第二章 異世界とわたし
異世界と高齢者を取り巻く環境
第31話 ドラゴンの風邪
エルさんが風邪をひいた。
「大丈夫?」
『うむ、大事ない』
頼もしい返事とは裏腹に、活気がないのは目に見えていた。呼吸音はいつもより大きいし、その呼吸も少し浅い。動作一つ一つとっても気だるそうで、特に立ち上がりがおぼつかない。ここ数日のリハビリで膝の機能はかなり改善していたはずなのだが、今はそれ以前の状態に逆戻りだ。
「食べないと、元気でないよ?」
腰が立たず床にうずくまるエルさん。私は小鍋に移し替えたスープを口に運んでいるが、二杯目を飲んだ後から飲もうとしてくれない。小鍋が近づくと、首を離してしまうのだった。
「心配だよ、私。ね、お願い、食べて」
エルさんの頭はすっかり地面に横たわってしまっていた。ドラゴンは首が長い為、飲み込むためには体より頭を上に持ち上げなくてはならない。しかし今のエルさんには首を持ち上げることすらだるいのだ。その口内へスープを注いでも、キバの隙間から力なく流れて出てしまう。
『すまぬ。食欲がないのだ。許せ』
私はこの時初めて、己の無力さを痛感したのだ。
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異変に気がついたのは昨日。
エルさんが排便にちょっと失敗した。
エルさんは摘便が必要な場合を除いて排便する場所を決めている。エルさんが居座る芝生より奥にそれはあって、その一角には泥と岩が積み上がっている。この蓄積物自体がエルさんの便であり、成分は粘土のそれと殆ど変わらないので積み上がっては固くなりを繰り返して岩のようになっているという訳だ。
排便する時はそこへ歩いていき、その後くるっと体を回してお尻を向ける。用を足し終えたらそのまま真っ直ぐ歩けば元いた芝生のベッドが待っている、という訳だ。
ではどう失敗したのかというと、くるっと回っている間に、おしりから便が出始めてしまったのだ。
「エルさんエルさん、でちゃってるよ」
『む? そうか? うむ、本当だ』
しかしながら大部分はきっちりといつもの場所に乗っていので、私はこの時あまり気に止めていなかった。
だがその後の夕飯で、エルさんは初めてアッテリアのスープを残した。
「あれ、エルさん。スープもういいの?」
まだ半分は残っているのにエルさんは私に向けて口を開けてきた。これは精霊石ちょーだいの合図なのだが、
『うむ、腹があまり減っておらぬようだ。精霊石をくれ』
そして精霊石を一飲みすると、すぐに芝生で丸まってしまった。後から聞こえてくる精霊石の音も、心なしか勢いが少し足りない気がする。
ここまで来て私はようやくエルさんの変調に気がついたのだ。
普段は便秘気味にも関わらず途中で漏れてしまったゆるい便。
便が出ているにも関わらず食欲がなく、酒の所在も聞いてこない。
そして食べるなり直ぐに横になる。
どれも高齢者の変調の予兆と一致していた。
高齢者は体力が低下している為、発熱に伴う体力の消耗の影響が大きい。介護サービスを利用するような年齢・状態にもなると、それは顕著に現れるようになる。介護職員ならびに看護師はこの兆候を見逃さないことが大切だ。発熱する前からその対策を講じ、発熱を最低限に抑え、体力の低下を極力防ぐ。
なぜなら高齢者の高熱はリスクが高いからだ。発熱そのもののリスクとして肺炎や脱水の誘発、そして失った体力が戻るのに時間がかかることの弊害として運動機能の低下、それによる副次効果として認知症の進行加速。リスクを上げたらキリがない。
「エルさん、ちょっといい?」
私はエルさんの頭に抱きついた。心なしかいつもより暖かい気がする。
「エルさん、風邪ひいちゃったのかなぁ。今日はもうゆっくり休んで、明日しっかり食べようね」
流石にこの巨体全てを覆うほどのものは無かったので、アッテリアに協力してもらってワラやら羽毛などをかき集め、丸まって寝るエルさんの体の隙間に詰め込んだ。これでいくらかは温かいだろう。
――ただの疲れだといいな。
私はそう願って、自室で朝を迎えた。
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しかし私の願いは届かなかった。
「じゃあ精霊石は?」
『それもいい。我はもう寝る』
私はここ一ヶ月のエルさんとの生活で、すっかりわかったつもりになっていた。それが慢心だと気が付かされた。
「エルさん。食べてよぅ」
私は地べたに座ってそれを見届けるしか無かった。膝の上に抱えたスープの小鍋に透明な雫が溶けていく。
高齢者の栄養不足はそのまま死に直結する。食べられるかどうか。それが高齢者の寿命のバロメーターだ。介助を行っても食べられない。そんな状況を見て私達は思うのだ。いよいよかもしれないな、と。
エルさんの鼻を撫でる。いつもより熱い。これだけの温度ならだるくてしょうがないだろう。浅い呼吸がそれを物語っている。
私はエルさんの体を撫でてまわった。
何かできることは無いだろうか。
まさかこれが原因でお別れになっちゃうの。
こんな事なら薬草の研究とかしておけばよかった。
後悔している場合じゃない。
でも何をやったらいい。
そんな自問自答を延々と繰り返しながら、しっぽのあたりを撫でている時だった。
「あれ」
私はエルさんの後ろ足に違和感を覚え、そこに吸い込まれるようにして近づいていく。エルさんの右後ろ足が、太い気がする。いや、絶対に太い。
「え、嘘でしょ」
私は震える手を抑え、触診する。いつもは皮膚がたるみがちな場所だが、むしろ張りがあった。心なしか赤くなっていて、そしてそこは体温より遥かに熱くなっていた。
「そんな」
歩行不安定、急な発熱、活気と食欲の低下。そしてこの熱間ある腫れ。
もう間違いようが無かった。
「
私は蹴り飛ばした小鍋のことなど気にもとめず、アッテリアの元まで走った。
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