第三章 津島花野 4

鍋島浩之≫は昔からやんちゃで悪戯好きで、のどかが生まれる前一人っ子だった当時は散々悪戯をして父さんと母さんを困らせた。障子に穴を開けるなんて朝飯前、塀の落書き父さんの鞄に玩具を入れる母さんのぱんつを木の棒に吊るして旗代わりに走り回る等々ありとあらゆる悪戯を繰り返し町内きっての悪ガキとしての立ち位置を完璧に確立していた。なんであんたはそんなことばかりするの。どうして言うことが聞けないの。母さんは日々俺を怒り説教し時としてケツを叩き頭を殴られていたのだけれど、母さんの怒りなど大したことはない。真に怖いのは父さんだった。父さんは身長が180センチあって学生時代はアメフトの選手として全国大会にまで上り詰めた男だ。父さんは怒ると無言でまだたった幼稚園かそこらであった俺の首根っこを猫のようにひょいと掴み、ぽーんとまるでボールをゴールに入れるかのように仏間の押し入れに放り込んだ。俺は仏間が嫌いだった。まず雰囲気がよくない。そして匂い。茶色の古びた仏壇。部屋中に飾られた白黒の遺影。名前も知らないご先祖様が、まだ生きて呼吸をしている俺のことをじっと見ている。いつか、その目がぎょろりと動いて手がにょろりと額縁から伸びて俺の手や足や髪の毛を掴み、俺のことを写真の奥の奥にあるとんでもない世界に連れて行ってしまうのではないかと気が気でなかった。その、ただでさえ恐ろしい仏間の押し入れ、俺は泣いた。線香の匂いと生気のない仏壇の雰囲気と押し入れの暗闇に包まれて、泣いて泣いて泣きまくった。決して開くことのない押し入れの扉をガンガンガンガン叩きながら泣いて謝罪し、懇願し、許しを請うた。ごめんなさい、もうしません。だからここから出してください。気が狂いそうだった。今ここにある暗闇の奥の奥の奥から名前も知らない顔の白いご先祖様とか真っ黒い手とか真っ赤な目の髪の長い女だとかそんなこの世にいてはいけない存在達が現れて俺のことを引きずり込んでしまうのではないか。それはリアルな想像だった。自分が自分ではなくなるのではないかという恐怖。決して逃げ場のない暗闇。両親から完全に捨てられてしまったという孤独感。幼い俺を殺すためには充分すぎる威力を持っていた。声が擦れて涙も枯れ果ててしまったというくらい、現実世界への扉は開かれた。光と共に現れた父さんは天使だし神様だし救世主ですらあった。仏間の押し入れに閉じ込められるたび、俺は自分が生きていることを確認し生かしてもらっていることを感謝し、自分が自分でいられるということを実感したのだ。

 なぜ今更そんな三十年以上前のことを思い出しているのかと言うと、俺が今置かれている場所が、その、当時の鍋島家の仏間の押し入れを彷彿させるほど暗かったからだ。

 俺はじゃりじゃりとしたコンクリートらしき地べたにくの字で転がされたまま呟いた。

「……どこだここ」

 暗い。ただひたすらに暗い。一センチ先も見えないくらいに暗い。目を開いているはずなのにもしかして閉じたままなんじゃないかと勘違いしてしまうくらい暗い。そして暑い。じっとりと熱が籠り、このまま蒸し焼きになるんじゃないかというくらいに暑い。

「……わからないわ」

 俺の独り言みたいな呟きに誰かが答える。女だ。落ち着きのある、頭の良さそうな声の、女。

 俺は地べたに頬をつけたままぼんやりと瞬きをして、それからじりじりと体を動かす。頭が痛い。どうやら血は出ていないようが、殴られたところがぷっくりたんこぶになっている。両手足が動く。拘束はされていないらしい。上半身だけ起き上らせると、何かにぶつかる。長方形の、あまり大きくない、箱のようなものだ。

「あまり動かない方がいいわ。どこになにがあるかわからないから」 

 俺はその声の方向をじーっと眺めて、声の主を探る。そして一人の人物が思い当たり、呼ぶ。

「……津島花野?」

 暗闇の中、津島花野が頷いたことが空気の擦れる音でわかる。

 俺はその場で胡坐を組み、津島花野に問いかけた。

「お前、誘拐されたのか」

「ええ。あなたも一緒に」

 周囲が全く見えないので津島花野が今どんな顔をしているのかどんな格好をしているのかわからないが、とにかく声だけで上機嫌ではないことだけはわかる。全く、ココアという津島花野といい、最近の女は誘拐癖がありすぎる。ピーチ姫だってこんな頻繁に誘拐なんかされてない。

「なんで誘拐なんかされてるんだよ」

 という俺の八つ当たりに、津島花野もまた攻撃的に答えてくる。

「知らないわ。こっちが聞きたいくらい」

 だろうな。好きで誘拐される奴なんかいない。

 それにしても暗い。本格的に何も見えない。窓がないのか、光の一滴見つからない。朝か夜かもわからない。暫くの間きょろきょろ暗闇の中見渡すのだけれど、一向に何も見えやしない。

「電気はつかないのか」

 どこにいるのかわからない津島花野の諦めたような声だけ聞こえてくる。

「無理よ、蛍光灯割れているもの」

 マジかよ。

 暗闇の中胡坐をかいて頭を抱える。

 やたら暗い。この世の中にこんなとんでもない暗闇があるのかってくらいに暗い。大昔、押し入れに閉じ込められた恐怖を思い出してしまう程度には。

 俺はなんとなく落ち着かなくて、ポケットの中を探る。

 今俺が持っているもの。塩タブレット。茶畑光太郎。五百円玉が一枚。これだけ。財布もスマホも斜め掛けショルダーに入れて映画館の座席に置いてきた。

「お前、持ち物は?」

 俺の問いかけに、暗闇の中の津島花野が不機嫌そうな声で答える。

「何もないわ。手ぶらよ」

「手ぶら? ハンカチの一枚もないのか」

「このワンピース、ポケットついてないの」

 役に立たない女優だな。

 俺は茶畑光太郎を取り出し、頭を押す。緑色に輝きながらカタカタカタと笑う光太郎くんはやっぱり不気味だ。ボリュームを最小にしても、完全にオフにはならないらしい。最大でもうるさいけれど、最小でも薄気味悪い。けど、それでも今はヒーローみたいに思える。薄暗く照らされる狭い部屋。俺の斜め前にいたらしい津島花野が呆気に取られた表情をしている。俺は、光太郎くんのカタカタカタカタという薄気味悪い笑い声をBGMに辺りを見回した。狭い部屋だ。けれど鍋島家の仏間の押し入れより全然広い。壁も床もコンクリートでできていて、細い鉄のパイプだとかベルトコンベアとかホースだとか螺子や蝶番が玩具みたいに押し込められた箱が転がっている。黄ばんだホワイトボードにこう書かれている。『立野食品工場 〇月×日閉鎖』

「……駄目だな。どうすんだよ、これ」

 倉庫らしきこの部屋には窓などなくて、出入り口も一つしかない。ドアノブには埃が積もり、部屋の四隅には蜘蛛の巣が綺麗に張っている。虫達が壁を縦横無尽に彷徨って、ガサゴソと言う音に振り替えると、ネズミが箱に入って遊んでいた。壊れた蛍光灯なんてメリーゴーランドみたいなものだ。

 花野は光の消えた光太郎くんの頭を押すと、

「どうしようもないわ。窓もないし入り口もそこしかないもの」

「見張りは?」

「さぁ。さっき、あなたが寝ているときに一度様子を見に来たけど」

 ドアを思い切り蹴りつけると、向こう側から「うるせぇ!」という怒声が響いてくる。どうやら一人いるらしい。

「犯人は何人なんだよ」

「三人」

「その中にさ」

「ええ」

「お前のマネージャーもいたよな」

「……そうね」

 光太郎くんを間に挟み、俺と花野は距離を置いて座る。花野は光太郎くんが気に入ったのかそれとも暗闇が嫌なのか単なる暇つぶしなのか、光が消えるたびに光太郎くんの頭を押してカタカタカタと笑わせている。無言の俺達。狭いこの空間に広がる、光太郎くんの笑い声。緑色の光。不気味だ。嫌すぎる。なんで俺はこの狭くて暗い空間で津島花野なんかと光太郎くんを眺めていなければならないのか。空気が悪い。雰囲気だって最悪すぎる。しかも暑い。蒸している。何度も何度も額の汗を拭う俺と対照的に、津島花野はまるで冷蔵庫の中にでもいるみたいだ。汗をかかず、顔色一つ変えず、無言で光太郎くんを光らせては眺めている。これが女優か。これが芸能人というものなのか。俺なんてTシャツべたべたなのに。その涼し気な津島花野の顔を見ていて、俺は一つの可能性に行きついた。ポケットの中を探り、取り出す。

「おい」

 俺の乱暴な呼びかけに、津島花野が顔を上げる。

「何?」

「手、出せよ」

 怪訝な顔で差し出された津島花野の掌に塩タブレットを乗せる。適量とかわからないけれど、二、三粒もあれば大丈夫だろう。

「……何これ」

「塩タブレット。熱中症にでもなられたら困るだろ」

「……水がないじゃない」

「ああ」

「これって多分水分と一緒に摂らないと意味がないんじゃないかしら」

「うるせーな。ないよりマシだろ」

 ごちゃごちゃうるさい津島花野に言い返して、塩タブレットを口の中に放り込んだ。本当にこの芸能人様は理屈っぽくて困る。津島花野は暫し疑うような顔をしていたのだが、俺の言うことに納得したのか単純に腹が減っていたのか大人しくそれを舐めだした。

「……変な気分ね」

 くちゃくちゃと塩タブレットを舐める音が響く中、津島花野が呟く。

「あなたとなんか二度と会わないって思ってたのに」

 それは俺だって同じだ。あの時、あのタイミングでトイレなんかに立たなければ、あの場所を通らなければ、野次馬根性なんか出さなければ、俺はこんなところにいなかった。

「……そうね……本当は、こんなことなんかになるはずじゃなかったのにね……」

 津島花野の綺麗に塗られた爪の先が光太郎くんの頭を突く。その都度、光太郎くんが光り、音を立てて笑い、津島花野の尖った顎先を照らした。

 俺は額の汗を拭い、掌で顔を仰ぐ。大した風なんて起こらないけれど、せいぜいないよりまし、って程度だ。

「ねぇ、あなた」

「あ?」

「……前世の記憶があるって。本当?」

 光太郎くんを見つめたままの津島花野の問いかけに、俺はぶっきらぼうに答えた。

「あるって言っても疑うんだろう」

「そうね。普通は信じないわね」

「ボールペンを渡して帰らせるくらいだもんな」

「この業界にはそういう人が多いの。前世とか占いとか、そういうものをちらつかせれば釣れると思っているから」

「平介のことか?」

「平介、って、ジャックのこと?」

「ジャック、って平介のことか?」

「あなたこそ。ジャックのことを平介、なんて呼ぶ人初めてよ」

 津島花野の笑みは綺麗だった。暗闇の中、光太郎くんの緑色の気味の悪い光に照らされていても美しいと思える程度の輝きを持っていた。

「……みんな未来のことを知りたいの。成功するか、失敗するか、どう振舞えばいいのか自分の振舞い方があっているのか、誰とどう付き合っていけばいいのか……どうせみんな、死んじゃうのにね」

 カタカタと笑い声をあげていた光太郎くんが静かになり、光が消えた。訪れた沈黙は一瞬だったが、永遠とも呼べるようなものだった。その、いつまでもいつまでも続いてしまいそうな静寂を、津島花野が切る。

「ねぇ」

「あ?」

「あなたは、どうして死んだの?」

 どうして死んだの?

 あまりにもストレートで、失礼な質問だった。けれどこれは、津島花野が俺のことを認めた証明でもあった。光太郎くんは無言で地べたに転がったまま。暗闇の中、俺は少し考えて、答えた。

「事故死」

「事故死?」

 特に驚いた様子もなく、津島花野が言う。

「信号無視でもしたの?」

「違う」

 俺は居心地の悪さを振り払うために体勢を変える。

「恋人を待ってた。クリスマスに、一緒に過ごそうと思って。でも」

「でも?」

「こなかったんだ。そしたら、トラックに撥ねられた」

「クリスマスデートにすっぽかされた末に死んだの? 可哀そうね」

「うるせぇ」

「それで未練たらたら忘れられないまま生まれてきちゃったってこと? 悲惨ね」

 顔は見えなくとも口調だけで面白がっていることがわかる。全く、本当に嫌な女だ。

「黙れよ。お前の方こそどうなんだよ」

 喧嘩腰の俺の問いかけ。津島花野はつい、と光太郎くんの頭を押した。光太郎くんがカタカタカタカタ不気味な笑い声をあげる。

「……自殺したのよ」

「は?」

「自分で自分の手首を切ったの。こうやってね」

 つい、と右手で左の手首をなぞる津島花野。絶句する俺。

「≪私≫の母親はだらしない人でね。色んな男の人を相手にする仕事をしていたの。それで産まれたのが≪私≫……気が付いた時にはもう、産む選択しかなかったみたい。よく言われたわ。あんたさえいなければ、って」

 瞬きをするしかない俺のことなど気にもせず、津島花野は淡々と話を続ける。

「夜中、物音がして目を覚ますと、隣の部屋で母親が知らない男と≪仕事≫をしているの。……昔の話よ。今、この時代じゃ、信じられないと思うけど。≪邪魔≫をすると裸にされて、叩かれて、ひどいときは熱湯をかけられたり煙草を押し付けられたり。ほら、ここ。昔はちゃんとあったのよ。夏の大三角形みたいにね」

 右足を指し示めされた右足は細くて綺麗で、生まれたての羽みたいだ。奇跡みたいなその足にじゅうじゅうと煙草の火が押し付けられる様を想像し、俺は体を震わせた。

「やめろよ」

 俺が言うと、津島花野はまた嫌な笑みを浮かべた。

「昔の話よ。夜になると、部屋の隅で壁みたいになって耳を抑えてぶるぶると震えながらずっと思っていたわ。絶対に幸せになってやるって。ここから逃げ出して、絶対絶対幸せになってやる。抱えきれないほどのお金を稼いでやるって……でも、蛙の子は蛙。鳶は鷹を産まないの。所詮、私は蛙だったわ。大人になって、逃げだして、漸く解放されたと思ったら変な男に捕まって……気が付いたら、もう、後戻りできないところまで来ていたわ」

 津島花野が、ぴん、と光太郎くんを指先で弾いた。俯せになった光太郎くんがその振動で光り、笑う。

「みんな幸せで、笑っていて、恋人がいて家族がいて、なのに≪私≫は病気になって、それを治すようなお金もなくて……惨めだったわ。惨めで、悔しくて、悲しくて、どれほど憎んでも、憎み切れないくらいだった」

「……だから死んだのか」

 俺の問いかけに、緑色に照らされた津島花野が妖艶に笑う。

「ええ」

 津島花野はもう、十七歳の女の子には見えなかった。女子高生でも清純派天才女優でもなかった。だからといって、それ以外の何者にも見えなかったのだけれど。

「今でもよく覚えているの……窓から沢山の桜が見えて、それがとても素敵で、綺麗で……≪私≫のガリガリの、貧相で、みすぼらしい手や、足や、体なんかとは全然違う。傷のひとつもない、何の穢れもないその景色を眺めながら、思ったの。もし、生まれ変わったらって。もし、本当に神様がいて、来世があって、生まれ変わることができたならって」

 そこで津島花野が顔を上げる。蜘蛛の巣が張られた壁の四隅を、その遥か向こうにあるであろう何かを見つめ、続けた。

「……≪私≫は幸せよ。かつて望んだものがすべて手に入る。人が羨むような容姿、頭脳、才能、それが生かせる環境と仕事。ギフテッドだと思ったわ。≪私≫は今世で成功すべく生まれてきたの」

 ギフテッド。来世。神様。転生。馬鹿みたいな話であると俺は思う。そんな、『ring of fate運命の輪』を読んでいるような人間しか信じないような話が、この、清純派天才女優と噂される津島花野の口からされている。くだらない。子供じみた妄想か、一昔前の小説のようでもある。けれどこれは真実だ。≪俺≫の魂が、第六感が、≪津島花野≫の話は全て事実であると感じているのだ。

「だから女優になったのか」

 昔から天才子役と持て囃されてきた津島花野。高校生とは思えぬ落ち着いた物腰で、大人顔負けの頭脳をフル活用し、デビューしてからずっと芸能界の最前線に立っている。

「それはたまたま。≪お母さん≫がちょっと目立ちたがり屋の人だったの。よくある親馬鹿で芸能事務所に写真を送ったら運よく通過したってわけ」

「それが“love again”?」

「よく知ってるわね」

 知っているに決まっている。『love again』と言えば津島花野のデビュー作であり、有名俳優が主演を務めた有名映画だ。毎年毎年春になると放送されるし、最近の津島花野ブームに乗って当時のお宝映像も流されている。

「私が五歳の時の作品って言ってるでしょう?」

「らしいな」

「あれ、嘘なの」

「は?」

「本当は三歳。三歳と少しってところ」

 俺は眉を顰める。

「なんでそんなサバ読んでるんだよ」

「演技がうますぎるから」

「自慢か?」

「違うわ」

 津島花野が、ひょい、と肩を竦めた。

「三歳の誕生日に昔のことを思い出したの。昔の母親とか、住んでいたところとか、そういうこと全部。不思議だと思わない? それまでのことなんて何も覚えてないのに、ある日突然、急に全部思い出したの。それまでずっと≪津島花野≫というただの赤ちゃんとして過ごしてたのに、突然昔の記憶が蘇ったってわけ」

 俺は驚く。俺と全く同じじゃないか。

「混乱したわ。体はあんなに小さくて、お箸もまともに持てないのに。でも、いいチャンスだとも感じたわ。自分の能力を最大限に発揮する、いい機会だとね。みんな褒めてくれたわ。すごい、頭がいい、天才だって。当たり前よ。だって私、とっくの昔に成人してるんだもの。大人のふりなんて簡単よ」

 三歳の誕生日。転生。昔の記憶。俺は平介の言葉を思い出す。『君達はとても気が合うと思うのだけれど』

「おい、それ、そのまま平介にも話したのか?」

 俺の疑問に、花野が右手をひらひら動かしながら答えた。

「ええ」

「あいつのことは疑わなかったのか?」

「最初は疑ったわ。でも彼は当てたから」

「何を」

「私の昔の名前」

 俺は透明なミミズが背中を這いずり回ることを感じる。薄気味悪い奴だ平介め。体を捩りそれを振り払い、再度問う。

「なんで話そうと思ったんだ」

 津島花野の横顔は夜の蝶みたいだ。生意気で、口が悪くて、態度は最悪だけれど、綺麗で、華やかで、妖艶で、儚ささえある。軽く睫毛を伏せ、唇だけでふっと笑うと、

「なんでかしら……わからないわ。ただ、ちょっと似てたのかもしれないわ。この部屋と、母と暮らしたアパートが。ふふ、怖くなっちゃったのかもね。もう、何十年も昔のことなのにね」

 俺は罅割れた壁にべったりと背中をつけて目を閉じる。電灯もない真っ暗な真夜中、両耳を抑え目を瞑り、襲い掛かってくる恐怖と必死に戦う女の子。顔もわからないその子が成長し、髪の長い、高校生の女の子になる。俺はもう、暗闇の中光太郎くんの光がなくとも津島花野がどんな表情をしているのかちゃんとわかる。

 その≪津島花野≫の奥にいるもう一人の女の子が≪鍋島浩之≫に問いかける。

「あなたは違うの?」

 違う? 何が違うのか?

「人生に絶望して、今度こそ成功してやるって野望を持って産まれてきたんじゃないの?」

 違う。

鍋島浩之≫は幸せだった。両親がいて、妹がいて、恋人も親友もいた。

「その恋人がこなかったせいで死んだくせに?」

 それは結果論であり、死んだこと自体は清美のせいではない。

「あいつのせいで、とか、あいつが悪い、とか思わないの?」

 考えたこともなかった。

 ぼんやりとした俺の回答に、津島花野がまた馬鹿にする。

「おめでたい人ね」

 うるさい。

 それまで静かだった茶畑光太郎がまたカタカタカタカタと笑い声を立てる。緊張感が全くない、流石ゆるキャラ、KYにもほどがある。ライトそっくりだ。その、緑色に光りながら薄気味悪く笑う光太郎くんを眺めながら考える。あのとき俺は、誰も恨まなかった。清美が、とか、誰かが、とか、そんなことひとつも思わなかった。ただ、痛くて辛くて、この苦しみから一刻も早く解放されたかった。あの時、あの瞬間、≪鍋島浩之の魂≫が≪鍋島浩之の体≫を離れる瞬間、≪俺≫は何を感じていただろう。一体何を切望していたのだろう。父さん。母さん。のどか。清美。健一。痛み。苦しみ。死への恐怖。絶望。

 生きること。

 それは正しく≪生≫への執着だったはずだ。

≪津島花野≫は報われない人生に絶望し、恨み辛みを残して自らの手でこの世を去った。次の人生に微かな望みを託し。そして今、それをバネにして新たな人生を謳歌している。

 しかし俺は違う。俺は誰に対し恨みを持つこともなく、あっけなく事故死をした。前世の記憶を持ったまま新たな人生を歩んでいる俺達の共通点とはなんだろう。わからない。俺達はなぜ出会ったのだろう。俺達はどうして、こんな時にこんな場所で出会うことになったのだろう。

『……人の縁は複雑でね。繋がっては切れて繋がっては切れていく。か弱い糸のようなものさ。一期一会、合縁奇縁、一見偶然のように思えてもすべてがすべて仕組まれたものだ。何の意味もないように見えても何かしらの意味がある……僕と、君が出会ったことも』

 俺はハンバーガー屋での平介言葉を思い出す。一期一会、合縁奇縁。運命とは神様が一見偶然に見せかけて作り上げた必然である。そうだ、考えてみれば全てが全てこいつのせいだ。俺が津島花野と出会ったことも、頭を殴られ気絶させられ挙句の果てには誘拐され、津島花野の後味の悪い昔話を聞いているということも。

 途端、俺は並木平介のことがとんでもなく憎たらしくなる。もし俺がここに閉じ込められて、そのまま水の一滴にも飲めず食事も摂れず熱中症になり餓死してしまう事態になったら、俺はきっと、平介のことを恨みながら死ぬことだろう。そしたら次の人生、生まれ変わった俺は、平介に復讐するために燃える鬼となることだろう。そんな人生ごめんだ。いや、今この人生でも、こんな津島花野なんて暗い過去を背負った女狐と心中なんてまっぴらだ。

 勢いよく立ち上がった俺に、津島花野が驚いたような顔をする。対照的にまだまだ笑い続けている光太郎くん。ムカつく。

 俺は津島花野に問いかける。

「おい、それ、気に入ったのか?」

 津島花野が左右に首を振る。絶対嘘だろう。お前、それ、滅茶苦茶気に入ってるじゃないか。

「ここから出たらやるから待ってろ。ていうか、お前の稼ぎだったらそのキャラのグッズ、いくらでも集められるだろ」

 長い睫毛の下、津島花野がこいつ気でも狂ったのかというような表情で見つめてくる。馬鹿言うな、俺はどこもおかしくない。

 ただちょっと、生への執着が強いだけなんだ。


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