第91話 ハンナ
雑貨商の次女として生まれた私ハンナは、十才になると男爵家へ奉公に出されました。
仕事は辛かったけれど、きちんと食事ができ、ベッドに寝られます。私はそれだけで幸せでした。
それに男爵家の長男ケロベス様は、平民である私にいつも優しくしてくださいました。
昨年、お父上である男爵様が、クーデター未遂の罪で投獄されると、いつも快活だったケロベス様が、もの思いにふけられるようになりました。
周囲が羨むほど仲が良かったフィアンセが他の方へ
ただただ、心から若様のお幸せを祈っていた私は、どうしていいか分からず、いつも落ちつきませんでした。
ケロベス様が反政府軍に参加されることになり、若様から強く反対されたにもかかわらず、私は森の中にある駐屯地までついてきました。
その若様は、昨日見張りのお仕事から帰ってきてから、ご様子が変でした。
まるで別人になられたようなのです。
せめてもの救いは、いつもお顔に漂わせていた、暗い表情が消えたことです。
◇
「えー、みなさん、ちょっと聞いてください」
広場に集まった貴族の方々に向け、将軍様が話されている途中、ケロベス様がいきなり大きな声で割りこみました。
若様があんなことをするなんて!
いったいどうしたことかしら!?
「ケロベス様!」
思わず上げた私の叫び声は、みなさんが大声で何か話されるので、若様のところまで届いたとは思えません。
そのうち、何人かの方が、若様へ魔法杖を向けたのです。
「危ないっ!」
私は思わず、若様の前に飛びだしました。
できるなら最後に一度だけ、昔のように頭を撫でてほしかった。
しかし、目を閉じた私がいくら待っても、飛んでくる魔術に、この身が燃やされる痛みが訪れません。
そっと目を開けると、つい今しがたまで人で溢れていた広場は、人気が無くガランとしていました。
自分が見ているものが信じられなくて、頬をつねってみました。
そういえば、台車に載った、とても大きな魔道具二つも消えています。
地面にたくさん散らばっているのは、剣や魔法杖かしら。
肩を叩かれ振りかえると、そこには、昔のように優しい微笑を湛えたケロベス様がいました。
「若様っ!」
最近、口に出して使わなくなったその呼び方が思わず出て、子供に戻った私は彼に抱きつきました。
「ああ、すまない。
ちょっと待ってね」
ケロベス様がそう言うと、そのお身体がぼんやり光りました。
光が収まると、そこには見も知らぬ全裸の青年が立っているではないですか!
「きゃーっ!」
悲鳴を上げ、自分の顔を両手で覆いました。
「あ、ごめんごめん、そういえば、こうなっちゃうんだった」
がさごそ音がして、見知らぬ青年は服を着ているようでした。
「もう、目を開けてもいいよ。
服を着たから」
そう言われ、ゆっくり目を開けます。
そこには、頭に茶色の布を巻いた、ぼうっとした顔の青年が立っていました。
くすんだ黄色の服は、冒険者が着るもののようです。
「俺はシロー。
君の大事な人、ケロベスさんは無事だよ」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ、今は王都にいる」
えっ、ここから王都まで、かなり離れていますが……。
「ここに来てもらおうかな」
そう言うと、彼は右手の指をパチリと鳴らしました。
いきなり目の前に現れたのは、間違いなくケロベス様でした。
なぜかその手と足には、鎖つきの枷がはめられていました。
囚人が着る、太い縞模様の服を着ています。
「こ、ここはどこだ?
あっ、ハ、ハンナ!
どうしたんだ?」
青年が再び指を鳴らすと、彼の横に白い魔獣を抱いた、美しい娘が現われました。
「シロー、連絡が無いから心配しました」
娘が青年に話しかけます。
「ルル、ごめん。
今日はちょっと取りこんでたんだ。
ええと、こちらケロベスさん、こちらハンナさん」
「こんにちは、ルルです」
娘さんは、ケロベス様の囚人姿が全く気にならないようです。
「二人とも、大変だったね。
これからどうしたい?」
シローという名の青年が、ケロベス様と私に尋ねます。
「わ、私は罪を償わないと……」
ケロベス様の声はとても暗いものでした。
「へえ、罪ねえ。
で、君がやったことってなに?」
「ティーヤム王家を倒そうと――」
ケロベス様の声は、のんびりした声にさえぎられました。
「証拠があるの?」
「それは魔道兵器で――」
「どこに魔道兵器が?」
シロー青年は、がらんとした広場を指さします。
広場に散らばっていた、剣や魔法杖は、いつの間にか消えていました。
「……」
「君たち二人が新しい人生を歩みたいなら、俺はそれを手助けすることができる。
それとも、あんた、ありもしない罪を被って、この女性を不幸にしたいのか?」
「しかし、私は――」
戸惑うケロベス様の声に、私のハッキリした声が重なりました。
「ケロベス様、
ずっと心の底に隠していた気持ちが、思わず溢れだしてしまいました。
「ハンナ……」
「どうやら、決まったようだね」
そう言ったシローさんは、ルルさんと並んで微笑んでいます。
「私に君を幸せにする資格があるだろうか?」
「もちろんでございます、ケロベス様。
お側にいられるだけで、私は幸せです」
えっ?
ケロベス様が、私を抱いてくれてる!?
小さな頃の思い出が、次々と浮かんできます。
「ハンナ、ボクについてきてくれるかい?」
それは、幼い頃、若様が私に言った言葉と重なりました。
「ええ、ええ……」
ケロベス様の熱い胸に抱かれた私は、もう死んでもいいと思いました。
「死んだら、元も子もありませんよ」
私の心を覗いていたかのように、シローさんは、そう言って私の肩をポンと叩きました。
それから私たちは、幻のように現れたテーブルに着き、これからの事を話しあいました。
ルルさんがいれてくれたお茶は、懐かしい味と香りがします。
「じゃあ二人とも、他の世界で生きるより、この世界で生きるのを選ぶんだね?」
シローさんの問いかけに、さっぱりした顔つきのケロベス様が答えます。
「ええ、たとえ困難がふりかかっても、そうしたいと思います」
私も頷きました。
「さて、それじゃあ、この世界で生きていくために、ちょっと工夫してみるかな」
シローさんはそういうと、ケロベス様の顔に手を近づけました。
若様の整ったお顔が光ると、見たことがない農夫風の顔になりました。
「こ、この顔は!?
いったい、どうなってる……」
シローさんから渡された鏡で、自分の顔を見たケロベス様が驚いています。
「声は、そのままにしておいたから」
シローさんの手が私の顔に近づきます。
視界が光に包まれたと思うと、すぐにそれが消えました。
「あっ、母さんの……」
ルルさんが、そんなことを言いました。
渡された手鏡で見ると、そこには凄い美人が映っていました。
「え?
これ、誰です?」
「ハンナさん、気に入らなかったら、別の顔にするけど?」
私が驚きの声を上げると、シローさんがそんなことを言いました。
「キレイだよ、ハンナ」
ケロベス様にそう言われるためなら、私は命さえ投げだしたでしょう。
まさか、本当にそんな言葉を聞くことになるとは……まるで夢のようです。
丸い顔と低い鼻、どう見ても美しくない自分の顔に、ずっと劣等感を抱いてきましたから。
「シローさん、どうお礼を言っていいか……」
私の肩を抱いたケロベス様がそんなことを言っています。
それに対するシローさんの言葉は、意外なものでした。
「お礼はいいですから、知人の所で働いてもらえますか?」
「ええ、それはいいですが、どんな仕事でしょう?」
「友人の薬師が、人手が足りなくて困っています。
これから、薬以外のものも売りだしますから、どうか手伝ってもらえませんか?」
「そんなことならお安い御用です」
「じゃ、君たちの偽名だけど――」
シローさんが何か言いかけましたが、ルルさんが彼の袖を強く引っぱると、黙ってしまいました。
「お二人とも、新しい名前は自分でつけてくださいね」
ルルさんは、そう言うと天使のような笑みを浮かべました。
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