第16話18章


【18】



「――イルノリア……」



 微かな違和感に気付いたのはシズハだ。

 腕の中を見る。



「イルノリア?」


 腕の中の首が少し熱を持っている。

 癒しの力を使う瞬間のような少しの熱。

 飛竜の体温とは違うが、心地よい暖かさだ。

 

 抱きしめる腕の中、イルノリアの首が、溶けた。

 銀の雫となって腕を滑り、落ちてゆく。

 慌てて掬い取ろうとした指先さえも掠めて、床へと。


 見れば、椅子の間に落ちた身体も、床に広がっていた血さえも銀の雫となって溶けゆく。


 そして、集まる。



 ひとつの形へと。





 誰も動けない。



 誰も、動かなかった。

 黒竜さえも、目を細め、それを見つめる。








 アギはひとつの扉の前に立つ。

 両開きの扉。


「……くそ」


 毒づき、胸元を握り締める。

 女神を求める感覚とは異なる、奇妙なものが胸にあった。

 不安に近い。

 同時に、揺れる何か。

 

 イブだ。


 わたしをあげる。

 そう言った彼女の言葉を思い出す。

 受け継いだ。

 イブの何かを。

 そして同時に、彼女の思いを。


 この扉の向こうに彼女の望みがある。


「……くそ」


 もう一度毒づき、アギは扉を開く。





 シズハが見えた。


 床に座り込み、それを見上げる。

 銀の光。


 空中で象られる、竜の形。

 何筋もの光。

 銀の光が、作り上げていく。



 シズハが笑った。


 涙の跡を残した顔で、空中に両腕を差し出して笑う。

 ようやく母を見つけた迷い子のように。

 



 ――シズハ。



 声が聞こえる。


 柔らかい少女の声。

 幼さの残る、たどたどしい音。

 

 銀の光が竜を編む。

 完成、させていく。



 ――あなたを、ひとりぼっちになんてぜったいしない。



 ――生まれる前からだいすきなあなたを、ひとりぼっちになんてぜったいにしない。



 聖堂の中。

 奇跡を描くステンドグラスの下。


 一匹の銀竜が現れる。


 殆ど白に近い銀。

 細身の体躯。優しい顔立ちの、飛竜。

 再生されたその姿は、消滅前よりも幾分大きく、そして美しい。


 緩やかに翼を広げ、羽ばたかせた。


 伸ばしたシズハの手に顔を触れさせる。

 笑み。

 

 柔らかい、甘える声。



 ――だいすきなシズハ。


 ――あなたのためなら、なんでもできる。



 ――なんだって、こわくない。



 ――せかいのことわりをうらぎるのだって、こわくない。




 降り立った銀竜。

 シズハの両腕がその首に回る。

 応じるように翼が閉じる。細い顔を、シズハに寄せる。


 互い、抱きしめる、動き。






 アギはそれを見る。


 ようやく、分かった。

 シズハが器としての負の感覚をまったく持っていなかった理由。

 単純だ。

 シズハは既に女神を得ていた。

 自分だけの女神を。

 他のかけらたちとは比べ物にならない、完全な女神を。

 冥王の虚ろを埋める唯一のピース。



 イルノリアだ。



 イルノリアが、女神だ。




 何故、気付かなかったのか。

 シズハは常にイルノリアを選択していた。

 この世で一番愛しいのはこの銀竜だと、常に示していた。


 器が求めるのはただ一人。

 女神だけ。


 例えそれが人の姿をしていなかったとしても、変わらない。




 不安。

 アギの中でさらにその感情が大きくなる。


 イルノリアは確かに綺麗な銀竜だ。

 だが愛しいなどと感じない。

 守りたいとも思えない。

 何故?

 イルノリアが女神だと、確かに思う。

 思うのに、心が動かない。

 揺らがない。


 誰かがアギを呼んだ気がした。


 耳にではなく心に触れる呼び声。


 顔を上げ、彼は見る。




 動き出した、金竜――コーネリアを。







 テオドールが動くのをゼチーアは見た。

 呼びかけるより先にテオドールはルークスを呼ぶ。


「束縛用の術式は」

「だ、弾丸タイプなら用意してます。ですが――黒竜の動き、これでは封じられません。大き過ぎますから」

「十分だ」


 前を見る、テオドールの視線。


「イルノリアを捕らえる」


 その言葉に、誰も反応出来なかった。


「テオドール様……?」


 ゼチーアはテオドールを呼んだ。

 言葉の意味が分からない。

 イルノリアを捕らえる?

 この復活の意味を知りたいのか?

 滅竜の弾丸で滅んだ筈が綺麗な屍体のままで、更に復活を遂げたイルノリアを調べたいのか?

 ならシズハに聞けばいい。

 ならシズハに頼めばいい。

 貴方の息子なのだ。

 きっと応じてくれる。

 イルノリアに危険が無いと分かれば、始終傍にいるだろうが、願いを容易く聞いてくれる。


 言葉にならない。

 だが伝わった筈だ。

 聡いテオドールなら全てを理解する。


 なのに、彼は何も言わない。

 もう一度ルークスの名を呼んだだけだ。


 裏返った声で返答し、ルークスは飛び道具を構える。

 魔術のこもった弾丸を発射するタイプのボウガン。

 銀竜の鱗ならば簡単に貫けるだろう、武器。



 コーネリアが動いた。

 そこでようやくシズハが気付く。

 彼はイルノリアの首を抱いたまま笑った。

 父に、いつも通りの笑みを向けた。



「父さん、イルノリアが――」

「離れろ」


 命じる声に、子供のように目を丸くするシズハ。彼の腕の中、イルノリアも同じように不思議そうな顔をしている。


「イルノリアから離れなさい」

「どうして。――竜と竜騎士はいつも一緒だって、父さんがいつも……」

「離れろ、シズハ!」


 怒鳴られ。


 シズハは表情を変えた。


 怒りの表情。



「嫌だ。絶対に離れない」

 

 シズハの強い調子にルークスが泣きそうな顔をしている。


「ど、どうしましょう」

「そのまま撃て」

「え?!」


 殆ど泣き声だ。


「で、でも竜用の弾丸ですから、人間なんか当たったら、その――俺命中に自信無くて……」

「撃て」


 命じる声にルークスがぎくしゃくとボウガンを構えた。







 ミカが動く。

 そのミカを、フォンハードの声が引き止める。


「あれに当たったらシズハさん死んじゃうよ!」

「奴らに構うな。もう逃げるぞ、ミカ」

「嫌だったら、嫌なの! ふーちゃんの馬鹿っ!」


 動く。






 黒騎士も動いた。

 シズハの前に戻る為に、動き出す。



 だが、ボウガンの弾の方が早い。







 だから、アギは床に手を付ける。


「これで最後だ、イブ」


 シズハを助けるのは、これで最後。


 獣への変化。

 そして、周囲に広がる、闇。




「え、え、えぇっ?!」


 ルークスの奇妙な声がする。

 狙いを付けようとして周囲が暗闇に閉ざされたのだ。

 混乱もする。


「も、もう分からないから適当に撃ちます!!」

「ルークスっ!!」


 叫んだのはロキの声だった。

 暗闇で飛び道具を撃つなど非常識過ぎる。


 発射の音。




 高い金属の悲鳴。


「あ、当たった?」



 銀竜の声だ。






 突然訪れた暗闇の中。

 イルノリアの苦しそうな声がする。

 手探りで傷の位置を探る。

 身体が熱を持っていた。癒しの力を使っているのだ。だがイルノリアの呼吸は楽にならない。

 癒しの力が効かない。


 どういう種類の毒だ?

 毒の種類が判断出来なければ、癒しの力は不完全だ。

 少なくとも様子を見る限り、この毒はイルノリアの知らない毒なのだろう。


「シズハさん」


 すぐ横に気配。

 ミカだ。


「ミカさん、イルノリアが――」

「復活してよかったですね。……じゃなくて、多分、捕獲用の弾丸なら毒の弾丸です。暫く飛べない筈です」


 ミカがイルノリアに触れている。


「……うわぁ、酷い。相手凄い腕ですね、翼の根元を撃ってる。この暗闇で当てるなんて」


 何かが寄ってきた。

 獣の気配。


「ニゲロ」

「……誰?」


 問い掛けに獣は答えない。


「早ク、ニゲロ」

「私の魔力じゃイルノリアちゃんまで逃がせませんよ。シズハさん一人で手一杯です」

「俺はイルノリアと一緒にいます」

「でしょ?」

「イイカラ、ニゲロ!」


 獣が叫ぶと同時に、金の光が聖堂を照らす。

 真闇さえも駆逐する、凄まじい光。


「……真闇ガ破ラレタ」


 光の下、黒い狼が唸る。

 瞳の色は真紅。

 唸る口元から巨大な牙が覗く。


 光を放った金竜、コーネリアはテオドールを背にこちらを見た。

 哀れむような色が瞳に浮かんでいる。


 シズハは抱き寄せるイルノリアを見た。

 翼を中心に身体がどす黒く染まっている。毒の色。

 苦しげに、それでもシズハに身を寄せる。


「――父さん」


 シズハはイルノリアを抱いたままテオドールを見る。

 生まれて初めて、父を睨んだ。

 

 父を、憎いと思った。


 哀しみの前に憎悪が来る。


 イルノリアを傷付ける者は誰であれ許さない。

 そう――誰であれ。


 イルノリアが名を呼んでいる。

 苦しいと伝えず、ただシズハの名を。


「どうして、イルノリアを?」


 テオドールからの答えは無い。

 ならば、こちらから伝えるのみ。


「俺はイルノリアを守ります」


 イルノリアを守る為なら、何でもする。




 敵にだって、なる。




 その言葉に応じるように、黒騎士がシズハの前に立った。

 盾を構える。

 竜騎士相手に一歩も引かない構え。

 それを横に、黒の狼も牙を剥く。





「――黒騎士に魔物……」



 ロキが呟く。

 ゼチーアはそれらが導き出す結論を浮かべないようにしていた。

 勇者と共にいた。

 ならば違う筈だ。


 違う筈、なのに。


 何故、こんなに震えが止まらない?







 黒竜が身をもたげた。

 呆然と、いまだ動けなかったヒューマがようやく思い至ったように叫ぶ。


「そ――そうだ、殺せ! 倒せ! ボルトラック、殺してしまえ!」



 黒竜は一度だけヒューマに視線をくれ、そして、シズハを見た。

 動かない。

 迷って、いる。






 そして、もうひとつの視線。





 病を癒す女神の奇跡を描いたステンドグラス。

 その真下、僅かなスペースに女が腰掛けている。

 翼有る女、リンダ。


 彼女は首を傾げてシズハを見ている。


 違う。

 違うのに。

 どうして彼のモノを従えているの?

 ボルトラックまで何故彼を気にしているの?


 違う。

 違うのに。



「……ちがう……」


 リンダは呟く。

 掌に残ったたったひとつの滅竜式弾丸。


 シズハに、向ける。


 そっと息を吹きかけた。

 吐息と共に呪文。

 放つ。



「……死んで、死んで……死んで……死んで……」


 彼じゃないなら誰もいらない。


 呟く声を呪文として、弾丸は、走る。






 狼が気付く。

 顔を上げる。


「シズハッ!」


 黒騎士も動いた。


 イルノリアを抱いたまま、それを見る。

 自分に向かう、小さな弾丸。


 それが自分の胸に食い込み、破り、貫き――抜けるのを、確かに、止まったような時間の中で確認する。



 酷い不快感。

 滅竜式弾丸だ。

 でも何処から?

 見上げる瞳の先に、翼の女が見えた。


 彼女?



 誰だろう?

 誰――



 疑問に自分の脳が答えを出すより先に、身体を起こしていられなかった。

 苦痛。

 今まで感じた事の無いほどの苦痛が身体を貫いている。


 声を出そうとして、口を開く。

 悲鳴の代わりに漏れたのは、黒味を帯びた血だった。


 止まる事無く落ちるそれに、イルノリアが高く鳴いた。


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