隣人愛①
汝の隣人を愛せ。
悪くない。そう言うのなら、やってみようじゃないか。
ルシフェルはその日、ひとつの覚悟を決めていた。
どうせ、外から何を言われても、ちっとも聞く耳持たないのだ。なら、自分もそのゲームのひとりのキャラクターになって、中から言うのが有効なやり方というものだろう。なにもミカエルに言われたからというわけではない。そうルシフェルは自分に言い訳をして、休憩室に何台か並ぶパソコンの前に立った。
こんなもの、まるで触ったことがない。
おそらくこのマウスとかいうものと、文字がでたらめに並んだキーボードというのを使って操作すると言うのは分かるのだが、それがどうしてどうなって、この四角い機械に指令を与えるかというのがさっぱり理解できない。
モニターには、いくつかのアイコンと、スタートバーが表示されている。
ルシフェルには、この一般的なインターフェイスもまるで見慣れないものである。
あの下のほうにある線は、一体何のスタートラインなのだろうか。誰が走ってくるのだろう。どうして、画面の中にゴミ箱が置いてあるのだろうか。誰かがこの中にゴミを捨てていくのだろうか。一体それはどういうことなのだろうか。
こんな得体の知れないもの、私なんぞがうっかり触って、修復できないくらいに壊してしまわないだろうか。爆発したりしないだろうか。
こわごわしながらマウスに触れると、画面の中央で小さな矢印が動いた。どうやら、この矢印を動かして様々な命令をあたえるものなのではないか?
ルシフェルは、その直感的な閃きを信じることにした。とりあえずは、あのスタートラインにたたなければ、おそらく何も始まらないのだろう。そう思って、矢印を下のほうへと動かした。
ルシフェルは必死にマウスを下げていくのだが、矢印は上の方をさまようばかりだ。
一方でマウスは机の端まで到達してしまっている。それに気づかないルシフェルは、さらに引っ張って、おまけに手を滑らしてマウスを下へ落っことした。
ぎゃあ!
叫びたい気分だった。机の端からコードにぶら下がって、裏側から赤い光をぴかぴかさせながらマウスが宙ぶらりんになっている。
ルシフェルは涙目になりながら、ぶら下がっているマウスをつかんだ。こんな機械など触ったこともない。せいみつきかいと言うものは、強い衝撃を与えてはいけないのではなかったか。今のでどうしようもないくらい壊れてしまったのではないだろうか。爆発してしまわないだろうか。
ルシフェルは不安げにマウスを上から下からのぞき見た。さいわい、特に壊れた様子も無く、無事なようだ。
しかしほっとしたルシフェルが再度、台の上で動かしても、やはり矢印はうまく言うことをきかない。むしろ、ルシフェルの動かそうとする逆の方へと向かってしまうような気さえする。
こんなもの、やはり、私には向かないのだ。
ルシフェルがため息をついていると、後ろからかかる声があった。
「あれ、天使長がパソコンを使ってるなんて珍しいですね」
後ろからのぞき込んでいたのは、下級天使のひとりだった。小さな羽根を動かしながら、嬉しそうに笑っている。たしか、名前はマスティマと言ったはずだ。
「よかったらお手伝いしましょうか。何がやりたいんです?」
心遣いはありがたくあったが、さすがに上級天使である手前、職務中に「ゲームがしたい」などと言うわけにもいかなかった。
「いや、別に何がしたいと言うわけでも……。私も立場上、使えるようになっておくに越したことはないと思ってな。……しかしあれだな、パソコンというものはずいぶん面倒な作りになっているな。この矢印を動かすのも一苦労だよ」
「ええ? そうですか?」
「ああ。ほら、全然言うことをきかん」
「あれえ? おっかしいなあ」
その不思議な動きに、マスティマは首をかしげた。
「お、おかしいのか」
どうもおかしいと思ったら、やはりそうだったのだ。これは壊れているに違いないのだ。
ルシフェルは、自分で気づかないうちに、何かマズいことをしでかして、そのせいで壊れてしまったのではないかと考えた。もう駄目だ。爆発するに違いない。
何をしただろうか。いや、何もしていないはずだ。触った時からそもそもおかしかったのだ。と言うことは、ここに座った時点ですでに壊れていたはずだ。壊した誰かが、マズいと思って逃げたに違いないのだ。そう、私が壊したんじゃない、私が悪いわけではないのだぞ、とルシフェルは心のなかでつぶやいた。
すると、のぞきこんでいたマスティマがぷっと吹き出した。
「天使長、違いますよ。それ、逆じゃないですか」
「逆?」
マスティマはルシフェルの右手の中にあるマウスをさした。
「これで正しいのではないのか? だって……
「天使長、意外とかわいいこと言うんですね」
ルシフェルは周りの天使たちを見回し、それがみんなおしりを頭にしているのに気が付いて、ばつが悪そうにちいさくなった。
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