第四章 鍋島のどか 9

 どれほど落ち込んでいてもちゃんと朝は来るらしい。

 転んだ膝小僧の血はちゃんと止まっていてけれどシャワーを浴びたらすぐに血が滲んできたので、でかめの絆創膏を貼ってごまかしておく。

 真美子は今日も帰っていない。冷蔵庫のホワイトボードも真っ白のまま。その代わり真美子からLINEが入っている。

『ごめんね。今日も帰れそうにないの。ちゃんとご飯食べて戸締りをして学校に行ってね。宿題をちゃんとして、火の扱いには気をつけること』

 はいはい。

 でも、真美子のいない夜も朝も火を使う気にはなれなくて、ポットのお湯を入れて三分待つだけのラーメンとトースターでチンしただけのトーストで育ちざかりの胃を満たす。

 俺がいくら落ち込んでいようとそんなこと世間には関係なくて、テレビの中で輪廻転生を語る円城寺小百合は元気そうだ。

『……人は誰もが使命を持って産まれてきます。幸せになること、誰かを幸せにすること、誰かに希望を与えること、誰かと出会うこと……それらは全て前世から齎された業なのです……』

 なんて話し続ける円城寺小百合は首と顎の境目がわからないくらい太っていて、ネックレス一つつけるのも大変そうだ。犬の首輪みたいになっている。寝不足の俺と比べて、びっくりするほど血色がいい。普段一体何食ってるんだろうな、ほんと。じゃりじゃりと下の上に広がる炭の味を牛乳で流し込む俺の耳は今日の星座占いの結果を完全に聞き流す。あれ、今日の山羊座は何位だったっけ? わからない。けれど最下位ではないらしいからまぁいい。

 そんなことよりも気になっているのは切れた靴紐の存在であり、結局替えの靴紐はどこを探してもなかったので、予備のスニーカーを履いていくことに決める。八月の終わりに買った、まだ殆ど履いていない新品同様と言っていいくらい綺麗なものだ。珍しく真美子と買い物に出かけ、「あんたはすぐに靴を駄目にするから」というから買ってきた。その時は「そんなに駄目にしないよ」と言い返したものなのだけれど、本当、母親の勘というものには頭が下がる。

 履きなれない靴の違和感と戦いながら学校へ到着する。昇降口ではライトはすでに上履きに履き替えていて、ふとした瞬間に俺を目が合う。ライトは何かを言いたげな表情をして、それから眉をつい、と吊り上げ、無言でその場から去っていった。置いてけぼりを食った俺は暫し空白の時を過ごす。そんな俺に声をかけたのは、後ろからやってきた藤崎青児だった。

「おはよう」

 なんて抑揚のない声で藤崎が言うものだから、俺は少し戸惑う。藤崎と朝の挨拶をするのは始めてた。藤崎が下駄箱にスニーカーをしまうところを伺いながら、

「おはよう」

 と俺も言う。

 藤崎は少しばかり乱暴気味に上履きを簀子に放り投げると、

「清水と喧嘩したんだってな」

 と聞いてくる。無言の俺。藤崎は背中越しに俺を見ると、

「早く仲直りしろよ。お前らが仲悪いと調子狂う」

 と言った。なんで俺達が喧嘩をしているとお前の調子が狂うのか。

「お前には関係ないだろ」

 俺の言葉に、藤崎は涼し気な瞳を俺に向けた。

「まぁ、そうだな」

 そうだよ。


 俺とライトが喧嘩したということは藤崎だけではなく、色々なやつらに知られているらしい。というか実際に聞かれた。

 ブー子とベリ子には

「テルル、清水と喧嘩したん?」

「早く仲直りしたほうがいいよー。喧嘩って長引けば長引くほど謝れなくなるよー」

 なぜお前らに心配されなければいけないのか。

 桑原は桑原で

「なぁ辰巳。お前、清水と喧嘩したんだろ? 理由は知らないけどさー、やめたほうがいいってそういうの」

 なんて教室でサッカーボールを蹴るものだから、それがそのまま廊下に飛び出て通り掛かりの大槻先生に見られてこっぴどく怒られていた。本当、教室でサッカーってやめたほうがいいよな。

 いくら喧嘩をしているといっても俺とライトの席は前後なので、プリントを回す等々接しなければならない部分もあるのだけれど、やはりそこもスキンシップや会話のなさがクラスメイトの目について、昼前にはクラス中の知られることとなった。決定的になったのは給食の時だ。いつもは俺と二人で食うのに、廊下側の一番後ろにいるはずのライトが窓際席の桑原のところに行ったから。見せつけかと思うくらいあからさまな態度に、俺は思う。俺のせいだ。俺のせいだから仕方がないのだこのことは。だから、桑原が同情の目で俺を見てきても仕方がないのだ。

 一人寂しくパックの牛乳を飲む俺のところに、ココアがやってくる。

「テル君、ライトくんと喧嘩したって本当?」

 ココアはいつも、ベリ子達と給食を食べている。多分あいつらからも話を聞いたのだ、まったく余計なことをするんじゃないよ馬鹿女子コンビめ。

 俺はちゅーちゅーと牛乳を飲みながら、

「そんな大したことじゃないよ」

 と言う。しかしココアは心配そうだ。居心地悪そうに胸元のスカーフをいじくると

「あ、あのね。早く仲直りしてね? 私、二人が仲良くしてるの好きだから」

 と言って去っていった。

 俺は窓際で、桑原達と給食を食べているライトに目を向ける。

 俺にはライトの背中しか見ることができなかった。


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