第16話12章

 


【12】




 目の前の透明な少女にアギは笑う。

 自分の血溜まりの中、獣のように蹲り、それでも笑った。


 指に付けていた銀の指輪を思い出す。

 イブの髪の毛。

 血によって目覚めたか。

 何だ、とアギは思考する。

 俺の血でも繋げたのか。その命を。

 魔物の混じった血など汚らわしいだけだと思っていた。

 でもそれで良かったのならあげれば良かった。

 自分の血で命を繋ぐと言うのは、何だか、とても良い事のような気がした。


 思考がうまく纏まらない。

 それでも笑えた。

 イブの名は呼べた。


「イブ――」


 泣きそうに揺らめく瞳の少女に言う。


「お迎えか?」


 身体の前で細い手を重ねる。

 銀の髪がとっておきのドレスのように細い身体を彩っている。

 重ねたその手にも、幾筋もの髪の毛が絡みついていた。


 おねがい、と、細い声が言った。


 耳ではなく、直接心に届く声。



 ――おねがい、シズハをたすけて。




 その言葉にアギは叫びそうになった。

 怒りのあまりに、動かぬ身体を動かそうと試み、更に無様に血溜りに転がった。

 顔だけを上げてイブを見る。


「ふ、ざけんな……っ!」



 泣きそうな紅。

 イブの瞳の色。


 その瞳に、怒鳴る。


「今の俺を見ろよ……マジ死に掛けだっての……シズハを助けるなんてムリに決まってんだろっ……」


 その言葉だけでも一度血を吐いた。

 内臓が出血している。胃に血が集まっている。

 


「それに――」


 かすれる声。

 必死に、己の命を削りながらも言葉を出す。

 イブを哀しませるだけの言葉を続ける。


「シズハはお前の助けなんて……求めちゃいない。お前なんてどうやっても要らない。シズハのお姫様なんかには、何度死んで生まれ変わっても、絶対に……成れないんだよ……っ」



 紅い瞳が揺れる。

 涙の色。

 

 それでもイブは泣かなかったが。



 ――いいの。



 小さな声が答えた。




 ――いいの。それでいいの……たすけて、アギ。




 アギは笑った。

 声に出して笑う。

 イブを嘲り、笑い飛ばす。


「どうして……どうして……俺が、お前を助けると思ってんだよ……。お前を見捨てたのは俺だぜ? 殺されるって分かって……放っておいた。嫉妬心塗れのお前なんて醜いだけだって、捨てたのは俺だ」


 俺を選ばないお前なんて要らない、と、そう考えた。


 言葉にならなかった箇所。

 伝わる訳の無い言葉。


 透明な手が伸びる。

 頬に触れた。

 血を拭う動き。



 違う――血ではなく、涙、だ。




 ――たすけて、アギ。




 繰り返す、願い。




 ――いいの、いいの。

   ニセモノのお姫様でいいの。

   私は、それでいいの。

   もう全部、駄目になっちゃったから。



 イブの笑みは淡い。

 アギの頬を小さな両手で挟み、微笑む。


 紅い瞳が優しくて哀しくて。

 アギは言葉を完全に失う。




 ――でもシズハだけは守りたい。

   それが私の――ううん、私たちの心。

   おねがい、アギ。シズハをたすけて。



 頬に触れる手がずれる。

 首に細い腕が絡まった。

 抱きしめられる。



 ――アギ……たすけて……。

   わたしを、あげる。

   だから……たすけ――



 溶ける声。

 それと同時に姿が溶けていく。


 慌てて伸ばした腕。

 右手の銀の指輪。

 髪を編んだそれが、力を失ったように千切れて落ちた。


 そして、イブの姿も消えていく。

 抱きしめる腕が消えていく。


「イブっ!!」



 叫んだ声は届かない。



 届かなかった手で床を叩く。

 握り締めて初めて、傷が癒えているのに気付いた。

 痛みは無い。

 何処も、痛くは無い。

 痛く……無いのに。



 どうして涙が止まらないのだろう。



「――ニセモノでいいって言うのなら……」


 もう届かないだろう声を出す。


「ニセモノでいいって言うのなら……それでいいって言うのなら、俺を選べば良かったじゃねぇか」


 それなら見捨てなかった。

 シズハのように要らないなんて言わなかった。

 今だって傍にいて、身体のあるお前を守ってやったのに。

 

 涙は止まらない。

 床に落ち続ける。


 

 小さな音。


 手首に結んでいた銀の鱗が、役目を果たしたように砕けた。

 そのかけらが、床で鳴った。



 血溜りさえも消えた床。

 よく磨かれたそこに映る自分の姿に違和感を覚えた。


 銀の破片が散るその場所に顔を近付け、笑い出したくなるような無様な自分の顔を見る。



 床に映る己の姿。





 真紅の瞳。




 真白の少女を思い出した。

 彼女の瞳の色を思い出した。


 耳奥で、心で鳴る少女の声。

 たすけて、の音。


 真紅の瞳が歪んだ。


 涙が、もう一度、零れた。

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