第一章 加藤心愛 4
のどかと別れてまた暫くライトと歩く。階段を下りて廊下を抜けて下駄箱で靴に履き替えている間もライトは「のどかちゃん」「のどかちゃん」とずっと言っていた。
「のどかちゃんて、俺の一番上の兄貴より年上なんだよな。でもずっと若いしかわいく見える」
なんて言い出した時は流石にこいつ何言ってんだ目ん玉くり抜いてやろうかと思ったけれど、俺はもうのどかの兄じゃない。ライトが誰を好きになりのどかが誰と恋しようが関係ないのだ。例えそれが、十六歳差の恋愛であっても。
空を見上げると、つい数時間前まで雲一つない青空だったはずのそれはすでに薄暗く染まっていて、気のせいか、どこからともなく雨の香りがしてくるようだ。
「やべぇ、これ雨降りそう。家まで持つかな」
空と同じく顔を曇らせるライトと違い、俺はちゃんと傘を持っているから問題ない。流石マダム・パンドラ。恐ろしいほどの的中率だ。
「入れてやろうか」
俺の提案に、ライトは少し考え込むような素振りを見せる。が、両手の平を俺に向け、思い切り首を左右に振った。
「男と相合傘するくらいなら死んだほうがマシ」
これだから死んだことのない若造は困る。
雲の質量はどんどん増して、耐えられなくなった雲からぽつぽつと雨が降り始める。それでも負けずに走り続けるサッカー部を見送って、俺は傘を開こうとするのだが、その直前でライトに傘をひったくられる。
「おい、ライト」
「へへーん」
「返せ、馬鹿。雨降ってきてるだろ」
「なんで俺が傘持ってないのにお前が持ってるんだよ」
「そんなの、お前が持ってないのが悪いんだろ」
「フコウヘイなんだよ!」
「不公平も何も、入れてやるって言っただろ。それを断ったのはどこの誰だよ」
「うるせー!」
ライトは背が高い分足が長くて早くて、俺の折り畳み傘を持ったままとっとと走って行ってしまう。俺はそれを追いかけるのだが、その間にも雨はどんどん降ってきてあっという間に強くなり、俺の全身を叩きつけるようにして濡らしていく。
電車と競争するようにして線路沿いを走る俺達を、花柄の傘を差したご年配の婦人がなんとも微笑ましく眺めているのだが、走っているこっちとしては全然微笑ましくない。だって傘はあるのにそれはライトが持っているしどんどん強くなる雨は容赦なく俺の顔面を打ち付けて、学生服は雨を吸い込みどんどん重くなる。雷だって鳴り始めた。それなのに無駄に元気なライトは全くひるむことなく走り続け、僕のことをうんざりさせる。そして俺は、そこで
加藤心愛は俺のクラスメイトで、「心愛」と書いて「ココア」と読む。二年になって初めて同じクラスになった。猫みたいなアーモンド形の目と顔の輪郭をなぞるようなショートカットが特徴だ。頭がよくて、一年の時は学級委員を務めていたらしいのだけれど、新学年になってから殆ど学校に来ていない。それが病欠なのか家庭の事情なのか、俺たちは何も知らないけれど。
その時、ココアは土砂降りの中橋の上に佇んで、増水していく川を眺めていた。傘もささずに雨に打たれている彼女はどこからどう見ても異様であり、そんな彼女を誰も気にしていないのは、きっと誰もがみな傘を差し、下を向いて歩いているから。でも俺とライトは傘を差さずじゃれて騒ぎながら走っていたから、だからこそ橋の上で佇むココアに気が付いた。
先に気が付いたのはライト。俺の傘を持ったままばちゃばちゃと水たまりに足を突っ込みながら走っていたのに、橋の上で雨に打たれている水色のカーディガンを見つけて立ち止まった。
「お前、返せよ俺の傘」
俺は右を向いたまま立ち止まっているライトから折り畳み傘を引っ手繰る。「ああ」と言っただけでライトは俺のほうを見ようとしない。
「なんだよ、どうかしたのかよ」
「あれ、あの、橋のところ」
「橋ぃ?」
ライトに指示されるがまま顔を向けると、道路の向こう、トラックと乗用車の走る反対側。そこにいたのは雨に打たれてびちゃびちゃになったショートカットの女の子。俺は訳が分からず阿保みたいにぽかんとするのだけれど、次の瞬間そのショートカットが靴を脱いで柵の上に手をかけ身を乗り出したので焦る。信号のない道路を大慌てで渡り、なかなか柵を超えられないでもたもたしているココアの体に抱き着いて、腰から思い切り地面に落ちる。かなり痛い。ライトなんて尾てい骨を打って悶絶している。けれどココアはくじけない。俺たちが痛さに四苦八苦している間に、もう一度柵の上に上がろうとしているのだから、たまらない。
「何してんだよ!」
これはライト。でもライトは叫ぶだけで、尾てい骨の痛みから解放されていない。代わりに俺がココアの細い体にしがみつく。こっちとしては下心があったわけではないのだけれど、暴れるココアの胸だとかお腹だとかが十三歳の俺の体に当たる。意地でも柵にしがみつこうとするココアを無理やり引っぺがして、道路すれすれまで倒れこむ。俺たちのすぐ横数センチ隣を車が走って、俺たちに思い切り水を掛けていく。運転手が捨て台詞を吐いて去って行く。
「危ねぇじゃねぇだろうが死にてぇのか!」
ああ、まったくその通りだよ畜生。
雨に降られ車に水を掛けられてもうびしょびしょな俺達の前にいるのは、同じように前進びしゃびしゃになった加藤心愛。二度も柵から引き離されたせいか、雨でびしゃびしゃになったせいか、もしくはその両方か、びしゃびしゃの地べたに座り込んで俯いたまま、ピクリとも動こうとはしない。
「何してんの加藤さん。泳ごうとでもしたの? 泳ぐには少しばかり気が早いよ?」
カーディガンもミニスカートもびしゃびしゃに濡らした加藤心愛は、ライトの冗談にも反応を示さない。俺とライトは顔を見合わせ、ぴくりとも動かないココアに視線を送る。
「つか加藤さん、びしゃびしゃじゃん」
俺たちは充分びしゃびしゃだけど、ココアも充分びしゃびしゃだ。ショートカットの黒髪の先からはぽたぽたと水が垂れ、カーディガンの下の白いシャツから、下着も少し透けている。それに気が付いたライトが顔を赤らめて視線を逸らすが、二度目の中学生生活を送っている俺は気にしない。
あくまで無反応を貫くココアに心の中で嘆息して、傘を開いた。今日のラッキーアイテム。傘。もうどうしようもないくらいに濡れているけど、ないよりはましだろう。
「はい。風邪引くよ」
折りたたみ傘を開いて、ココアに差し出す。雨は決して弱まることはなく、俺達の未来を予測するかのように延々と強く打ち付けるけど、俺がココアに差し出した傘の中だけは安全区域。自分の全身を打ち付ける雨が止んだことにより、漸くココアが顔を上げた。遠くのほうで雷が鳴っている。多分、近い。
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