綾辻行人さんに読んでいただきたかった……

 この年の春から、僕は再び働くことになった。


 地元の観光施設の人が足りないので来てくれないか、と母親を通じて誘いがあった。僕の精神状態も考慮して、具合が悪ければ早退してもいいとのこと。


 それなら、断る理由はなかった。


 僕はアルバイトという形で仕事に復帰した。


 電撃小説大賞にも出せたし、しばらくは仕事に集中すればいいだろう。


 そう思っていたのだ。


 しかし、ネットで新人賞の情報を集めている時、目にした。


 日本ミステリー文学大賞新人賞。


 選考委員に綾辻行人さんがいる。


 創作において綾辻作品からは多大な影響を受けている。『水車館の殺人』『人形館の殺人』『Another』この三つは絶対に外せない。


 ミステリ……挑戦してみようか。


 元はといえば、江戸川乱歩賞を狙うところからスタートしているのだ。ミステリの新人賞を狙うのは原点回帰とも言える。


 ちょうど、やりたいネタもあった。


 津原泰水さんの『バレエ・メカニック』というSFを読んで思いついた話だ。


 空想癖のある人間が死んだあと、街がその人の思い描いていた世界で塗りつぶされてしまうというストーリー。


 これを特殊設定ミステリとして書こう。そう決めた。


 空想世界の名前は、携帯にメモしてあった「ウォルガネット」という言葉を使うことにした。


 流れでタイトルが先に決まった。「ウォルガネット郷愁症」である。これはそれほど悪くないタイトルのはずだ。苦戦していたタイトルがすんなり決まり、滑り出しはよかった。


 気がかりなことがあるとしたら、締め切りが二週間後というところだ。


 5月10日締め切り。


 しかも、職場のゴールデンウィーク連勤が挟まっている。


 やれるか?――やってみよう。


 登場人物設定を一日で作って、一気に書き始めた。幸い、テンションの波は邪魔してこなかった。ストーリーはどんどん進んだ。仕事から帰ってきたあともひたすら書いた。書きまくった。


 そして、締め切り前日の9日に完結した。


 喜びも達成感もなかった。


 規定枚数は、400字詰め原稿用紙換算で350枚以上。


 原稿の書式を20×20に設定してみたら――270枚。


 全然足りない!


 だが諦めたくはなかった。


 僕は枚数を増やしにかかった。エピソードを増やし、会話を増やし、またも文章を長ったらしく引っ張ってみたり――。


 徹夜して、さらに翌日の夕方までずっとPCに張りついていた。


 薄暗くなってきた頃、僕は燃え尽きた。


 枚数は330枚で止まっていた。


 もう、どうやってもこれ以上は増やせなかった。


 僕は布団に入って爆睡した。


 締め切りが過ぎていく。


 なんとか最終選考に残って、綾辻行人さんに読んでいただきたい。


 その、勝負の土俵にすら上がれずに力尽きたのである。

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