらきらとした瞳で店内を見回している。

「あ、母ちゃん、友達連れてきた」

 店員の四十台ほどの女性がくるりと回って秋を見、早口で言った。

「ああ! あんた雲雀の名前でちゃんと予約したわよね? そこの個室で食べて! いらっしゃい二人とも! ゆっくりしてってね!」

 女性の名は夏子といった。秋の母だ。秋と同じ紅葉の色に近い綺麗な赤茶色の髪を一つに束ね、はじけるほどの笑顔を雅弘と理奈に向けた。元気で快活のいい女性である。

 三人は秋の母に個室に案内され、オーダーを頼んだ。雅弘は焼肉に詳しくないのでとりあえずタン塩を、秋と理奈は迷わずレバーを注文した。

 肉が運ばれてきたあとも、二人はかなり手馴れていた。軽やかな動作で肉を編みの上に乗せ、絶妙のタイミングで裏返す。雅弘は感嘆するばかりであった。

「二人とも、すごい上手いね」

「そうか?」

「普通だと思うけど……」

 秋と理奈はきょとんとして雅弘の顔を見る。

「私は肉が好きだから、よく弟とヘルパーさんと三人で焼肉屋に行くんだよ」

 理奈がいい塩梅に焼けたレバーを頬張りながら言った。

「そ、そうか。俺は焼肉屋って全然行かないからなあ」

「肉、好きじゃないの?」

 再び理奈が口をもごもごさせながら訊く。

「う~ん。そういうわけじゃないんだけど……」

「って、雅弘! お前の肉焦げてるぞ!」

 秋が急いで雅弘のタン塩を皿に引き上げてくれた。

「あ、ごめん秋……」

「まったく、世話焼かせるよな~」

「何だか秋、お兄ちゃんみたいだね」

 理奈が笑いながら言う。

「おう。知り合いからは焼肉奉行って言われてるぞ」

 秋は口に入れた肉を咀嚼しながら、なぜか得意げに言った。

 三人はお互いに笑い合いながら、至福の時を過ごした。


 夜も本番に近づいた頃、雅弘と理奈は秋に連れられて、店の外側にある階段を上った。

 二人は何だかドキドキした。

 二階に着き、秋は自宅の鍵を取り出してドアノブにかけ、回す。ガチャリと鍵が外れる音が二人の耳に届き、緊張は臨界点を突破しそうになる。人の家に上がりこむというのは、どうしてこんなにも緊張してしまうものなのだろうか。

 ドアが開いた。

 玄関に立っていたのは、秋にそっくりの男性だった。ただ、こちらの男性のほうが秋よりも優しげな顔をしている。彼は朗らかに笑い、涼しげな目元に笑い皺が刻まれた。

「雅弘君、理奈ちゃん、いらっしゃい!」

 ぽかんと口を開ける二人に対し、男性は後ろに下がってスリッパを用意してくれる。二人はあわてて「お邪魔します」と慇懃に頭を下げ、玄関の内に入った。

「これが今絶賛引きこもり中の兄貴、美(よし)春(はる)な」

 秋が歯に衣着せぬ物言いで自分の兄を指差した。

 途端にスリッパで頭をはたかれる。

「こら、秋! そういう外聞の悪いことは言うもんじゃない!」

「だって本当のことじゃんかよ!」

 秋は涙目になりながら頭をさすって反抗する。

「ええい、いろいろ間違ってるわ! 俺は、俺はなあ…………そ、そう! 召使いだよ! この家の召使いなんだよ! 母さんの手伝いで飯作ったり部屋掃除したりしてるだろ? だから俺は引きこもりなんかじゃない! 召使いだ! または縁の下の力持ちだ!」

「召使いだってあんまり聞こえがいいもんじゃねえじゃん……」

 秋はあきれた目で兄を見る。

「いいんだよ! みんな、俺のことは美春兄さんと呼んでくれ!」

「あ、ちなみに秋、美春兄さんのこと、明るい引きこもりって言ってました」

 すかさず雅弘は手を挙げて美春に告げ口をした。秋は「てめえ……」と恨めしそうな目で雅弘をにらむ。

「何ぃ!? 秋、それはいいネーミングセンスだ!」

「いいんかい!」

 雅弘と理奈はずっこけた。

「よし、これから俺は明るい引きこもりと言おう!」

「そうそう! 兄貴、その意気だよ!」

「な、何か違う気もするよ……」

 雅弘は汗をたらして言った。

「私もそう思う……」

 理奈も雅弘に同意する。

「兄貴、いつまで俺らを玄関で待たせとくんだよ」

「ああ、そうだった。みんな、どうぞどうぞ。狭いところだけどゆっくりしていってくれ」

「あ、お、お邪魔します……」

「お邪魔します……」

 雅弘と理奈は先ほどと同じようにどぎまぎとしながら、靴を脱いで部屋に上がる。

 部屋の中は、さまざまなものが乱雑に置かれてはいたが、ふしぎと統一性があった。まずリビングに案内されて、美春手製のスイーツを用意された。三人とも腹がいっぱいになってはいたが、甘いものだけは別腹で、そのスイーツを見た途端、小腹が鳴ってしまった。

「三人とも、たらふく食べていいからな」

 美春は人の好い笑顔を浮かべて、自分の作ったスイーツにフォークが運ばれる瞬間をワクワクして待った。

「い、いただきまーす!」

 三人はもう我慢ができないとばかりにスイーツにフォークを刺して口に運んだ。その途端、何とも幸福な味が舌全体に広がり、三人は至福の思いに至った。

「うめえ! 兄貴これ、すげえうめえよ!」

「美春兄さん、料理上手いですね! こんなにおいしいものを作ってくれてありがとうございます!」

「私も同じ気持ちです! すごくおいしいです!」

 三人に次々と褒められた美春は、照れたように頭をかく。

「いや、そんなに喜んでくれるなんて……嬉しいなあ」

 美春はアハハと笑って、三人の顔を順番に愛おしそうに眺めた。

「俺にはこれしかできないから……何か、報われた気持ちになるな」

 すると秋が間髪入れずに言った。

「兄貴、兄貴はこれしかできないんじゃなくて、こんなにできるんだよ。自慢していいものなんだよ」

 美春ははっとして秋を見、そしてまた照れくさそうに笑った。

「そうか。ありがとう秋」

 雅弘と理奈も兄弟の微笑ましい場面を笑顔で見つめた。いい兄弟だな。二人ともそう思った。

 その時、玄関のドアが乱暴に開かれた。全員で音のしたほうに目をやると、一人の女性がだるそうに部屋に上がりこんでいるところだった。

「あ、姉貴だ」

「冬美……」

 秋と美春が声をそろえていった。秋のほうは軽い調子で。美春のほうは重苦しい調子で。冬美と呼ばれた女性は少しばかり派手な洋服を着ていた。黒髪のウェーブロングヘアを揺らして、こちらのほうへ歩いてきた。

「ただいま。兄さん、夕飯食べてきたからいらない」

 冬美は疲れた調子の声で言った。彼女の顔立ちは秋と美春とは似ても似つかなかった。白い肌に、綺麗に巻かれた長い黒髪。ぱっちりと開かれた二重の目。胸元の開いたシャツを着ていて、美しいがどこか穢れた印象を与える女性だった。

「姉貴、おかえりー」

 秋は呑気に返事をした。

 冬美は雅弘と理奈のことを完全に無視していた。

「冬美! ちゃんとお客さんに挨拶しなさい! それに何だよ! 飯いらないって、もうちょっと早く言ってくれよ! お前の分作っちゃったじゃん!」

 美春は荒々しく声を立てて冬美に怒る。雅弘と理奈は少しばかり驚いて彼を見つめた。

「だって、食べちゃったもんはしょうがないじゃん。それと、誰だか知りませんけど初めまして。長女の冬美です。汚いところだけどゆっくりしていってください。どう、これでいい?」

 冬美は笑顔を張り付かせながらも、冷たい声で雅弘と理奈に頭を下げた。美春はさらに怒りの篭もった瞳で冬美をにらむ。

「そんな失礼な態度で挨拶するな! それとメールでも何でも連絡ぐらいくれよ! 心配になるだろ?」

「うるさいなあ。私、もう寝るわ」

「こら、冬美!」

 美春の説教も虚しく、冬美はうっとうしそうな目で彼らをにらむと、そそくさと自分の部屋に入り、ドアを乱暴に閉めてしまった。美春はハアーと大きなため息をつく。雅弘と理奈はおろおろと様子を見守るばかりであった。秋だけが平然とスイーツを食している。

「兄貴、あんまり思いつめるなよ。姉貴、いつもあんなんじゃん」

 秋は美春の肩をポンと叩いて慰める。

「そりゃそうだけど……最近どんどん夜遅くなってるし……父さんや母さんも心配してるっていうのに……!」

 美春は悔しそうに眉間に皺を寄せた。秋は苦笑してそんな兄をなだめる。

「まあまあ、姉貴は今大学生だから、遊びたい盛りなんだよ。気長に見守ろうぜ」

 秋はそう言うと軽快に笑って、もう一度兄の肩をポンと叩いた。美春は少し落ち着いてきた。そして雅弘と理奈のほうへ顔を向けて言った。

「二人とも、ごめんな。家族の恥ずかしいところを見せちゃって」

「い、いいえ、とんでもないです!」

 二人は必死に手を振って答えた。家に上がらせてもらっている身なのに、プライベートに立ち入ったことは言えない。

「き、今日はもう遅いし、そろそろ帰ろうか、理奈?」

「そ、そうだね」

「え? 泊まっていけばいいじゃないか。家族にはきちんと連絡を入れるよ」

 美春は少し寂しそうに言った。

「そうだよー。お前ら泊まっていけよー」

 秋も顔を悲しそうに歪ませて、二人を引き止める。

「いや、そこまでお邪魔しちゃ悪いし、もう帰るよ」

 雅弘はなるべく明るい声で言った。

「うん。それに荷物は全部家のほうだしね」

 理奈も雅弘に倣って明るく言う。

「そうか。じゃあ、気をつけて帰るんだよ。あ、車で送っていこうか?」

 美春は素晴らしいアイデアを思いついたかのように嬉しそうな声を出した。

「い、いえ! 大丈夫です! 僕たち家が同じ方向なので、僕が理奈を送っていきます!」

 雅弘はあわてて遠慮した。理奈のほうは少し顔が赤くなっている。

「アハハ。おせっかいな兄貴で申し訳ない。じゃあ二人とも、また明日な」

 秋はふらふらと二人に手を振った。

「おせっかいで悪かったな! じゃ、じゃあ二人とも、今日はとても楽しかったよ。僕の作ってくれたものを食べてくれてありがとう」

 美春は丁寧に二人に向かって頭を下げた。

「いえ! こちらこそとても楽しかったです! ありがとうございました!」

 二人は揃って今日何度目かのお辞儀をした。美春は嬉しそうに秋とともに玄関口まで雅弘と理奈を送る。

「じゃあ、二人とも、気をつけてね」

「さいなら~」

 美春と秋はそれぞれ笑顔で手を振って二人を見送った。


 夜中の帰り道、理奈の肩はぶるぶると震えていた。雅弘はあわてて彼女の手を取る。

「理奈、どうしたの? 気持ち悪い?」

「……雅弘、私ね」

 理奈は消え入りそうな声で弱々しく雅弘の肩を掴んだ。

「夜が怖いの」

「…………え?」

 雅弘は理奈の意外な言葉に、頭が少々混乱してしまう。夜が怖い。でもさっきまで自分たちとあれほど楽しんでいたではないか。

「ずっと、我慢してたの」

 理奈の声はすでに涙声になっていた。

「みんなの調子を崩しちゃいけないって、ずっとがんばっちゃってて……でも、夜が怖いのは本当なの。信じて雅弘」

 理奈は今にも泣きそうな顔で雅弘を覗き込む。その美しさに雅弘は一瞬、すべてを持っていかれそうになる。

「理奈。がんばる必要はないよ。夜が駄目なら、それを俺らに言わないほうが悪いよ」

 雅弘はちょっと怒ったように理奈に言う。理奈はしおらしくなる。

「暗闇が怖いっていう人はけっこういるし、そんなの隠さないといけないもんじゃないよ」

 そして今度は、明るい声で理奈の肩を優しく叩く。

「でも……変だよね……」

 理奈はなおも自分を責めるような自虐的な笑みを浮かべる。

「そんなことない」

 雅弘は強い声で言った。理奈は思わず雅弘の瞳を見た。ちゃんと目の前の彼女をしっかりと捉えている男の目だった。

「真っ当な人間の感性だよ」

 理奈は、うつむいた。肩が若干震えている。泣いているのだろうか。

「理奈……?」

「ありがとう……雅弘……」

 理奈が顔を上げた。彼女の目は少々赤く滲んでいて、それでも泣いてはいなかった。

「理奈の家まで、ちゃんと責任を持って送るよ。どうせ真向かいだしね」

「うん。ありがとう」

 理奈はもう一度お礼を言った。

 二人は並んで歩き出した。肩が触れるか触れないかの距離で、二人は無言で歩き続けた。

 やがて、雅弘と理奈の家が見えてきた。

 どちらからともなく挨拶を交わし、お互いの家の玄関を開けた。


 真夜中。

 雅弘は眠れないでいた。

 頭が妙に冴えて、様々な感覚が敏感になっている。

 こういうことは前からあった。

 中学の時からだ。

 雅弘はいじめに遭いだした頃、夜、布団にもぐると、当時のクラスメイトたちの声が耳を叩き出してくるのだった。

『桜木、パン買って来いよ!』

『おいチビ! ノロノロしててうぜえんだよ!』

『桜木君、何でそんなに……』

『桜木君……』

『桜木君……』

 やめろ!

 やめろ!

 雅弘はたまらず飛び起きる。汗が全身を伝い、パジャマがびしょ濡れになっている。

 何やってるんだ俺。あの地獄はもう過ぎたんだ。過ぎたことなんだ。誰も覚えてなんかいないさ。

 必死に自分に言い聞かせ、再び布団にもぐる。

 しかし頭よりも心が覚えている。あの屈辱の日々。

 身体をよじり、寝返りを打っても、あの時の言葉が耳に染み付いて離れない。そんな眠れない夜がたびたびやってくる。

 どうしよう。またこんな夜か。

 雅弘はあきらめ、暗闇の中、仰向けになって天井を見つめ続ける。

 俺はまだ、立ち直れていないのかな。

 自分が情けなくなってきた。もう秋、理奈という友人がいるのに、もうからかわれてなんかいないのに、過去が蛇のようにうねっては自身に絡みつき、雅弘をがんじがらめにしてしまう。

 早く、楽になりたい。

 雅弘はもう一度寝返りを打った。もう時計は午前の四時を指していた。

 秋と理奈に不眠のことを言ったら、心配するかな。

 雅弘は二人のことを思った。彼らならどんな反応をするだろう。自分のことを案じてくれるだろうか。一緒に悩んでくれるだろうか。

 雅弘はそこまで考えたあと、ばかばかしいと自ら首を振った。

 あの二人にそこまで頼っちゃいけない。自分で何とかするんだ。

 雅弘は、夜が明けだして日の光が差し込んできたカーテンを見つめながら、ぐっと歯を食い縛った。

四月三十日。

 雅弘たちにとっては実に待ちに待っていない、『GW直前ドッヂボール大会』が開催された。

 三年生が言ったとおり、体育館は予想以上の賑わいだった。前のほうに生徒会役員がいる。雅弘たち新聞委員は体育館の玄関脇に集まり、点呼をとっていた。

「よし! 全員いますね。一年生は現場のリポートだけで構いません。二年生はそれぞれ好きな選手にインタビューを。三年生は優勝者のインタビューとそれにちなんだ考察を書いてください。また、提出期限はGW明けの新聞委員会の日までです。それではみなさん、各自好きな場所に行ってドッヂボール大会を観察してください。では解散!」

 黒井は早口にそう言うと、くるりときびすを返して渋谷とともに体操着を着た選手たちに向かって突進していった。

「すんまっせぇぇえっぇん! 新聞委員の者なんですがぁぁぁぁ!」

 三年生の体当たりの取材に、そして突如豹変した二人の姿に、一年生たちはただ呆然とするしかなかった。二年生はハハハと愉快そうに笑った。

「さっすが『新聞委員の黒い渋谷』! やることが違うねえ」

 二年生の女子生徒が笑いながら言った。

「黒い渋谷?」

 雅弘がその女子生徒に向かって訊く。

「ああ、黒井と渋谷をかけて、黒い渋谷」

 単純なネーミングに雅弘はずっこけそうになったが、何とか持ち直した。

「あの二人、とにかく体当たりな取材をすることで有名なのよ。生徒会長の知名度にも負けてないね! あ、私たちはそんなに気を張らなくていいからね。現状視察みたいな感じで気楽に書けばいいのよ」

 二年生の女子生徒は軽い調子で一年生たちに言った。雅弘たちは少しだけ心にゆとりが生まれた。

「じゃあ、みんながんばってね~」

 二年生たちはさっそうと二人一組に固まって散らばっていった。残された一年生たちはしばらくおろおろとしていたが、覚悟を決めて体育館の前列に行ったり、二階席に上ったりし始めた。

「汐君。俺たちはどこにしようか」

 雅弘は、この状況を微塵も楽しんでなさそうな彼に問いかける。

「そうだな……とりあえず二階席に行ってみよう」

 汐はつまらなそうに上を見上げて言った。

 汐に続いて雅弘は二階席への階段に向かって歩いていく。

 二階席からの光景はなかなかにいいものだった。同じ新聞委員がそこかしこに散らばって場内を見学している。ほかにもお目当ての選手を応援しに来ている女子生徒、生徒会の活躍を期待しに来ているであろう生徒、特に何もなくひまつぶして来ている生徒など、さまざまな気色がうかがえた。

「汐君、どこに座ろうか?」

「そこの席でいいんじゃない?」

 汐は前列の隅っこに指を差すと、すたすたと行って腰を下ろす。雅弘もあわてて彼について座った。

「この学校って、お祭り学校なんだね。生徒手帳見て学校行事の多さにびっくりしたよ」

「ふうん。面倒くさい学校だな」

 汐は雅弘が開いた生徒手帳を気だるげに横から見て、うっとうしそうにつぶやいた。雅弘は苦笑する。

「あ、試合始まったよ」

 生徒会役員のかん高い雄叫びとともに、体育館の中はスポーツ選手たちの咆哮に飲み込まれた。思わず耳を塞ぎたくなるほどだった。

「うるせえ……」

「ハハハ……」

 雅弘はどんどん機嫌が悪くなる汐をなだめながら、試合の行く末を見守る。

しかし、試合はなかなかに面白かった。

「すっげえ、あのチーム! ダントツじゃん!」

「ああ。かなり強いね」

「あ、やった! 勝った!」

「桜木君はあの赤いゼッケンチームが好きなの?」

「だって強いじゃん! 俺は強いやつが好きなんだ!」

「まあ、気持ちはわかるけど……。それよりも、ちゃんとレポート書いてる?」

「あ、しまった!」

「やっぱり……」

 汐はため息をついて、文字がぎっしりと詰まったメモ用紙を雅弘に見せた。

「俺のやつ参考にして構わないから。試合に集中してていいよ」

「あ、ありがとう……」

 雅弘は意外に思いながらも、彼に感謝して試合の展開に夢中になる。

「あ、やっぱり勝った! 赤いゼッケンチーム!」

「よかったね」

「うん!」

 雅弘はきらきらした笑顔を汐に向けた。汐は何だか困ったような笑みを返す。

「最後は生徒会との勝負だね」

「ええっ? これで優勝じゃないの?」

「……桜木君、黒井先輩に配られた紙、見てみなよ」

「……あ」

 雅弘は紙を配られていたことさえ忘れていた。恥ずかしくなって、小さく縮こまる。

「ま、まあ、今覚えたからいいじゃん! あ、生徒会との対戦が始まる!」

「……桜木君って、何でも楽しめるんだね」

 汐は少々あきれたような、それでも感嘆したような声で言った。雅弘は頭に疑問符を浮かべたが、すぐに始まった生徒会と赤いゼッケンチームとの対戦に夢中になった。

「あ、あの女の子、危ない!」

 しかしチームメイトの男子生徒が女子生徒の前に飛び出し、見事ボールを受け止めた。そしてお返しとばかりにボール打ち返す。赤いゼッケンチームから一人、人数が減った。

「すげえあの人!」

「あれ、生徒会長だよ」

「ああ、あのサイボーグ009って言われてる人! 怖くて有名なんだよね! へえ~、あの人なんだあ~」

「……桜木君、興奮してるね」

 汐は若干引いたような視線で雅弘を見て言った。

 試合は着実に進み、攻防戦は佳境に差し掛かっていた。

「がんばれー、赤いゼッケンチーム!」

 しかし雅弘の応援も虚しく終わった。

彼の生徒会長が、人間業とは思えないボールを繰り出したのだった。それは流線型の形を描いて、まるでドリルのように向かってきた。赤いゼッケンチームはそのドリルのようなボールに釘付けになり、もはや避けることは不可能だった。ボールは生き物のように動いて一人ずつの身体に当たり、その衝撃でゼッケンチームのメンバーは吹き飛んだ。文字通り一人ずつ倒れ、内野の人数はゼロとなった。

「ああ……」

「負けちゃったね」

 汐がなぐさめるように雅弘の肩に手を置いた。雅弘は少々驚いたが、されるがままにした。

「……ていうか、あの生徒会長すげえ……。何あの人……」

「確かに、すごいね」

「何あの運動神経! 何あのボールさばき! 人間じゃねえ……!」

「確かに、そうだね」

 汐の返答はだんだん規則的になっていった。

「いやあ、今日は予想外に面白かったな!」

「レポート、ちゃんと書いておくんだよ。見せてあげるから」

「う、うん。ありがとう汐君」

 何だか汐の顔は寂しそうな面影を残していた。眉毛が下がり、やがて思いつめたような表情に変わる。

「汐君? どうしたの……?」

「…………」

「も、もしかして、レポート貸すの嫌だった? それなら無理しないでいいよ! 俺がんばれるから!」

「…………」

「う、汐君、嫌な思いさせちゃったみたいで、本当にごめ……」

「桜木君」

 汐の声が急に低くなった。雅弘は瞬間ドキリとして、彼の顔をうかがう。彼はこちらを悲しげに見つめていた。

「本当に、覚えていないんだね。俺のこと」

「…………え?」

 雅弘は自分が何を言われているのかわからなかった。言葉の意味が理解できず、戸惑うように目を左右に動かしたりする。

 一方の汐は、学生鞄からごそごそと一通の封筒を出し、そこから厚い紙を取り出して雅弘の前に突きつけた。

 雅弘はその紙に釘付けになった。

『青葉中学二年二組のみなさま! GWの第一日目、同窓会をやります! ぜひご参加ください!』

 雅弘は眩暈がしそうになった。

二年二組。

俺をいじめたあのクラス。

「君のところには来なかった?」

「全然、来てない。……汐君、君も、二年二組だったの?」

「そうだよ。といってもほとんど学校には来てなかったから、忘れられているのも無理はないけどね」

 汐は若干淋しそうな声で言った。そして、雅弘に同窓会のプリントされた紙を、ぐいっと押し付けてきた。

「な、何?」

 雅弘は戸惑った。

「桜木君、君にこの同窓会の紙が来なかったということは、君はあのクラスにはいなかったということになっているんだよ」

 雅弘の胸に何かが激しく貫いた。それを汐には悟られたくなく、そっぽを向く。

「別にいいよ。あんなクラス、俺のほうから忘れてやるさ」

「俺も、あんなクラスには興味がない。だから同窓会にも行かない。でも桜木君、君は、向こうから勝手にいなかったことにされたんだ」

 汐の言葉に、雅弘はぐっと詰まった。

「そのままでいいの?」

 汐が問いかけてくる。

 悔しい。

 確実にその言葉が雅弘の心の中に浮かんだ。

「行くか行かないかは、君が決めることだ。無理強いはしない。ただ、俺は君に行ってほしいと思う」

「……何で?」

 雅弘は低い声でつぶやいた。

「君は、いじめられていたからだ」

「…………」

「もう乗り越えているのならそれでいい。ただ、戦いたい気持ちになったら、同窓会の日は伝えたから、いつでも参加するといいよ」

 そして最後に汐はこう言った。

「俺は、いじめなんか大嫌いだ」

「汐君…………」

 汐は憎しみを込めて同窓会の紙をにらみつけていた。その目には、この世の不条理を決して許さない、崇高な魂が宿っているような気さえした。

「じゃあね、桜木君。決めるのは君だよ」

 汐はそう言うと、くるりと背を向けて一階への階段を下りていった。

 残された雅弘は、二階の座席で、ひとり渡された紙を見つめ続けた。

 決めるのは俺?

 俺がどうしたいかって?

 決まってるじゃないか。

「行くよ」

 雅弘はぐしゃりと紙を握りつぶした。同窓会の紙はあっという間にただの散り屑と成り果てた。

「俺はもう、あの時の俺じゃない」

 たとえ背が伸びなくても、声変わりが中途半端に終わっても、俺は一人の男だ。

 行ってやる。

 雅弘の目は、闘志に燃えていた。


   ☆


 秋とは、中学の三年で知り合った仲である。

 中学に入った当初から格段に背の小さかった雅弘は、いつも大柄な者からパシリ扱いやら喧嘩ごっこの殴られ役やらを押し付けられた。たいていクラスには身体のでかいやつが一人か二人はいて、そういう者がクラスのリーダー的存在になるのだった。そういう意味では、雅弘はリーダー格のグループに属することができていたのだが、自分の地位は相当に低いものだった。ほとんど同じ人間だと思われていなかったように思う。今となっては思い出したくもないほど、みじめで惨たらしい日々だった。

 中学の二年になってからは、自分と同じように背の低かったクラスメイトが、すくすくと確実に成長していった。雅弘を置いて。

身体が大きくなり、目線の変わったクラスメイトは、心まで大きく変わったのか、それまでと幾分態度を変えてきた。まず、リーダー格の連中に向かって堂々とし始めた。リーダー格の男子も、成長していくクラスメイトには手を出さなくなり、自分と同等に扱うようになった。そこにある相手への、お前もようやくここまで来たかという認める気持ち。そしてほんの少しの畏怖。その感情が、雅弘に向かうことは二度となかった。雅弘の身長は、ほとんど伸びなかったからである。

 今まで分散していたチビへの侮りが、一気に雅弘に集中するようになった。背の伸びた仲間たちは、全員リーダー側に回り、一緒になって雅弘をパシリに使うようになった。雅弘は悔しくてたまらなかったが、だからといってどうやって反撃すればよいかもわからず、ただ鬱々と学校へ通う毎日だった。

 からかう程度だった仲間の行為が、やがて本格的ないじめに変貌していったのは、そう理由を必要としない。チビだったから。のろまだったから。都合がよかったから。ただそれだけである。

 雅弘の悔しさは生きることへのつらさに変わり、学校へ行くと吐き気を催すようになった。そのたびに保健室へ駆け込み、やがて保健室登校へと変わり、そのまま学校へ行かなくなった。

 雅弘の生活は少々荒れていった。何もすることがなく、ただベッドでごろごろしていたかと思えば、いきなり外出したくなって夜中に街をぶらぶらしたりした。補導されたことも何回かあり、そのたびに両親、というより母親が息せき切って迎えに来た。

 両親の説得で、雅弘は三年から復帰することを約束させられた。その当時の担任との相談で、いじめの主犯だったグループとは違うクラスにしてもらった。

 雅弘はせめてもの勇気で、髪を染め、思い切ってピアスを空けた。変わりたかった。チビならチビで、生きていけるだけの力量を手に入れたかった。もう誰にも侮られたくなかった。何でもいいから、力がほしかった。

 三年の時のホームルームで、突き抜けるような明るい茶色に染めた髪を見ても、周りの大人たちは何も言わなかった。担任が口を出さなかったのはさすがに少し寂しかった。クラスメイトは、ほとんどが顔と名前が一致しなかった。顔見知りも数名はいたが、特に何か話したことはない程度のもので、いじめの主犯たちは遠くのクラスへ飛ばされていた。これでもう、何事もなかったかのように学校生活を再会するはずだった。

 雲雀秋に、話しかけられるまでは。

「すげえな。お前、もう染めちゃってるんだ」

 突然、頭上から声が降ってきたかと思うと、つむじの髪を一房、軽く触られた。驚いて顔を上げると、赤茶色の髪をした背の高い男子が立っていた。

「この時期、内申書を気にしてみんな真面目っ子になるのにな。あ、俺のは地毛。すげえ色だろ」

 まだ声変わりが完全に終わっていない、少しかすれたハスキーな声で彼は言った。雅弘は思わず、うんと小さくうなずいた。

「たしかに、あまりない色だね」

 自分も声変わりが終わっていない乱れた声で言った。どぎまぎとした態度になっていないか、それだけが不安だった。

「でも、お前も度胸あるよな。怖いやつらに目つけられても知らねえぞ」

「大丈夫だよ。この学校、優等生が多いから。ほら見てよ、ちょっと違う格好しただけで、みんなビビってるしね」

 秋は言われるまま、クラスの中を見渡した。全員それぞれ仲のいいもの同士で固まっているが、心なしか少し雅弘から距離を取っているように見える。そのため、今の二人の周りにはぽっかりと空間が空いていた。

「たしかに、そうだな」

「でしょ?」

 雅弘は、ほんの少し心が大きくなったような気がした。誰も自分に話しかけてこない。それは少なくとも、自分を下に見ている人間がこのクラスでは一人もいないということになる。深い安堵が身体を包み込み、虚栄心がむくむくと身をもたげる。

「お前、ほとんど学校に来ていないって噂になってたけど、どうしたの?」

 秋は悪気なくあっけらかんと言い放った。

「別に。つまんなかっただけだよ。今年は受験だから、しょうがなく来るだけ。まあ、俺が行けるところなんて、限られてるだろうけどな」

 雅弘は椅子にふんぞり返った姿勢で、物憂げに表情を作ってみせた。何だか何かに浸りたい気分だった。

「ああ、それなら大丈夫だよ」

 秋は急にアハハと笑い、手を軽く振った。

「……は?」

「このクラスの担任、めっちゃいいやつだからさ、絶対にお前のことサポートしてくれるって!」

 秋は雅弘の肩に手を置いて、にかっと笑った。雅弘は呆気に取られ、目をぱちくりさせて眼前の少年を見つめた。まったく見当違いの言葉を言ったにも関わらず、秋は満足そうに笑顔を膨らませた。

「だからお前も、今までどおり普通に過ごせばいいんじゃねえの?」

 秋は雅弘を見下ろして言った。それは見下しではなかった。侮蔑でもなかった。正真正銘、対等な立ち位置からでの目線であり、言葉だった。

 今までどおり、普通に、か。

 雅弘は思わず下を向いた。胸に熱いものがこみ上げてきた。けれどそれを悟られたくなく、そっけなさを装って上目遣いに秋を見る。そして、今度は自分から話しかけてみた。

「なあ」

「ん?」

「一緒に委員とか、係とかやらない? 俺、知ってるやつほとんどいないんだ」

「ああ、いいよ。やるんだったら係にしようぜ。委員は集会とかあって面倒くさいから」

「おう」

 これが、二人が初めて交わした会話の一部始終である。

 それから秋は、ことあるごとに雅弘に話しかけてきた。昨日見たテレビのこと、課題を貸してほしいとのこと、そのすべてが嫌味なく、まっすぐに向かってくる直球のボールのように雅弘に届いた。それが不思議だった。自然と雅弘の心は癒されていった。

 秋が木立(こだち)市立高等学校を受験すると聞いたときは、迷わず同じ選択をした。

 自分でも少々、彼に寄りかかりすぎている自覚はあった。けれどもっと秋と一緒にいたかった。一年間だけの生活は淋しかった。まるで女の子のように、一緒に合格しようとお互いに手を取り合い、受験勉強に励んだ。

 運命の合格発表の日、受験の神様は微笑んでくれたようで、二人はともに合格した。秋はとても喜び、そして雅弘は彼以上に喜んだ。涙まで流した。これで三年間、彼と同じ学校にいられる。

彼は、雅弘にとってはまさにヒーローのような存在だった。

いつもいつも、自分の窮地に助けに来てくれる。救いの手を差し伸べてくれる。

それは、あの柊雪斗が現れても、変わらなかった。

 秋は俺の親友だ。俺のことを救ってくれた。絶対に手を出させない。

 雅弘は心に固く誓っている。

 秋のことが好きだ。だからこそ、俺は俺の力で戦わなければならないんだ。

 それは果てのない、親友への恋慕にも近い感情だった。


   ☆


 決戦の日が来た。

 雅弘の心臓はドクンドクンと激しく波打っていて、今にも身体から飛び出しそうだった。それでも覚悟を決め、自分が一番かっこいいと思う洋服を着、玄関に出て革靴を履く。

 戦うんだ、雅弘。

 自分で自分を鼓舞して、雅弘は勢いよくドアを開けた。

 途端に激しい日の光が雅弘の目に突き刺さる。まるで彼の行く手を阻むように。

 雅弘は負けずに、外へと一歩踏み出す。脚が普段より何十倍も重く感じられたが、絶対に負けまいと思い、ドアの鍵をしっかりと閉めた。

 日差しが強く地面を照りつける。

 雅弘は眩しくて目を細め、ハットを被り直し、大股で住宅街を歩いていく。

 住宅街を抜け、先の交差点を曲がる。今でもはっきりと中学への道を記憶している自分に若干驚いた。地図なしで歩けるとは、あの時の記憶はどれほど鮮明に焼きついているのだろう。

 いや、今まで一度も、忘れたことなどなかった。

 夜、眠れない日々。

 今でも許していない。

 許さない。絶対に。

 雅弘は確固たる意思を持ち、足をさらに進めていく。

 やがて、灰色のコンクリートに覆われた、不気味な建物が見えてきた。

 青葉中学の校舎だ。

 雅弘の足にぐっと力が強まり、早足だった自分の足は小走りへと変わる。心臓が早まり、額から汗が吹き出てくる。

毎日パシリをさせられた悔しさ。

 同士に裏切られた哀しさ。

 誰も助けてくれない孤独さ。

 決して忘れない。

 とうとう校舎にたどり着いた。門扉を抜け、学校の敷地に入る。中学校の外観は今も変わりなく、当時とまったく同じ様子で雅弘を見下ろしている。

 玄関に入り、革靴からそこに置かれていたスリッパに履き替え、二年二組の教室へ向かう。途中、幾人かの教師とすれ違い、軽く会釈を交わす。教師は茶髪の男の子に対し怪訝な顔で応対する。雅弘の外見は教師の目から見れば、軽そうな男子そのものだった。

 階段を上り、二階へと上がる。

 廊下はしんと静まりかえり、静寂が雅弘をひたひたと浸してきた。どこかでポチャンと水道の水が垂れた。

 一つだけ明かりがついている教室があった。その教室内から陽気な笑い声が聞こえ、雅弘はふと秋と理奈のことを思い出した。

 大丈夫だ。今の俺には、二人がついている。

 雅弘は教室の扉に手をかけ、意を決して横に引いた。

 そして、笑顔を張り付かせ大きな声で挨拶した。

「みんな! 久しぶり!」

 教室内は沈黙に覆われた。

 雅弘は負けまいと思い、もう一度大きな声を出した。叫ぶように。

「二年二組二〇番! 桜木雅弘だよ! 久しぶりだね!」

 教室内の旧クラスメイトたちが顔を見合す中、一人の男子生徒があっと口を開き、指を差して言った。

「……あー! もしかして、桜木?」

 その人物は、クラスの中心的人物だった生徒だった。その男が雅弘の名を口に出した途端、周りの様子は一変した。しんと静まり返っていた空気は一人ひとりの口から出る「桜木君?」の声に埋もれ、ざわざわと落ち着きのない様子であふれかえった。

「みんな、静かにしなさい」

 ふと、六十台前後ほどのしわがれた声が届いた。当時の担任の教師だ。

「桜木君。久しぶり。ずいぶんと変わったねえ」

「先生……」

 懐かしいと素直に雅弘は思った。あの時はただぼーっと教壇に突っ立っているだけで何もしない、無責任な教師だと感じていたが、今こうして眼前にすると、何とも愛想のある優しい先生に思えた。

「どうしたんだよ桜木! 髪の毛こーんな茶色にしちゃってさ!」

 クラスの中心的人物だった男子生徒が、雅弘の髪をぐしゃぐしゃと撫でる。秋のそれより幾分乱暴だったが、雅弘はそれでも嬉しかった。

「えへへ」

「久しぶりだなあ、おい! また高校でもいじめられてねえか?」

「ええっ? ひどいなあ、平気だよ」

「あの時、俺らずいぶん調子に乗ってたもんなあ。お前にけっこうひどいことしちまったし。ごめんな桜木」

「ええ? い、いいよもう」

 雅弘はずいぶんと調子が外れた。

「いやあ、悪かったよ桜木。よくコンビニに買い物行かせちゃったし」

「こらこら、お前ら中学生でそんなことしてたのか?」

 教師が少し困った顔で笑う。

「やべっ! 見逃してくれよー、先生」

「もう、結構俺、大変だったんだからね」

 雅弘は少し嬉しくなって、男子生徒に友達になったような調子で話しかける。

 何だ、みんなもう大人になったんだ。

 雅弘はそう思った。

ふいに女子生徒の一人が口を開いた。

「でも桜木君って、全然身長変わってなーい!」

 周りの女子たちがどっと笑い、その笑いは男子生徒にも伝染した。

「本当だ、そのまんまだ!」

 リーダー格の男子生徒は雅弘の頭をバシバシと叩き、何がおかしいのか腹を抱えて笑った。そこには秋と通じるものはもはや何もなかった。

「こらこら、みんな人のことをからかうのはやめなさい」

 教師がやんわりと注意するが、その顔は仕事以外の何ものでもない表情だった。

「だって先生! 一ミリも伸びてねえんだもんこいつ! ある意味すげえよ!」

 リーダー格の男子は再び雅弘の頭をぐりぐりと押さえつけた。中学の頃、彼がよく雅弘にやっていた行為だった。

「変わったのは髪の色と服装だけだよ。お前、何も変わってねえじゃん!」

 再び教室内は笑いの渦と化した。教師もなぜか笑いをこらえている。

「ていうかお前、すげえ服のセンスしてねえ? どんだけかっこつけてるんだし!」

「本当だ~。ハットなんか被っちゃって、桜木君てば大人ぁ~」

「ちょっと悪いけど、小さい人がハット被っても似合わないよ」

 教室内に爆発のような笑い声が起きた。

「お前、それは言いすぎだろ!」

「かわいそう! 桜木君固まっちゃったよ!」

 ほぼ狂気のようなものが支配しているとしか思えないほどの笑いの波の中で、雅弘は何とか両足を地面に付けていることだけはできていた。頭の奥がサーっと冷えるような感覚がして、心のどこかに鉄柵が締まるような音が響いた。

 変わっていない。

 このクラスは、この教師は、何一つ変わっていない。

 雅弘はそう確信した。

 もう、思い残すことなどなかった。

 雅弘が最後の言葉を考えている時、リーダー格の男子生徒は雅弘の肩を組んだ。

「悪い悪い! 怒っちゃった? でも事実なんだもん。お前って本当面白いな。なあ、俺らちょっと喉渇いちゃったんだけど、何か買ってきてくれない?」

「お前、それパシリじゃん!」

「かわいそう!せっかく同窓会に来て、またパシリ!」

「いいじゃん、これも一つの変わらないものってことで!」

 男子生徒たちはげらげらと笑いながら、雅弘の前に手を合わせ、まるで拝むような仕草をしてきた。

「頼むよ桜木君、今日、暑いだろ。全員冷たいもの希望だから」

「お願い~。桜木君~」

 女子生徒たちも一丸となって雅弘の前に手を合わせる。誰一人として、この状況はおかしいと言ってくれる人はいなかった。

「ジュース! ジュース!」

「クラス全員分ね。もちろんお前のおごりで」

「それ、どんだけの金額になるんだし!」

「かわいそう! 桜木君かわいそう!」

 男子生徒は手を叩き合って笑った。教師は苦笑いをするだけで、この事態を止めもしなかった。

「ジュース! ジュース!」

 雅弘の心に決心がついた。

 もう、いい。

 もう、充分わかった。

 だから、もう終わりにしよう。

「みんな、中学三年間、お世話になりました」

 雅弘はハットを取り、紳士のような佇まいで挨拶をした。ふいに教室内の笑いは雅弘の突然の行動と台詞で一時収まる。

「でも、ごめんね」

 雅弘は大きく息を吸って、静かに吐いた。

「お前らなんか、全員消えてしまえばいい」

 教室の空気は凍りついた。

誰もが表情をこわばらせ、雅弘の目をおそるおそる見つめてきた。

「はあ……?」

 その中でリーダー格の男子生徒は冷たい表情で雅弘をにらみ返してくる。

「お前、何言っちゃってんの?」

「それはこっちの台詞だよ」

 雅弘の心臓は炎のように熱くたぎる中で、氷のように冷めてもいた。

「誰がクラス全員分のジュースを買うって? ふざけんじゃねえよ」

 雅弘はせめて噛まないように、口を大きく開きながら言葉を話す。

「何だとコラ」

 男子生徒が雅弘の胸倉を掴む。雅弘は殴られてもいいように、歯をぐっと食い縛って目の前の男をにらみつけた。

「二人とも、やめなさい」

 担任だった教師が二人の間に割って入る。今日、初めて教師らしいことをしたなと思った。

「桜木君、消えてしまえなんて、どうしてそんなことを言うんだ」

 教師はさも傷つけられたかのように、悲しそうな表情をして雅弘を責めるように見る。

 雅弘は負けず、強い態度で教師に臨んだ。

「先生。あなたは、本当はいじめられていた当時の僕に気づいていましたよね?」

「いじめられていた……?」

 教師は聞いたことがないというように顔を歪ませるが、額にはわずかな冷や汗が滲んでいた。

「先生、こいつの言うことなんか聞くなよ! こいつ、嘘ばっかり言うことで有名だったんだ」

 リーダー格の男子生徒はあわてたように奇天烈なことをでっち上げた。取り巻きの生徒たちもそうだ、そうだ、と、まるで猿山の猿のように同じ動きを見せる。

 雅弘は怯まず、続けた。

「先生、あなたは、大量に食べ物を運ぶ当時の僕を目撃していましたよね? それでも何も触れませんでしたよね?」

「桜木君、何を言っているのかわからないよ」

「あなたは!」

 とうとう雅弘は声を荒げてしまった。

「あなたは、掃除の時間、庭掃除の時にこいつらにふざけて水をかけられ、びしょびしょになった時でも何も言わなかったじゃないですか! こいつらのことを何も責めず、むしろびしょ濡れの俺を見て、こう言ったじゃないですか! 『なんて格好をしてるんだ桜木。見苦しい』俺があの時どんな気持ちであそこに立っていたか、何で水に濡れているのか、訊いてもくれなかったじゃないですか!」

「桜木! そうやって、他人に責任を押し付けてばかりいるから、お前は友達ができなかったんじゃないのか!」

「ほら! あなたは俺が友達がいないことを知ってたじゃないですか! なのにどうして何も言わなかったんですか! どうして最後まで俺を無視し続けてたんですか!」

「何をそんな、世迷い言を言っているんだ」

 雅弘は何かが爆発しそうになったが、ぐっとこらえ、不敵な笑みで笑ってみせた。

「あれ、もう降参ですか? 意外と耐久性がないんですね。先生って」

「…………」

 担任は応えなくなった。

「おい桜木! 先生のこと責めてんじゃねえよ!」

 リーダー格の男子生徒が助け舟を出すかのごとく雅弘に詰め寄る。

「そうだぞ桜木! こっちに責任押し付けてんじゃねえ!」

 雅弘はくるりと生徒たちのほうを向き、にっこりと顔をほころばせて言った。

「お前らに関しては、もう何も言うことないよ。せいぜい楽しく無神経に生きるんだな」

「何だと!」

 ついにリーダー格の男子生徒が拳を振り上げ、雅弘の頬を思い切り殴りつけた。教師は今度は止めなかった。雅弘は全神経を頬に集中させて耐えた。そして男子生徒を表情の篭もっていない、冷たい瞳で見つめ返す。男子生徒は一瞬、怯んだ。

「桜木君、今日はもう帰りなさい」

 ふと、教師が静かな口調で言った。そこには教鞭を取っているだけのことはあるほどの威厳が備わっていた。雅弘ももう用事は済んだと思い、踵を返して扉のほうへ向かう。

「みなさん。さようなら。もう二度と会いませんように」

 雅弘はそう捨て台詞を吐くと、バシンと扉を閉めた。

 早足で廊下を歩いた。頭の中は意外にも冷静でいた。何か澄んだものが、雅弘の身体の中に入り込んでいった。

 すると、薄い暗闇に覆われている廊下のうち、一つだけ明かりが灯っている二年二組の教室の中から、何か声が聞こえてきた。

「……ね! ……ね!」

 雅弘は不思議に思い、立ち止まり、耳を澄ましてみた。

 が、すぐにその言葉を聞こうとしたことを後悔した。

「しーね! しーね! しーね!」

 言葉は渦となり、塊となり、濁流のように雅弘の耳に押し寄せてきた。

 しかし、もう雅弘の心には、何一つ届かなかった。

「…………ガキか、あいつら」

 雅弘はハットを被りなおし、日の光がやんわりと差し込んでいる窓を見ながら、早く校舎を出たいと思い、足を進めた。前へと。


 校舎を出ると、真っ昼間の強い日差しが雅弘の身体を照りつけた。眩しさに目を細め、空を見上げると、雲ひとつない快晴だった。どこまでも続いているような、広大な青空が雅弘を見下ろし、また、包み込んでいるようでもあった。

「……いい天気だなあ~」

 気晴らしにどこか遊びにでも行くか。

 秋と理奈でも誘うか。

 そこで、雅弘は気づいた。

 そうだ、自分にはもう友達がいる。心の支えがある。もう一人じゃない。

 それは雅弘を心の底から安堵させ、また強くさせた。

 今日はいい日だ。

 間違いなくいい日だ。

 雅弘は一回、うんと大きく伸びをした。

そして、キっと校舎のほうを見上げ、強く思った。 

もう、ここには戻らない。

それは、生まれて初めてした、本物の決心だった。

 あの時の俺は、今日、この日で終わりにした。これからは夜にうなされない。自分の身体をコンプレックスに思わない。自分を責めたりしない。

 あの時の俺は、もういない。

 もう、いない。

 雅弘は踵を返して、家族が待つ自分の家を目指して歩いていった。歩く速度は早足になり、やがて小走りになる。目先の街路樹が、涙で滲んで見えた。


その夜、雅弘は汐の家に電話をした。二年二組のクラスメイトたちと会ってきたことを彼に告げた。汐は細かく尋ねることはなく、ただ「そうか」とだけつぶやいた。

そして、こんなことも言ってきた。

「桜木君、萩尾望都の漫画版の『怖るべき子供たち』、今度貸そうか?」

「本当? いいの?」

「うん。俺は結局、あのクラスに行けなかったから。君のがんばりに拍手」

「アハハ、何だよそれ。でもありがとう」

「じゃあ、GW明けの学校で渡すよ」

「うん」

 お互いに別れの挨拶をして電話を切った。


 そして、登校日。

 雅弘は汐から『怖るべき子供たち』を借りて読んだが、何やら難しくてよくわからなかった。汐にその感想を言って返すと、彼は「やっぱりね」と少しほくそ笑んだ。何だか小気味よかったので、雅弘は「何だよー」と言い、広い心で許してやることにした。


   ☆


 GWが明けた早々、汐と雅弘はそれぞれ書き上げたレポート用紙を黒井たちに提出し、さらに編集作業までやらされた。一年から三年までが総動員して「新聞」の一面を作り上げ、三年が一面、二面担当、二年が三面、四面担当、最後に一年が五面を担当するというものだった。これが割合に骨が折れる作業であった。ほぼ毎日放課後、パソコン室に篭って執行係と一緒に下校時刻になるまで紙面を作らなければいけなかった。出来上がった時にはようやくタイプライター地獄から解放されたと大喜びしたほどだった。

 出来上がった新聞を職員室前のテーブルに置き、それぞれ各クラスの新聞委員が自分の教室まで取りに行く。雅弘は汐と別れ、柊と一緒に新聞を教室まで運んでいった。

「すごい。本当に新聞みたいだ。がんばったね、桜木君」

 言葉の端にささやかな悪意が含まれていたが、雅弘は笑顔でかわすことにした。

 職員室から一年の教室までは、吹き抜けのホールを通った先のところにある。雅弘たちはそのホールを通り過ぎようとした。その時だった。

 ホールの長椅子を陣取っている、少し怖そうな、いやどう見ても不良そのものの格好をしている輩数名が、雅弘たちに近づいてきた。その男たちは確実に柊を見越して雅弘に目を付けていた。

「君、桜木君だよね?」

 不良の一人が雅弘の肩をむんずと掴み、笑顔を張り付かせて言った。途端に雅弘の背中に寒気が走るが、どうすることもできなかった。

「はい、そうです」

「ちょっと話があるんだけど、いいかな。笹塚先生からの重要な伝言でね」

 笹塚とは雅弘たちのクラスの担任の名前である。担任など微塵も絡んでいないことだけはわかった。

「わかりました」

 雅弘は力なく従うしかなかった。

「桜木君、新聞、全部俺が持っていくよ」

 柊はいち早く雅弘の手から新聞の束を奪い取ると、さっそうと自分の教室のほうへ逃げていった。

「さすが。やっぱり一年生はあれくらい従順じゃなきゃね」

 不良の一人はにやにやと柊の後ろ姿を見て言った。

「じゃあ、行こうか」

 不良は雅弘の腕をしっかりと掴み、ずるずると引きずるようにしてホールを出た。


 人気の全くない、体育館の裏に雅弘は連れて行かれた。そこは草が四方八方に飛び散っていて、まるで荒れ野のようだった。学校と外界を隔てるコンクリートの塀が、巨人のようにそびえ立っている。

 雅弘は乱暴に塀に押し付けられた。四、五人の男たちが雅弘をぐるりと囲む。

「俺たち、二年生なんだ」

「はあ……」

 雅弘はなるべく無表情を装って、震える肩を何とか押さえつけた。

「君、何年生だっけ?」

「一年です」

「へえー、一年でそんなに髪茶色にしてるんだ。ていうか、そんな明るい茶髪にしていいもんなんだ」

「…………」

「だめだよ。一年のうちは校則はきちんと守らなきゃ」

「俺らの代なんて、そんなことできなかったよなー。先輩が超怖くてさ」

 五人の不良たちはけらけらと自らの思い出話に花を咲かす。

「ところで、君、身長何センチ?」

「あ、一六〇センチです」

「わー、ずいぶん小さいんだね」

 不良たちの見下したような言葉に、雅弘は怖がりながらもむっとして言い返す。

「男は身長で決まるもんじゃないと思います」

「ああそう。じゃあ何で決まると思ってんの? その金色のピアス?」

 雅弘はぐっと黙り込む。

「その首のアクセサリー? その派手な制服のアレンジ? 君、その年でオシャレ男子目指してんの? そんなもので決まると思ってんだ」

 雅弘は言い返す術がなく、黙っているしか方法がなかった。

 ついに一人の不良が、雅弘のみぞおちを蹴り飛ばした。

「てめえ、むかつくんだよ!」

 雅弘は思わずウっと呻いてその場にうずくまる。腹がちぎれてしまいそうな痛みだった。痛みと恐怖で全身がこわばったが、しかし決して負けたくないという気持ちも心の中にあった。

 蹴り飛ばした不良が雅弘の髪をわしづかみにして、上を向かせる。

「チビが調子に乗ってんじゃねえよ」

 雅弘は渾身の力を振り絞って、ギロリと不良をにらみ上げた。

 不良はさらにカンに障ったようだった。

「何だよその目は!」

 不良は雅弘を地面に勢いよく押し付け、残った数人の男が次々と暴行を加える。身体中の骨がきしみ、悲鳴を上げた。それでも雅弘はぐっと耐えた。泣かない。絶対に泣かない。

「何してんだよ。もう動けなくなっちゃったの?」

 不良の一人が楽しそうに、汗が垂れている額を手で拭った。

 雅弘にはもう見上げる気力もなかった。

 その時だった。

「お前らのほうこそ何してんだよ」

 聞き覚えのある、いや何度も聞いた、低い重量感のある声。雅弘は必死で声がした方向に顔を向けた。

 そこには、雲雀秋が立っていた。

「……やべえ、風紀委員か?」

「ちげーよばーか。一人だけじゃん」

「誰だよお前。三年生か?」

「一年生だよ」

 不良たちが一斉に吹き出した。

「あのさあ、あんまり上級生にたてつかないほうがいいよ」

「そっちこそ」

 雅弘は気づいていた。秋の目は今、完全に据わっている。

「あまり雲雀秋にたてつかないほうがいいぜ」

 言い終わるや否や、ヒュっと地面を蹴る音がしたかと思うと、不良の一人の顔がパンと弾き飛ばされた。不良たちは一瞬あぜんとし、次に意味のない咆哮を上げて総出で秋に襲い掛かってきた。秋はそれをひらりとかわし、不良たちの顔、腹、すね、首に痛恨の一撃を与えた。まるで時代劇を見ているかのごとく、鮮やかなアクションシーンだった。不良たちは綺麗に一人ずつ地面に伏し、うめき声を上げながらのた打ち回った。秋は不良たちの真ん中で、静かな怒りの目を携えて叫んだ。

「もう二度と、ウチの相棒に手出すんじゃねえぞ!」

 雅弘はうまく回らない頭の中で、そういえば秋は中学三年間、空手を習っていたことを思い出した。その名残が今でも残っているのだろう。

 秋はゆっくりと雅弘のもとまで歩き、肩をポンと叩いた。

「雅弘、大丈夫か?」

 涙腺が壊れた。こらえていたものが一気にあふれ出し、雅弘は秋の胸に飛びついた。秋は優しく雅弘を抱きしめた。

「うわあああああああん!」

「よくがんばったな。えらいぞ」

 秋の腕は暖かくて、母親に包まれているような錯覚を起こさせた。しばらく雅弘は秋の腕の中でしゃくりあげた。

 すると遠くのほうから、女の子の声がした。

「秋、雅弘!」

少しだけ低いアルトの声が、二人の名を叫んだ。理奈だった。雅弘は理奈だとわかった瞬間、秋の腕から立ち直り、汚れた制服を整えて涙を乱暴に拭った。

理奈は雅弘のもとに駆け寄ると、その肩に思いっきり飛び込んだ。

「雅弘! 大丈夫だった?」

 抱きつかれた雅弘は心臓を高鳴らせながら、何とか理奈を抱きしめ返した。

「うん。何てことないよ」

 格好つけていることはわかっている。それでも秋はそんな雅弘を責めず、笑って事情を話した。

「教室に柊しか来なかったから、何かおかしいって理奈が言ったんだ。廊下のほうに向かったらちょうどお前が絡まれてんのが見えてさ、理奈にはちょっと待っててもらってた」

「あの人、騒がないところが頭いいよね。きっと今頃ほくそ笑んでるわ」

 秋と理奈は悔しそうに顔をゆがめた。けれど雅弘にとっては、もうどうでもいいことだった。

「二人とも、助けてくれてありがとう」

 秋と理奈は困ったように笑んだ。

「雅弘……」

 理奈は雅弘を抱きしめる腕を一層強めた。雅弘もそれに答える。

 雅弘は、確信した。

 理奈は、抱きしめたい。

 秋には、抱きしめられたい。

 二人とも、大好きだ。

 愛している。

 告白しよう。どんな結果になったとしても、それを受け止めよう。


   ☆


 五月も終わりに近づいてきた。

 このところ雨も多くなり、湿気と生暖かい南風が人々の身体を撫でて過ぎていく。しっとりした空気が辺り一面を包み込む。もう少しで紫陽花も咲くだろう。

 どんよりと曇った曇り空の下、学校の屋上に、三人はいた。雅弘が呼び出したのだ。

「話って、何?」

 理奈が不安そうに訊く。今の雅弘の表情には余裕というものが一切感じられなかったからだ。秋も理奈と同様、顔を渋くして雅弘の出方を待っている。

 雅弘は、手を差し出しながら、思いっきり二人に頭を下げた。

「秋! 理奈! 二人のことが好きです!」

 静寂が訪れた。

「二人とも、恋愛感情で好きなんです。手を繋いだり、デートしたりしたいんです。つまり大切にしたいんです。どうか応えてください!」

 雅弘はやっとの思いで伝えた。手が震えて止まらなかった。

 その震える手に、女の子の細くて柔らかい手が乗った。

「理奈……?」

 理奈はわずかに顔を赤らめながら、雅弘の手を握って言った。

「はい。応えます。私も雅弘と秋のことが大好きです」

「秋も恋人になるよ……?」

「うん。それでいいの」

 理奈はにっこりと笑った。

 雅弘の顔にもほっとした笑みがこぼれた。

しかし秋は、表情をこわばらせたまま動かなかった。

「応えられねえよ……」

 秋の声は悲痛に満ちていた。

「そんな、ずっと友達、いや親友だと思ってたのに……。いきなり恋人って……しかも男同士だぞ俺ら……お前、わかってんのか?」

「わかってる。秋、俺にはお前に対してそういう感情があるんだ」

「そんな……!」

 秋が言い終わる前に、雅弘は理奈から手を放して秋に抱きついた。秋の身体が硬直する。

「俺は、お前にこうされたいんだ。お前相手にドキドキできるんだよ。本当だよ、秋。嘘なんかじゃない」

 雅弘は一生懸命、秋への恋慕を語った。本当はずっと前からそうだったのかもしれない。中学の時から、憧れは恋へと変わっていたのかもしれない。

 秋は静かに、雅弘から身体を離した。

「……中学三年の時に初めて同じクラスになって、気が合って、一緒に馬鹿やって、くだらない話で盛り上がって、テストの時一緒に乗り切って、ハハハ、けっこう楽しかったな」

「秋……」

 雅弘は不安げに秋を見つめる。理奈は黙って事の成り行きを見守っていた。

「ごめん」

「秋」

「俺は、応えられねえよ」

 秋の目から、一筋の涙がこぼれた。

 涙は後から後からあふれ出てきて、秋の顔を濡らした。ひっくとしゃくりあげる声が聞こえた。

 秋が泣いている。

 強くて豪快で、たくましい秋が泣いている。

 雅弘は胸がちぎれそうだった。きっと理奈も同じ気持ちだろう。

「俺、帰る」

 秋はぼそりとつぶやくと、うなだれながら屋上の扉を開け、階段を下りていった。カンカンカンと、乾いた音が空中に響いた。

「理奈」

 雅弘は理奈のほうに顔を向け、確固とした意志で言った。

「秋のことが完全に片付くまでは、まだ友達でいさせてくれ。やっぱり俺は、二人とも欲しい。三人でフェアでいたい。……いいかな?」

「うん。いいよ」

 理奈はこくりとうなずいた。

 思い込みでも、刷り込みでも、勘違いでも、気持ち悪くても、俺はお前のことが好きなんだ。

 それは本当のことなんだ。

 秋。

 五月の終わりの風が、なだらかに二人の身体を過ぎていく。


   ☆


 中間テストが終わった。季節は六月に入っていた。

 テストの終わりと同時に、教室内は勉強から解放された喜びでいっぱいにあふれた。ざわつきの中、雅弘と理奈はお互いに目配せをした。調子はどうだった? まあまあかな。無言の会話を交わすと、二人とも恥ずかしそうに笑った。

 ただ一人、秋だけは無言で席を立ち、二人に「じゃあ」と声をかけただけで去っていってしまった。しかしそれを止める術はなかった。

 秋が出て行った教室は、どことなく物足りない気がした。やはり自分の隣には秋がいないと駄目なのだと、雅弘は再度思った。理奈だけでは、無理なのだ。自分の何かが。

「理奈」

 雅弘は理奈の席に近づき、ある提案をした。

「ねえ、内緒のデート、しない?」

「内緒?」

「うん。友達デート、ていうのもあるけれど」

「何をするの?」

 理奈はきょとんとした。

「別に、二人で帰りがけにどっか寄ったり、物買って食べたりするだけ」

「それ、ただの帰り道デートじゃん」

 理奈はふふふと笑った。

「いや、まだ秋のことがあるから。友達デートってことで」

「何それ。もう、しょうがないなあ」

 理奈は困ったように笑って、席を立った。


 木立(こだち)市立高等学校の校門を抜け、二人は木立市の商店街に出た。

 立ち並ぶ店を見ながらしばらく歩き続け、目に止まった洋服店に入ったり、クレープ店のところで立ち止まり、一緒にクレープを頼んで食べたりした。

 楽しい時間はあっという間に過ぎていった。空は暮れ始め、色濃くなった青い空と地平線を彩るオレンジ色の夕焼けが現れ、それはとても綺麗だった。

「ありがとう。今日は楽しかった」

 雅弘は理奈に向かって笑顔で言った。理奈も顔をほころばせて「こちらこそ、ありがとう」と言った。

 ふいに雅弘は秋との馴れ初めの話をしたくなり、口を開いた。

「中三の春の頃、教室で一人でいた俺に、話しかけてくれたのが、秋なんだ」

「そっか」

「うん。受験の時期だったから、みんな内申書を気にして髪の毛真っ黒でさ、俺だけヤンキーみたいな茶髪にしてたの。なのに秋は少しも躊躇しないで俺のほうに向かってきてさ、お前、この髪の色すげえな、って言ったんだ。笑えるだろ」

 理奈はアハハと笑った。

「確かにそれは、でも、秋らしいよね」

「そうだね」

 雅弘は一呼吸置いて、再び口を開いた。

「秋は、本当に躊躇しないんだ。明るくて、強くて、男らしいやつなんだ。今考えれば、初めて会った頃から一目惚れしていたのかもしれない。こいつはかっこいいって、心のどこかが叫んでいたのかもしれない」

「……そっか」

 理奈は静かな声で、雅弘に同調した。

「秋の立場から考えれば、そりゃ戸惑うしかないよな。友達にいきなり好きだって言われてさ」

「……うん」

「でも俺は、本当に自分勝手だと思うけど、後悔はしていないんだ。何も伝えないで、ずっと苦しい想いを引きずっているより、いっそ当たって砕けろって思って。だからもし秋がこのまま離れていってしまったとしても、覚悟はできてる」

「……雅弘、強いね」

 理奈は同情をするでもなく、ただ淡々と言った。

「はは、そんなことないよ。普通に告白して振られただけだって」

 雅弘は苦笑いを浮かべて、すぐそこに転がっていた小石を蹴った。蹴られた石は何メートルか先まで転がっていった。

「……それで、完全に秋とは終わったと自分の中で決着が付いたら、理奈を彼女にするよ。……ごめん。俺、本当に自分勝手な男だな」

「……同時に二人を好きになってしまうことって、あると思う」

 理奈は穏やかな顔で雅弘を見た。

「そして、同時に二人とも付き合いたいって思うのも、人間の生理現象だと思う。勝手なことでも、おかしいことでもないよ」

 雅弘は泣きそうになった。ぐっと涙が出るのをこらえた。

「だって雅弘、私に言ってくれたじゃん。夜が怖くてたまらないって言った私に、全然おかしくない、真っ当な人間の感性だよって。その言葉にどれだけ救われたかわからない。だから私も、雅弘の感性は全くおかしくない、真っ当な人間の感性だって信じてるの」

「……ありがとう。理奈」

 雅弘は心から理奈に感謝した。

 ふと、どちらからともなく手を繋いだ。

 理奈の手はとても暖かく、ほっそりとした指がかわいらしかった。

 二人は手を繋ぎながら、それぞれ秋のことを想って商店街の真ん中を歩いていった。

 俺は、とても弱い。

 だから、二人がいないと駄目なのかもしれない。

 三人一緒じゃないと駄目なんだ。

 でも、たとえそうなれなくても、強く生きよう。

 俺のことを大切に思ってくれる、理奈のために。秋のために。

 たくさんの人たちのために。

 そして何よりも、自分のために。


   ☆もう一度、三人で☆


 事件は起きた。

 その日、雅弘は家族と夕食を食べていた。食事が終わり、食べ終わったあとの皿を流し台に持っていく時、電話が鳴った。

 変に無機質な音で、雅弘はひどく不安をそそられた。

 何だろう。何だか嫌な予感がする。

 雅弘は瞬時に、受話器を取ろうとしていた母を押しのけ電話に出た。

「もしもし」

「…………」

 しかし相手は答えない。

「……もしかして、秋?」

「……雅弘」

 その声はひどく掠れていて、泣きはらしたあとのようにも思えた。

「助けてくれ」

雅弘は青くなって叫ぶ。

「どうしたの! 何があったの?」

「……兄貴が、行方不明になった」

 兄貴。秋の兄貴。美春兄さん。

 雅弘の頭の中で、電流のように思考回路が繋がった。

「警察には言ったの?」

「ああ。でも二十四の男の失踪なんて、警察もあまり乗り気になってくれなくて……」

「何だよそれ!」

 雅弘は憤慨して叫んだ。

「わからないんだ……。いきなりふらっと出て行っちまって……。兄貴な、一回はちゃんと就職したんだ。でも先輩に当たる人たちから、ひどい悪口を言われ続けて……兄貴は何も失敗してないのに……多分あれ、会社の思惑で、兄貴を自主的に退職させたかったんだと思う。それ、新卒切りって言って、今ちょっとした社会問題になってるんだって。俺、ちっとも知らなくて……」

「そうなんだ……」

 自分も知らなかった。新聞など、一面すら読んだことがなかった。

「姉貴もどっか行っちゃったし……親は交番の警官と奮闘してる最中で……雅弘、俺、どうすればいい?」

 雅弘はしばし考え込んだ。どうすれば秋の役に立てるだろう。考えた末、結局この結論にしか至らなかった。

「俺も捜す! 理奈も呼んでくるよ!」

「え……理奈は女だから夜は危ないんじゃ……」

「俺と一緒だから平気だよ! 秋は家で待ってて! もしかしたら美春兄さん帰ってくるかもしれないし!」

「…………わかった」

「すぐに見つけ出すからね!」

「…………あり、がとう」

 鼻をすする音が受話器越しに聞こえた。きっと秋はひどく傷ついているのだろう。胸がきつく縛り付けられるような痛みを感じたまま、電話を切った。

 振り向くと、心配そうな顔をしている母と目が合った。父も探るような目つきで見てくる。

「母さん、父さん、俺ちょっと出かけてくる! いつ戻るかはわかんない!」

「そんな……! どこへ行くの?」

「必ず戻ってくるから心配しないで!」

「雅弘!」

「母さん。行かせてあげなさい」

 ふいに父が口を開いた。雅弘は驚いて父の顔を見る。その表情は厳かで、しかし朗らかなものだった。

「……わかったわ。行ってらっしゃい」

 母は父の言葉を信じることにしたらしい。雅弘はほっとして、同時に感謝の気持ちでいっぱいになった。

「ありがとう」

 すぐさま上着を着て玄関へと走る。

「行ってきます!」

 そこにあったスニーカーを履いて、雅弘は玄関のドアを開けた。夜の暗黒が空を染め上げ、風が唸り声を上げて吹いている。それでも雅弘は走り出した。

 すべては、親友であり、好きな人のために。

 雅弘は真向かいのマンションに入り、三階まで駆け足で階段を上った。理奈の住んでいる部屋に行き着き、呼び鈴を強く押した。

 その時だった。

 バシンと何かが強く叩かれる音が響き、次に「智広君、やめなさい!」と女性のかん高い声がドアを通して雅弘の耳に響いた。

 え?

 雅弘は混乱した。今、この家の中で何が起きている?

 困惑していると、殺人的な速さで玄関のドアが開いた。

 顔を出したのは理奈だった。

 しかし、右の頬が赤く腫れている。

「理奈……?」

「あれ、雅弘、こんな時間にどうしたの?」

 理奈はなるべく平静を装って笑顔を貼り付けた。しかしその笑みは痛々しい以外の何ものでもなかった。

「理奈こそ……どうしたんだよ。その顔……」

「な、何でもないの」

 ふと、理奈の背後から家の中をかいま見ることができたので、雅弘は瞬間的にそちらに目を移した。

 家の中はさまざまな日用生活品があちこちに散らばっていた。まるで誰かが投げまくったかのように、ひどい有様になっていた。

 弟だ。

 理奈の弟、智広が物を投げ、姉を殴ったのだ。

 視界の端に弟の姿が映った。その目つきに雅弘はぎくりとした。

怖い。

憎しみの篭もっている瞳だ。その瞳で、姉である理奈をにらみつけている。まるで殺したい敵のように。

弟の肩を必死に掴んでいる手があった。多分ホームヘルパーの人のものだろう。姿は見えなかったが、指先が震えているように見えた。

雅弘はすぐさまここから逃げ出したくなったが、首を横に振って耐えた。

「理奈、美春兄さんが、行方不明になっちゃったんだ。一緒に探してくれる?」

「ええっ? わ、わかった! 一緒に行くよ!」

 そう言うと理奈は上着も羽織らずにそのままの服装で靴に足を通し、弟とヘルパーのことをちらりとも見ないで玄関のドアを閉めた。その瞬間、ガチャリと鍵の締まる音が嫌に大きく響いた。もう戻ってくるなとドア越しに囁かれているようだった。

「理奈……鍵、持ってる?」

「大丈夫。ヘルパーさんが必ず開けてくれるから」

「そうか。よかった」

 雅弘はとりあえずほっとした。それから理奈の赤く腫れ上がった右頬を痛々しそうに見つめ、手のひらでそっと触った。

「……智広君と、ケンカでもしたの?」

「……まあ、そんなものかな」

「それにしてもひどいね。こんなに強くぶつなんて」

「ふふ。ありがとう。雅弘はいつも私の味方をしてくれるね」

「だって彼氏だもん」

「そうだったね」

 しばし二人で笑い合ったあと、本題に入った。

「とりあえず、木立市にある交番を全部回ってみよう。連絡くらいは行っているはずだよ」

「だといいけど……。秋はどうしてるの?」

「家で待っててもらってる」

「そうか。そのほうがいいよね」

 雅弘と理奈はお互いに手を繋ぎ、強い風が吹く夜の闇の中を走っていった。


 交番に尋ねてはみたものの、具体的な情報は入っていなかった。一応連絡は行っているらしく、警察は捜査してくれているのだが、一向に手がかりが見つからないとのことだった。

 二人は木立市内のすべての交番を尋ねて回るつもりだった。木立市は広大な広さだ。だが美春はその身一つで家から逃げたらしいので、電車には乗れないだろうと踏み、この木立市内のどこかにいるはずだと目星をつけた。

 しかし、時は残酷に針を進めた。もう夜の十時を過ぎている。一時間は捜し回っていることになる。二人の身体に疲れが生じてきた。

 歩道脇のベンチに二人で力なく座り、しばらくしなだれる。通行人の訝るような視線に晒されたが、もはやそんなことはどうでもよかった。

「……雅弘、ケータイ持ってる?」

「あ、忘れた」

「私も。一回、秋の家に行かない? そこでもう一回どうすればいいのか考えよう?」

「……そうだな」

 雅弘と理奈は再び立ち、信号を渡るため交差点に出た。

 突然、理奈が叫んだ。

「雅弘!」

 今まで聞いたことのない音量だったので、思わず雅弘はびくりと跳ね上がってしまった。

「な、何? どうしたの?」

「あ、あれ! 美春兄さんじゃない?」

 理奈が指差した場所は、歩道橋だった。そこに、手をかけて下を見ている青年がいる。今にも飛び降りそうな、危なげな表情をしているのが手に取るようにわかった。数人の通行人も気づき、顔を不安げに曇らせる。

 雅弘と理奈は一目散に階段に向かって走り、上った。ガンガンガンと乱暴な音が耳を支配する。不気味な音だった。

 歩道橋に出た。

 美春はすぐに二人の存在に気がついた。しかし表情は頑なで、何かを諦めたような空気が今の彼をまとっている。

「美春兄さん!」

 二人はほぼ同時に、悲鳴に近い声を上げた。

「何してるんですか! そんなところに身を乗り出したら危ないですよ!」

 雅弘は何とか相手を刺激しないように声を張り上げる。だが美春の顔は変わらない。血の気がなく、うすぼんやりとした瞳で二人を捉える。

「二人とも、秋の友だちになってくれてありがとう」

 ふいに美春は柔らかい声で言った。雅弘は嫌な予感がしてたまらなかった。

「こんな俺に、あんないい弟が付いて、俺は幸せ者だなあ。そうだよ。本当は幸せなんだよ、俺は」

 美春は虚ろに言葉を並べ立てている。理奈は怖がって雅弘の腕にしがみついた。雅弘は決心をして、彼の心の中に踏み入ることにした。

「美春兄さん、あなた、自分のことを明るい引きこもりだって言ったじゃないですか。縁の下の力持ちだって、言ってたじゃないですか。それなら堂々としていればいいんですよ。今の美春兄さんで、いいんですよ」

「今! 今の俺がいいだって!」

 美春は盛大に笑った。何か大きなものが、彼に取り憑いて操っているとしか思えないほど怖い笑い方だった。

「二十四にもなって、家から出られない男が! いじめに遭ったくらいであっさり会社を辞めた俺が! そりゃけっこうな話だ! 涙が出てくる!」

 美春は焦点の合っていない瞳で叫んだ。周りの通行人たちが気味悪そうに立ち止まり、後ろを振り向いて去っていく。

「なあ! 君たちは言われたことがあるかい? 

『こんな簡単な仕事、猿でもできる。お前なんて人間じゃない』

『会社なんか辞めちまえ』

『お前、何で生きてるんだ? 家族に申し訳ないと思わないのか?』 

まだまだあるぞぉ! 一晩じゃ語りつくせないほどだ!」

 美春は狂乱めいた高笑いをしたあと、今度はうつむいて泣き始めた。

「終わらないんだ! 聞こえてくるんだ! あのオヤジたちの言葉が! 家事を手伝っても家族と笑いながら食事をしていても! 頭にこびりついて離れないんだ!」

「美春兄さん……」

 理奈が怯えた様子で美春に声をかける。けれど彼の耳にはもう何も届かない。美春の叫びは一向に収まる気配がない。

「君たちも将来そういう目に遭うんだぞぉ! でっぷり太ったオヤジたちに怒鳴られて、殴られて、罵声を聞きながら会社に行くんだぞぉ! 仲間なんてできやしない! 一人ぼっちだ! だからもういいんだ! 充分一人だってわかったから! もういいんだ!」

「やめてください! 何がいいっていうんですか!」

 雅弘は渾身の力で声を張り上げる。とにかくこの人の目を覚まさせなければいけない。だけどどうやって。

「あなた二十四じゃないですか! 全然若いじゃないですか! 今度は別の会社で働けばいいことですよ!」

「ばかなことを言わないでくれ! まだ働くこともできないくせに! 君たちにはわからない! 働くってことがどんなに残酷か! 働けない人間がどういう扱いを受けているか! こんな情けない姿を毎日毎日家族に曝け出して、みじめもいいところだ!」

「家族にはどんな醜態だって晒していいじゃないですか! ちゃんとあなたのことを愛しているじゃないですか!」

「愛してる? 俺は一番そこから遠いところにいるんだよ! 何もできない二十四の男を誰が求めてくれる? 誰が許してくれる? いいか、よく覚えておくんだ! 雲雀家で一番愛されてるのは秋なんだよ! 父さんも母さんも、みんな秋に夢中さ! 俺はただの召使いだ! なぜかって? 秋は強いからだよ! 将来働ける人間だからだよ! みんな無意識のうちに秋に期待している。秋は立派な仕事をしてくれるって。秋が俺に向かって話をしてくれるたびに俺はどんな気持ちで――――」

「やめて!」

 突然、すぐ後ろから女性の声が響いた。二人は驚いて後方を見ると、冬美が真っ青な表情で立ち尽くしていた。

「冬美さん……?」

 二人は意外に思った。偶然自分の兄を見つけたのだろうけれど、こんなに必死な彼女は初めて見る。

「あなたさっきから何なのよ! 長男の威厳はどこに行ったのよ! 秋は末っ子だからかわいがられているだけよ! 働けないくらい何よ! あんたはちゃんと家族に貢献してるじゃん! いつも母さんの手伝いをしてくれてるじゃん! 母さん、どれだけ助かってると思ってんの? 私のほうが悪い子だよ! 毎日夜な夜な遊び歩いて、でも生まれて一度だって、自分を傷つけようと思ったことはない! だから兄さんも自分を傷つけないで!」

 妹の突然の叫びに、美春は戸惑っているようだった。それにより興奮状態から少し冷めてきていた。

「でも、俺は……」

「兄さん! 自分を責めないで! 誰も味方がいなかったら、自分だけは自分のことを守ってやって! 自分で自分を許せばいいんだよ! こんな自分でいいんだって、心の底から感じればいいんだよ! 兄さんは心の休養をしているだけなの! いつかまた働ける! 兄さんが関わってきた人たちは、あんなオヤジたちだけ? 違うでしょ? いろいろな人たちと関わってきたでしょ? その人たちの中には、兄さんのいいところをたくさん知っている誰かが必ずいるんだから! 兄さんは、ちょっと気が弱いけど、人の心の痛みがわかる、優しい人だよ!」

 冬美は必死に説得した。冬美は、家族から最も遠いところにいるようで、本当は最も近くにいた人物なのだと雅弘は思った。美春のことを一番慕っているのは、本当は冬美だったのだ。

 しばしの静寂が、訪れた。

 歩道橋の柵から身を乗り出していた美春は、少しのためらいのあと、ゆっくりと柵から離れた。すぐさま冬美は美春のもとに駆け寄り、彼を抱きしめた。強く強く。雅弘と理奈はほっとして、そんな二人の光景を見届ける。

「何とか、なったみたいだね」

「やっぱり最後は、家族の力なんだね」

 理奈は少し羨ましそうに、少し寂しそうに言った。はっと気づいて理奈の右頬を見てみる。もう腫れは引いているようだった。

「理奈」

 雅弘は理奈の肩に手を置き、ゆっくりと言った。

「失礼な質問だったら答えないでいい。理奈の家は、何か問題があるの?」

 理奈は悲しそうな笑顔を見せた。ほぼ泣き笑いの表情だった。

「……今度、話すね」

「……わかった」

 雅弘は強くうなずいた。


 もう時間は午後の十一時を回っていた。美春を連れた雅弘たちは、とりあえず手近な交番に向かい、事情を説明した。警察官は優しい顔で納得してくれ、家族に連絡をした。

 三十分もしないうちに秋と両親が駆けつけてきた。母は目に涙をためて美春に「ばか!」と叫んだ。反対に父は「よく帰ってきてくれたな、美春」とあやすように彼の頭を撫でた。

 秋は、遠くのほうで、放心状態になっていた。

 雅弘と理奈は両側から秋の肩を小突き、目を覚まさせた。はっとした秋は見る見るうちに涙目になり、それでも必死に泣くまいとこらえていた。するとがばっと身体を広げ、二人をいっぺんにかき抱いた。

「うわっ」

「あ、秋?」

 戸惑う二人をよそに、秋は鼻をぐずつかせ、小さな声でつぶやいた。

「ありがとう。お前ら、大好き」

 ふと、雅弘の心に暖かい風が吹き込んだ。

 秋が「好き」と言ってくれた。それが恋愛感情ではなくとも。あの時以来ずっと気まずかった秋が、今は自分を抱きしめている。それだけで充分だった。ずっと秋の「相棒」でいたい。心の底からそう思った。

 一方の美春は、母と冬美に説教され、父に苦笑されているところだった。

 星が瞬く夜空が、今は穏やかに雅弘たちを見下ろしている。


   ☆


 六月も終わる頃だった。

 梅雨はまだ続いていて、湿気のある風が生徒たちの身体を吹き抜けていく。しっとりとした空気が地上を包み込み、紫陽花はカタツムリを乗せ、まだ元気に咲いている。

「今日も曇りかー。早く夏にならねえかなー」

 秋は、雅弘、理奈と一緒に、屋上の長ベンチに座って、上を向いてつぶやいた。灰色の薄い雲が空を覆ってはいるが、雨が降る気配はない。

 秋は元気を取り戻し、離れていた三人の距離も、始めの頃のように着かず離れずの絶妙な具合に戻っていた。惜しむらくはあともう少しだけ距離が縮まればいいのにと、雅弘は心の隅で思ってはいるが、口には出さないでいた。

 今は、理奈の家庭環境のことを聞く時なのだ。

 今朝、秋とともに教室に着いた時、理奈から話があると切り出された。彼女は真面目に漆黒の瞳をきりりとさせて、二人を見つめてきた。断れるような雰囲気はなく、もっとも断るつもりなど二人には毛頭なく、快く承諾した。理奈は安心したような表情になって、可愛らしい笑顔を咲かせた。

 放課後、三人はひそかな穴場となっているこの屋上に集まり、湿気を帯びた風に当てられながら、梅雨の季節を感じた。

 理奈は雅弘と秋の間に座って、薄い灰色の空を見上げながら、ゆっくりと口を開いた。

「私と智広はね、両親に捨てられたの」

 瞬時に二人の顔がこわばった。

「育児放棄をされてしまったの」

 雅弘はおそるおそる訊いてみた。

「いつの頃から……?」

 理奈は悲しげに眉を下がらせて、泣き笑いのような顔で言った。

「私が中学生、智広が小学生の頃くらいかな。そこから両親の仲が少しずつ捩れていくのがわかったから。夫婦喧嘩が多くなって、次第に口を交わす回数も少なくなってね、やがて二人は離婚届を出した。その時に、どちらが親権を持つかでもめたの。二人とも私たちがいらなかったみたい」

「……最低な親だな」

 秋は怒りの言葉を吐き出した。

「本当なら私と智広は施設に行く予定だったんだけど、お母さんの古くからの友人が説得してくれてね、何とか二人とも養育費を出してくれることになった。両親はホームヘルパーを雇って生活していけと、私たちをあのマンションに追いやったの」

 理奈はそこで言葉を切ると、一度大きく深呼吸をして、続けた。

「その日から、智広はおかしくなってしまったの」

 理奈の声はだんだんと苦痛の気配を募らせていった。

「まるで亭主関白の父親のよう。ご飯が少し遅くなれば怒鳴り散らすし、私の帰りが遅ければ文句を言うし、確実に怒りと憤りのはけ口が、私とヘルパーさんへ向かってしまっているの。ヘルパーさんはもう何人も辞めてしまっているわ。智広はどんどん身体も大きくなって、力も強くなっていって、私、弟が怖くて仕方がないの。家に帰るのが恐ろしいの」

 理奈はそこまで言うと、両腕で身体を抱きしめ、うずくまってしまった。二人はあわてて彼女を両側から抱きしめる。

 理奈はなおもか細い声で言い続けた。

「……最初、秋と雅弘に、私は不吉な女だから近づかないでって言ったのは、もしかしたら智広に目をつけられるかもしれないと思ったからなの。私さえ一人でいれば、智広は満足するから。私さえ、私さえ一人でいれば……」

 秋はもう聞いていられないというように首を振り、理奈の肩を抱いた。

「理奈。無理すんな。俺の結論から言わせてもらえば、そんな弟から逃げろ。もしくは、弟の目を覚まさせろ。それしかお前の救われる道はねえ」

 秋は苦渋の表情を浮かべて、囁くようにゆっくりと言った。

「理奈。もしどうしても家に帰れなかったら、俺の家にくればいいよ。父さんも母さんも優しいし、家、広いからさ、理奈の寝床なんていくらでもあるよ!」

 雅弘はなるべく明るく振る舞って言ったが、心の底に溜まっていくどす黒い何かを感じていた。

「ありがとう……二人とも……」

 理奈は泣いていた。涙が大きな目から溢れ出てきて、彼女の頬を濡らしていく。三人は抱き合ったまましばらく時を過ごした。

 やがて、理奈の涙はおさまり、そこには確固とした強い瞳があった。

「私は、もう弟を、かわいそうだなんて思わない」

 二人は理奈の身体をゆっくりと離した。

「今日から、弟と戦う」

「戦うの? 無理しなくていいんだよ?」

 雅弘は理奈の腕を掴んで心配そうに訊いた。

 理奈は笑顔で首を振る。

「大丈夫だよ。私はこれでも、智広の姉なんだから。逃げるわけにはいかない」

「そうか。俺らにできることがあったら何でも言えよ。すぐに助けに来るからな」

 秋は理奈の肩に手を置き、一言一言を重く噛み締めて言った。

 理奈は柔らかな笑みを浮かべて「ありがとう」と言った。

 ふいに湿った風が三人の身体を吹きぬけていった。季節はもうすぐ夏を迎える。

 どちらからともなく、「帰るか」と言い出した。三人はもう一度頭上の空を見上げて、そして屋上から出て行った。

 

「これから、俺らどうなるんかなー」

 秋が伸びをしながら、気だるげにつぶやいた。

「どうなるって?」

 雅弘が訊く。

「いや、二年に上がった時のこととかさ、考えちゃって。クラス分かれちゃうのかなーとか、受験も始まるなーとか、そのほかいろんなことをさ」

「あ、クラス分かれちゃったらとかは、私も最近よく考える」

 理奈が秋に同調して言った。

「だよなー。あと、柊のこともあるし。ていうか、もう進路のこと考えなきゃいけない時期なのかな」

 秋にしては淋しげに、ふっと言葉を漏らした。

「そうだな。もうそんな時期なんだな」

 雅弘は暮れていく空を眺めながら、これからの行く末を案じた。一体自分たちは、どこへ向かっていくのだろう。

 わからない。でも。

 この二人と、ずっと一緒にいたい。

 それは変わらない答えだった。

 急に前を歩いていた秋と理奈が立ち止まった。何事かと思って意識をそっちに向けると、最も会いたくない人物がそこに立っていた。

「柊……!」

 秋は生涯の仇のように彼をにらみつけ、雅弘と理奈を後ろに回す。

 柊はぷっと吹き出して、三人を含みのある視線でねめつけてきた。

「何それ。別に攻撃するわけじゃないんだからさあ」

「何の用だよ」

 秋は迫力のある声でにらみを効かす。

「俺が用事あるのは、桜木君なんだよね」

 柊は後方にいる雅弘をにやにやした笑いで見つめてきた。

「……何?」

 雅弘は嫌な顔をして聞き返す。

「あのね、桜木君。君が綾瀬さんと雲雀君を両方恋人にしたって噂が、今クラスで密かに流れているんだよね」

「え……?」

 雅弘は愕然となった。そんな、いつからバレていたのだろう。あの屋上の告白の時か。あの時、誰かあそこにいたのだろうか。

 柊は固まる三人を、さもおかしそうに笑いをこらえて見つめ続ける。

「ねえ、大丈夫なの? 常識ある? なんか屋上で二人に愛の告白をしてたって、俺の友達が言ってるんだけどさあ、普通に考えておかしいよね? クラスメイトがそんな変な趣味を持っていたなんて、俺は悲しいよ」

「黙れよ」

 雅弘はできる限りの低い声を出して、静かに言った。秋と理奈が若干驚いている。

「俺のことは変態扱いしてくれていいよ。ただ、二人のことを変な風に言うのは許さない。また噂を流すことも許さない。そうしたら、俺はお前を殺してやるよ」

「雅弘……」

 秋と理奈は少し戸惑ったような声で雅弘の名を呼んだ。その声には制止の意味が込められていたような気がして、雅弘はそれ以上は口をつぐんだ。

 対する柊は、雅弘がこんなことを言うのが意外だったのか、少し怯んだ様子で三人を不気味そうに見た。

「……お前ら、おかしいよ」

「おかしくてけっこうよ」

 理奈が確固たる意思を持って言う。

「ああ、俺らはおかしいって、周りに吹聴すればいいさ。お前の気が済むまでな。俺らは三人いれば、それで楽しいんだから」

 秋も理奈に続いて、不敵な笑みさえ浮かべて柊を圧した。

 柊はしばらく三人のことをにらみ続けていたが、やがて静かに踵を返して帰宅路を歩いていった。

 三人は、柊の姿を、一抹の不安を抱えながら見送っていた。


「あいつ、これからどうするつもりなのかな……?」

 帰り道の途中、理奈が不安げに言葉を漏らした。

「さあな。とりあえず俺らは変態って噂が流れるだろうな」

 秋はさして気にしていないような声で言った。

 雅弘の胸に、二人の言葉が染みていく。

「…………いつかさ、高校時代を振り返って、あの頃は楽しかったなとか、三人で笑い合える時が来るのかな」

 雅弘はぽつりと言った。

 二人は雅弘のほうへ振り向く。

 そして、お互いに笑顔で言った。

「当たり前じゃねえかよ」

「そうだよ。きっとそんな日が来るよ」

 雅弘は、朗らかな気持ちが心を満たしていくのを感じた。

「そうだね。がんばっていれば、きっと来るよね」

 三人は一緒に笑い合って、帰宅路をゆっくりと歩いていく。

「とりあえず、日々を大事に過ごしていかねえとな。柊なんかに負けてないでさ」

「そうだよ。私も、智広とのことでいつまでもめそめそと泣いてなんかいられない。前に進まなきゃ」

「二人とも、がんばろうね。つらいことがあっても、一緒にがんばっていこうね」

 雅弘がそう言うと、秋と理奈は声を重ねて答えた。

「おう」

「もちろん」

 やがて、三人はそれぞれの分かれ道に立った。

「じゃあ、また明日学校で」

 雅弘が二人に手を振る。

「おう。明日な」

「バイバイ」

 そして、三人は別々に歩き出した。


 ――――また、明日。


   了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援した人

応援すると応援コメントも書けます

贋作:天使しりーず(2012年版) 花*花 @hana-hana5

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

作者

花*花 @hana-hana5

カクヨムやっておりました。 もうちょいがんばろかな。 一次創作小説や詩文散文を書いたりします。 他に投稿サイトをいくつか切り盛りしています。 星空文庫 pixiv 小説家になろう エブリスタ …もっと見る