第一章 加藤心愛 5
俺の住んでいるアパートにココアを連れてきたことに下心があるわけではない。
まず、ココアが頑なに家に帰ろうとしなかったから。
「傘貸してあげるから帰れば?」
「嫌」
「なんで」
「なんとなく」
あーそう。
「じゃあ傘貸してあげるから。ばいばい……」
と、さっさと帰ろうとしたところで俺の肩を掴んで引き留めたのはやはりライト。
「お前、女の子置いてくのか」
「置いてくっていうか、帰りたくないって言ってるだろ」
「こんなびしょびしょの女の子、こんなところに置いて行くのか!?」
「だから、本人が帰りたくないって言ってるだろ」
「はぁ、冷たい! お前、そんな薄情な男だったのか!」
「……じゃあお前んち」
「俺んち今日一番上のにーちゃんが奥さんと子供連れて泊りに来てるから無理だよ」
「……」
今日の真美子のシフトは日勤。八時半から十七時まで。でもその後に残業をして飲み会をしてくると言っていたから、夜遅くまで帰ってこない。明日の朝玄関で倒れている可能性もかなりある。
だから、決して下心があるわけではない。いくらライトが、うちの風呂場でシャワーを使う加藤心愛にドキドキしていたとしても。
「……お風呂ありがとう」
真美子の服を貸そうかどうしようか迷って、結局俺のスウェットを貸した。グレイのスウェット。少し大きいようだが、それほど明らかに大きいわけではない。下着については、先にアパート隣のコンビニに寄って選ばせた。俺の部屋にあるドライヤーを使わせている間、「石鹸の香りのする女の子」にドキドキしているライトにシャワーを浴びさせる。ライトは背も体も俺よりずっと大きいけれど、こいつはもう何度も俺の家に泊まりに来ているので、こいつの着替えくらい俺の部屋に置かれているのだ。
ライトがシャワーを浴びている間、俺も気を使い、ココアに声をかけてみる。
「なんであんなところにいたの?」「あそこで何をしようとしてたの?」
しかしココアは答えない。ドライヤーを髪にあて、時折タオルで拭きながらだんまり。俺の言葉など聞こえぬというようにして延々とドライヤーで髪を乾かし続けている。そんなにも自分の髪が大事なのか思春期の女の子は。ていうか、濡れたの自分のせいだろ。と、若干恨みの積もった目でドライヤーに吹かれて揺れるココアの髪を眺めていたら、その横顔にどうも見覚えがある気がしてあれ? と思う。でも俺がそれを考える前に、風呂から出てきたライトが叫ぶ。
「テル! シャンプー切れた!」
切らしたんだろ、アホタレ。
俺がシャワーを浴びて部屋に戻ると、そこにはやはりベッドの上にちょこんと座るココアとガチガチに固まったライトがいて、俺のことを呆れさせる。仕方がないから、台所で飲み物を入れて部屋に戻る。暖かいミルクココアが三つ。軽いジョークのつもりだが、加藤心愛の前に出すと、ひどく渋い顔をされた。
狭苦しい俺の部屋。丸い小さなちゃぶ台の前にライト、学習机の椅子に俺、ベッドにココア。この部屋の中にはこんなに甘い匂いが充満しているのに、空気はとんでもなく重苦しい。
「……あのさぁ。加藤さんは、あそこで何してたのぉ?」
ココアにとっては二度目の質問だが、ライトにとっては一度目の質問。ココアはやっぱりほかほかのミルクココアのマグカップを両手で持ったまま何も言わない。俺のベッドに腰かけて、ぷらぷら足を動かすだけ。俺とライトは暫くココアの発言を待っていたのだが、俺もライトも飽きっぽい上、重苦しい空間は好きじゃない。
俺が自分のミルクココアを飲み切る前に、ライトが俺のプレステ4を取り出してゲームを始める。「DEVIL EATER11」遠い未来、この世に蔓延る悪魔(という名の怪物)達を様々な武器を使用し退治していくアクションゲームだ。DEVILEATERシリーズは俺がかつて≪鍋島浩行≫だった頃から絶大な人気を誇っていて、それから二十年以上経つ現在も年寄りから若者まで着々とファンを増やし続けている。母子家庭で決して贅沢などできるはずのない我が家に二台目の薄型テレビとプレステ4が来たのは去年の年末で、真美子が商店街の福引と会社の忘年会で当ててきた。これに一番喜んだのはライトで、四人の兄姉たちに日々虐げられているライトはゲームソフトを中古で手に入れてはうちに持ち込み遊んでいるのだ。
最初はライトが一人で悪魔を退治していたのだが、悪魔のランクが上がるたびにライトはすぐ死ぬ。驚くほどにあっさり死ぬ。見かねた俺が救済に回るのだが、この敵がなかなか強くて倒せない。
「ここでこのアイテムを使用するべきなんじゃないか?」
「NPCを変えてみよう」
なんて言いながら色々試してみるのだが、これがなかなか難しい。
ココアは飲みかけのマグカップを抱えたままベッドでぷらぷらと足を揺らしていたのだが、ライトの使用キャラクターが五度目の死を迎えライト自身がそのまま後ろにぶっ倒れたとき、漸く彼女は口を開いた。
「その武器じゃ倒せないよ。だってその悪魔、炎属性だもん。氷属性の武器じゃないと倒せないよ」
コントローラーを握ったままの俺と、大の字に寝転がっているライト。突然のココアの発言に、俺達は顔を見合わせた。
加藤心愛はゲームがうまかった。とんでもなく強かった。「DEVIL EATER11」を完全に把握していた。
「剣を使うんだったら破壊属性よりも切断属性のほうが致命傷与えられるよ」
「この敵だったら、こっちのNPCよりもこっちのNPCのほうがいいよ」
「この任務の討伐対象はケルベロス一匹だけだけど、途中で沢山のバベルが出てくるからその時は……」
なんてつらつら解説しながらコントローラーを扱うココアの横顔は美しい。睫毛が長くて目が綺麗でキラキラしている。でも物騒なのはテレビ画面で、彼女の扱うかわいい女性のアバターがごつくて巨大な武器を扱い、凶悪な敵をばったばったとなぎ倒していた。
ライトと俺はコントローラーを握る彼女の両隣から彼女の華麗なゲーム捌きを観戦していて、いくらか感激したような表情のライトが問いかける。
「加藤さん、なんでそんなうまいの?」
ココアは悪魔を切り裂く手を休めることなく視線の動きだけでライトを見ると、
「パパがこのゲーム大好きで、シリーズ1から最新作まで家にあるの。あと、今家で暇だから、こんなことばかりしてる」
へぇ。ココアの父親はゲーマーなのか。俺も昔は、≪鍋島浩之≫だった頃は小遣いを貯めてはソフトを買っていたものだ。
ココアの使うアバターがバッタバッタと敵を薙ぎ倒し、画面いっぱいに浮かんだ「MISSION CLEAR」の赤い文字に俺達は思わず歓声を上げる。何しろ、とても強い敵なのだ。戦闘力が五十三万ある悪魔を倒したのだ。フリーザ様と同じくらいの戦闘力があるのだ。そんな敵を倒したのだから、地球を守ったのと大差はない。加藤心愛は英雄だった。今この瞬間、この部屋の中では。
だから俺達は英雄に最大限の敬意を祓う。
「さー、加藤さんこっち座って! 座布団ふかふかだよ!」
「新しいお菓子お持ちしましたよ!」
なんてお姫様みたいに扱われるココアは、俺達の態度が面白かったらしくそこで漸く笑顔を見せる。笑ったとき少しだけ八重歯が見えてかわいい。瞬間、俺は何かを思い出しそうになるのだがそれがなんなのかわからない。
ライトは相当ココアのことを気になったみたいで、先ほどから頻りに話しかけている。
「加藤さんマジすげーね! 天才じゃんな! 天下獲れるよ!」
獲れねーよ。
しかし誉められてココアも悪い気はしないらしく、ライトの質問にぽつぽつと答えている。他にゲームやってんの? やってるよ。ネトゲもするよ。へー! そうなんだ!
ゲーム談義に花を咲かせ仲を深めるふたりに、俺は暫し置いて行かれた気分になる。というか実際置いて行かれた。二人のためにココアを入れ直しお菓子を用意する俺は召使いだ。淹れ立てのココアとクッキーポテトチップスで腹を膨らませ、俺はまた唐突に切り出してみる。
「加藤さんさぁ、なんであんなところいたん?」
静まり返る部屋。柔らかくなったはずのココアの顔が一気に硬直する。まずいことを聞いたな、と俺は思う。確信犯だけど。
強張った表情で固まるココアを見て、ライトが焦ったように言う。
「テル!」
わかってるよライト。でもここは、ちゃんと理由を聞いておかねばならない。
ココアはカーペットの上にぺたんと座り両手でマグカップを持ったまま動かない。微動だにしない。マグカップの上からふわふわ湯気が上がり、消えていく。それだけ。
ライトは俺を責めるようにして、丸テーブルに身を乗り出して俺を睨んだ。ライトは優しい。でも、俺は態度を変えない。こういう問題は、その時その時に解決しておかねばならない。だから俺は、俺を睨んでくるライトから目を逸らさない。ライトは諦めて、心配そうにココアを見守ることに決める。マグカップを持ったまま動かないココアの真上を、ココアの暖かな湯気が登り消えていく。何度その光景を繰り返しただろう。消え入るような声で、ココアが言った。
「……川に入ろうと思って」
「なんで?」
これは俺。ココアはまたマグカップに視線を落として、ぐるぐると回るココアの渦の数を数えてから、言った。
「……死のうと思って」
瞬間、部屋の中の温度が急激に落ちる。つい一秒前まで暖かかったはずなのに、この一瞬で、まるで氷の渦に巻き込まれたみたいだ。俺はなんというべきかわからず、水槽の中の金魚みたいにはくはくと呼吸を繰り返す。ライトは俺が持ってきたポテトチップスを口に運ぼうとした体勢のまま固まっている。その体勢のまま数秒過ごし、ポテトチップスを口に押し込んだ。それをボリボリボリと噛み砕き、咀嚼し、ココアと共に飲み込んで、言った。
「な、なんでそんなことしようと思ったんだよ」
ココアは正座をし、小さな掌を握りしめて、何か言いたげに口を開いた。その、泣きそうな思い詰めたような表情に俺はおやと思うのだけれど、次にココアが取った行動に部屋の雰囲気はまた変化する。
「なーんちゃってね。嘘だよ、嘘」
「嘘!?」
「そ。ぜーんぶ嘘っぱち。川の水増えてるなー、いつまで降るんだろーって見てただけ
「おい!」
「さ、ゲームやろ! 次、わたしリーダーね!」
単純なライトはすでにココアのペースに流されて、コントローラーを握っている。ココアが意図的に話題を変えたことも気にしない。そこがライトのいい所だ。でも、俺は気にしてしまう。でも、それはまだ問わない。今は取り敢えず、目の前の悪魔を倒すべきなのだ。
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