幕間劇6・シルスティン最後の夜から三日


【7・シルスティン最後の夜から三日】



 目が覚めると目の前に猫がいた。

 毛の長い、ふわふわの猫。

 イシュターだ。

 

 アギは半ば眠りのままで腕を伸ばす。

 イシュターはおとなしく腕に抱かれた。そのまま抱き込んで再び目を閉じる。


「――アギ」


 心配そうな声に名を呼ばれた。

 瞳を開く。

 ごく間近、猫の瞳がアギを見ている。


「ねぇ、やはり体調が悪いのでしょう?」

「なんか、だるい」


 シルスティンから脱出して以来、どうも体調が優れない。

 何処が悪いと言う訳ではない。

 身体が重い。

 こうやって宿で寝てばかりいる。


「ねぇ、アギ。昨日も言いましたけど、やっぱり――」

「いい。寝てれば、そのうち調子もよくなる。昨日より今日の方が楽だし、きっと、明日ぐらいには」

「もう、そんな簡単なものじゃありませんのよ?」

 

 聞き分けのない子供を宥める口調。

 アギは逃げるように目を閉じた。それでも両腕はイシュターの身体を抱きしめていたが。


「ねぇ、アギ。貴方の体調不良の原因はひとつ。貴方の中に別の人間の魂が入っているからなんですのよ?」

「……」

「その魂を消してしまえば、すぐに元気になります。貴方だったら出来ますでしょう? もしも難しいようでしたら、私、お手伝いしますわ」

「いい」


 もう何も欲しくない。

 だが奇妙なざわめきがずっと続いている。

 心の中でイブが何かを伝えている。


「あのですね、アギ。貴方は器。他の人間よりも他者の魂を受け入れやすいように出来ているのです。――下手をすると、貴方の魂が、その……女神に消されてしまいますわ」

「消された魂ってのは何処に行くんだよ?」

「消えます。ゼロになります。もう何処にも存在しなくなるのです」

「……なら、やっぱり、いい」


 ゼロにしたくない。


「どうして、そんなにあの少女に拘りますの? 罪滅ぼし? 見捨ててしまったから、今度は見捨てないおつもりですの? それで身体を差し上げてしまうなんて、ちょっと甘過ぎません?」

「イブは俺を殺す気はない」

「彼女が殺す気はなくとも、貴方の肉体は外から入ってきた魂を受け入れるのです。――貴方のように己をしっかり持っている存在だから意識を保っていられるようなもの。本来なら、アギと言う個人は消え去っている所ですわ」

「もしも俺が消えたら、誰が生まれるんだ?」

「弱い女神の魂が貴方の身体を支配しきれるとは思えません。どういう存在が生まれるか……見当も付きませんわ」


 敢えて言えば、とイシュターは言う。


「まったく別の……貴方でも、あの少女でもない誰かが生まれるでしょう」

「それはそれで面白そうだな」

「面白くありませんわ! 貴方に死なれたら、私はどうすれば……」

「シズハの所に行けよ。あいつが、冥王なんだろう?」

「納得出来ません。冥王の魂なんて感じませんでしたもの」

「だけど黒竜は奴を王と言うぜ?」

「こ、黒竜が間違えているに違いありません! 私はちっとも感じませんでしたもの! あの魂は……まるで」

「まるで?」

「いえ、何でもありません」


 ふぅん、とアギは頷いた。

 少々気になるが身体がだるい。


「……眠い」

「アギ、もう」

「俺は、このままでいい。――もう少ししたら、元気になるから……」


 片方だけ瞳を開いて隣室へ続くドアを見る。


「ハーブとラナにも、そう伝えてくれよ」

「……分かりましたわ」


 腕からするりとイシュターの身体が抜け出す。


 その感触を最後に、アギは眠りに落ちる事にした。





 イシュターの伝言を受けて、隣室にいたハーブはただ「分かった」とだけ答えた。


 もう、と、イシュターは声を漏らす。


「貴方、アギとは古い付き合いなのでしょう? 説得して下さいません?」

「……アギ様が……、お選びになったなら、それに従うまで」

「それが騎士の忠義ですの? アギはこのまま消えてしまうかもしれないのに」

「……大丈夫だと仰られている」

「他者に肉体を侵される経験なんてアギにありますの? 前例が無い事に大丈夫だなんて確信が持てます?」


 ハーブはイシュターを見る。

 全体的に色素が薄い。特にそれは目の色が顕著だ。

 薄い色。

 浮かべる感情は強いが。


 言葉や態度に表す事が少なくとも、このハーブと言う男、大人しいだけの人間ではない。

 

 感情を抑える術に長けているだけ。


 なかなかに動かすのが難しい。


「ただ従うだけが忠誠とは限りませんわ。ねぇ、説得して下さいな。貴方の言葉ならアギも少しは聞くでしょう」

「……説得はしない」

「貴方もアギも本当に頑固ですわね!」


 イシュターは人間で言えば頬を膨らませた。


「本当にもう、貴方たちったら。そんなにあの少女が大切ですの?」


 ハーブが微かに頷いたように見えた。

 イシュターは鼻を鳴らす。


「あの少女にそんな価値がありますの? ただの女神のかけら。少しばかり癒しの力を持っているだけではありませんか」

「……悪夢を、見ない……らしいから」


 悪夢と言う単語に思わず言葉が止まった。

 恐る恐る、ハーブを見上げ、問う。


「悪夢って……アギがよく見ている?」


 ハーブはゆっくり頷いた。


「それを取り去ってくれただけでも……私は、あの少女を評価する」


 もうひとつ、頷き、イシュターを見る。


「……アギ様は、大丈夫だと……仰られてる。なら、私は信じるだけ」

「……」

「ラナに、会ってくる」

「えぇ、行ってらっしゃいませ」


 部屋から出て行くハーブを見送って、それからイシュターはアギの元へ戻った。

 寝台の上に飛び乗れば、すぐに腕が伸びてくる。抱きしめられた。


「――アギ」


 囁く。


「貴方の騎士は信じるそうですわ。――貴方と、貴方を悪夢から救ってくれたその少女を」


 だから。


「私も信じて差し上げます。貴方がその魂を受け入れても、ちゃんと貴方のままでいられ、そして、またお元気になられるのを」


 軽く、目を細める。


「それまではこうやって添い寝して差し上げますわ。――お好きでしょ? 猫を抱くの」


 答えはない。

 だが抱きしめる腕は緩みそうにない。

 イシュターは黙って目を閉じた。





 宿から出て、ハーブは近くの森へと向かう。

 徒歩で十分移動出来るその森があったからこそ宿は此処を選んだ。

 飛竜が身を隠せそうなほど大きな森。しかもエルフがいない森だ。火竜が隠れるのに適している。


「――ラナ」



 呼び掛けに片割れは答えなかった。

 何度か呼んでみる。

 答えはない。


 まさか、とハーブは呟いた。


 シルスティンからアギが戻ってきた直後。目の色の変化と、まるで病人のような訴えに驚いた。

 途切れ途切れの話を纏めて、シルスティンで何があったのかを理解した。

 

 付いて行かなかったのを心から悔やんだ。

 ハーブ以上に悔やんだのはラナだ。

 特に彼女が苛立ったのは、ゴルティアの竜騎士に刺されたと言うくだり。

 「ゴルティアを滅ぼしに行く」と宣言し、飛び立とうとする片割れを必死に止めたのは数日前だ。


 ……まさか、ゴルティアに行ったのでは……。



 ラナなら十分に有り得る。

 ハーブもそのゴルティアの竜騎士は殺してやりたいぐらいだ。アギを傷付けるものは例え誰であれ許さない。

 だが、自分は理性で止められる。ゴルティアとは将来的にぶつかる可能性はあるだろうが、今はまだ戦う時期ではない。


 それがラナは分かっているだろうか。


 ハーブは無意識に息を吐いた。


 片割れが暴走するのは、竜騎士の心が乱れているから。

 竜騎士である父が言っていたのを思い出す。竜騎士は飛竜の心。その心が安定していれば、飛竜は暴走などしない。


 冷静なつもりだ。

 だけど、冷静になり切れてないのだろう。

 己の中に戦いと言う手段で解決するのを好む自分がいる。

 

 ラナはそれに従っているように思えた。


 ……父のようにはなれはしない。

 

 ハーブはため息を漏らし、ラナを探す為に意識を集中した。



 ――羽音。



 集中するまでも無かった。

 空気を叩く音。聞き慣れた翼の音だ。

 

 集中するために閉じていた瞳を開いた。


 森の中、一匹の火竜が降り立つ。

 深紅の翼に炎が揺れていた。身体全体に僅かだが炎を纏う。

 ラナが興奮状態の証。


 降り立った片割れに近付けば、微かな血のにおいさえ感じた。


 まさか、本気で――


「ラナ、何処へ……」

 

 ふん、とラナは顔を動かす。

 金の瞳がハーブを見下ろした。


 気分転換、と、火竜は言った。


「何処で、何をしてきたんだ、ラナ!」


 ――ゴルティアには行っちゃいないよ。


 片割れにのみ通じる飛竜の言葉。


 ――その辺りで気分転換。悪い事じゃあ無いだろ?


「そ、そうか……」


 心から安堵した。


「悪かった。私はてっきり」


 ――ふふん、いいよ、気にしてないから。


 どうやら機嫌は悪くない。

 虫の居所が悪い時ならば、この会話の段階でブレスのひとつでも飛んでくる。


 片割れとの契約の証によって炎による耐性を得ている身でなければ、とっくの昔に消し炭だ。


 ラナは真紅の翼を畳む。

 まだそこに炎が宿っている。

 ゆるやかに揺らめく紅。


 己の興奮を隠そうともせずに火竜は言う。

 

 ――それにねぇ、ゴルティアの竜騎士を潰すなら、アギが元気になってから。元気じゃないと勝利も心から喜べないだろ?


 ラナが笑う。

 笑って、ハーブの顔に顔を寄せた。

 その顔を撫でてやる。


 ――安心しな、私の片割れ。お前の心に反する事はしやしないよ。それに……大きな戦いの時はお前も連れて行く。



 ねぇ、と甘い声。


 ――楽しみだねぇ……戦のにおいが世にしてるよ。ねぇ、楽しみだろ、ハーブ? 大きな争いがあるよ。私たちの出番もたっぷりある。ねぇ、ほら、楽しみで震えてくるよ。お前もそうだろ、ねぇ、ヘルベルト?



「……あぁ」


 楽しみだ。


 ハーブは殆ど考える間も無く頷いていた。



 ――そうこなくっちゃ。


 ラナが翼を広げた。


 ――それまで気分転換してるよ。アギは任せたよ、ハーブ。


「何処に行く気だ?」


 ――気分転換、って言ったろ。なぁに悪い事はしてないよ。むしろ感謝される事だ。


 笑みを含んだ声を残し、ラナが飛び去った。



 その姿を見上げ、しばしの時間。



 やがて、ハーブは歩き出した。

 宿へ、戻る。


 宿の入り口で店の主人が慌てたようにハーブを見た。


「あぁ、お客さん、ご無事で」

「な、何か、ありましたか?」

「いえ、それが……」


 恐ろしそうな顔で、主人は言う。


「この近くに家畜を襲う低級な魔物がいたんですが……それの巣が破壊されてるんですよ。勿論、魔物たちも全滅」

「……」

「炎の魔法と、何か大型の魔物らしい爪痕が残されていて……いやぁ、お客さんがその魔物と会っていたら、と考えてたんですよ。ほら、もう少しで夜になりますし」

「あ、ありがとうございます……。で、でも、だ……大丈夫です……」


 その魔物は私の片割れだ。



 明日の朝までにはこの辺りの魔物が一掃されていそうだ。


「お客さん、本当に気を付けて下さいね。何だか山の方でも火の手が上がってるって噂もあるんですよ。あそこにもひとつ目の魔物が住んでるって噂があって――」


 主人の声に同意するように頷いた後、ハーブは何となく空を見上げた。


 片割れは今頃、何処の敵と戦っているのやら。

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