第14話14章・現在、シルスティン編 前編



【14】




 下水の中は予想以上に酷い悪臭だった。

 鼻が曲がりそうだ。


 その汚水の中に突っ込んだイルノリアに関しては、もう言葉も無い。

 流石に自分でもやり過ぎたと思ったのだろう。イルノリアは静かだ。一番後ろをゆっくりと飛んで付いてくる。たまに地面――水――に着いてしまうのは仕方ない。


 洗ってやろう。

 何があろうとも徹底的に洗ってあげよう。

 シズハは何度となく心に誓う。


 ちなみにイシュターは歩く事を拒否した。

 戦力が無くなる、と文句を言うアギをにゃあにゃあと説得し、彼の腕の中だ。

 


 悪臭に鼻も慣れ、薄暗がりに完全に視界が慣れた頃、イシュターが鳴いた。

 通路脇に扉がある。

 本来ならば下水の管理を行うための器具を置いてあるのだろう、大きな扉。

 その扉の正面に金の光が走っている。

 暗闇で輝くそれは魔力の証。

 

 下水道の用具入れに刻まれるものではない。


 アギがドアの前に立つ。

 両手が猫で塞がっているのを確認し、彼は扉に向けて怒鳴った。



「爺さんっ、俺だ、ドアを開けろ」



 返ってきたのは沈黙。

 アギは舌を打つ。


 足を持ち上げた。


「開けろって言ってるだろうがっ!」


 そして勢い良く扉を蹴り――あっさりと扉が開いた。

 アギがその場に転ぶのが見えた。

 そして、イシュターが放り出されるのも見えた。



 物凄い非難の声。

 猫の言葉が分からなくとも、それが激しい非難だと言う事ぐらいよく分かる。

 



「――馬鹿者」



 心底馬鹿にしているような声。




「開いている扉に開けろもあるまい。それとも扉の開け方も忘れたか、野良猿」

「……相変わらず口の減らねぇ爺だな」


 再度イシュターを抱き上げたアギが室内に入る。

 室内は思ったより広い。


 そして、用具入れには到底見えなかった。

 部屋だ。

 しかも魔術用の実験器具が揃えられた、どこかの魔術学校に置かれても問題無いような立派な。


 扉は少々狭かったが、中はイルノリアが入っても問題は無い。


 部屋の奥側。机に座っている禿げ上がった老人は手元の本に目を落としたままこちらを見ようともしない。

 右目の下から顎に近い位置まで真っ直ぐに太い傷跡が走っていた。

 その傷跡を隠すかのように顔面に深い皺が幾つも刻まれている。何か不快な事があったように老人の顔は歪められていた。


 老人の向かう机の上。

 先ほどの鼠がパンくずを齧っていた。



「随分と臭いぞお前ら」

「こんな下水に隠れてるんだったら慣れろよ」

「“清潔化”の呪文ぐらい覚えている」


 目標の悪臭や汚れなどを取り去る、覚えても何処に使っていいものなのか迷う呪文の名前を口に出し、初めて老人は顔を上げた。


「見覚えの無いヤツがおるな? 野良猿、そいつらが人間ならば自己紹介ぐらいさせろ」


 いや、と老人はそこで言葉を区切った。


「見覚えが無い訳でもない」


 立ち上がる。

 曲がった腰で、老人は杖の力を借りて歩いた。

 杖に巨大な魔法石が嵌め込まれている。老人が動くたびにそれが輝いた。かなりの上質なものだと判断出来る。


 老人は黒猫の前に立った。


「――随分と情けない姿になったものだ」


 アルタットは老人をじっと見上げた。

 何も言わない。


 ふん、と老人は鼻で笑う。


「臆病者の神の傀儡が。仲間の敵討ちもせずにケダモノに成り果てて何をしておる?」


 アルタットは答えない。


「答えろ、アルタット。――お前は、何をしているのだ?」


 それでも答えないアルタットに焦れたように、老人は杖を振り上げた。


「沈黙は答えではあるまいっ!」

「ちょっとお爺さん、お爺さん、落ち着いてってー」


 笑いながら老人の杖を抑えたのはヴィーだ。

 皺に埋もれた老人の目を覗き込み、笑顔。


「確認確認。――お爺さんがドゥームでしょ?」

「いかにも」

「俺はねぇヴィー。アルタットの猫だよ」

「……随分と奇妙な生き物だな」


 老人はじろじろとヴィーを見た。


「外側はアルタットか。中身は……随分と中途半端だ。本体は何処にある?」

「さぁね。覚えてないよー」


 老人の杖を元に戻し、満足げな笑顔。


「そのメス猫の対か」

「……そうだね。対、って言い方、悪くないよ。的確かもしれない」


 ヴィーはいまだ笑み。

 老人は杖を身体側に引いた。アルタットを打つ気は無くなったようだ。


 アギが動く。

 先ほどまで老人が向かっていた机に尻を乗せた。


「貴様っ! 貴重な魔術書に座るなっ!」

「大切なら箱に入れて片付けとけってんだよ」

「揃いもそろって悪臭を撒き散らしおって……」


 ドゥームはぶつぶつ言いながらイルノリアを見た。


「特にその銀竜。まるで下水を泳いだように汚れておる」

「……事実そのままです」

「……変わった趣味の飛竜だな」


 流石に呆れたような声。

 

 ドゥームは軽く杖を上げた。


「臭くて鼻が曲がる」


 呪文。

 古代語だと判断すると同時に終了。

 その早さに驚いた。

 呪文の熟練度に早さと威力、そして呪文の短さは比例する。

 シズハも幾つか呪文を使いこなせるが、相手に直接触れて呪文を唱えない限り効果を出せない。呪文も省略する事など不可能だ。


 ドゥームは相手に触れる事無く、たったひとつふたつの古代語で呪文を完成させた。


 何が変わったかよく分からなかった。


 ふん、と老人が鼻を鳴らす。


「下水の汚れとにおいを取ってやったわ。臭くてたまらん」


 イルノリアを見る。

 自分でも綺麗になったのが分かったのだろう。早速シズハに顔を摺り寄せる。


「有り難うございます」

「ワシが迷惑だからやったまでの事だ。貴様らの為ではない。――おぬしも野猿の仲間か? 自己紹介がまだのようだが」


 シズハは背筋を伸ばす。


「失礼しました。俺はシズハ、この子はイルノリアです」

「……珍しく猿の仲間にしては礼儀正しいな」

「猿猿うるせぇな、爺さん。――ま、そんだけ口が達者なら無事だって事だろう。あと百年は死なねぇな」


 アギの言葉にドゥームは睨み付ける。


「シンシアの仇どもが死ぬまで死ぬに死ねん」


 アルタットが老人を見た。

 ドゥームはアルタットを見返す。


「貴様が臆病風に吹かれて引っ込まずに敵討ちをしてくれれば良かったものの。――所詮、その程度にしか仲間を思ってなかったと、そういう訳だろう」


 アルタットが鳴いた。

 強い、声。


「ケダモノの声など届かぬわ」



 老人は動き、机に向かった。

 杖でアギの背中を強く叩く。「痛ェ!」の声は完全に無視された。

 机の上では鼠が髭を掃除している。アギの声に軽く鼠が笑ったように見えた。



「随分と遅かったな、アギ」

「こんな立派な結界張りやがって。まずはそれの調査だっての」

「黒竜を外に出すわけにはいくまい。出来うる限りでの結界だ。一定の能力以上は外には出ないように仕上げてある」


 老人はひとつ頷いて続けた。


「それが女王の依頼だ」

「……陛下はご無事ですか」


 シズハの問いにドゥームは不思議そうにシズハを見た。

 ゆっくりと、何かを確認するように、答えてくれる。


「三日前までは連絡が取れた。その時点ではご無事だった。軽い監禁状態ではあったようだがな。――今は、分からん。連絡が取れん」


 杖でシズハの顔を示す。


「思い出した。シルスティンの竜騎士じゃろう、おぬし。――ああ、そうか、竜騎士団を辞めたと……あぁ、そうか」


 納得したように何度も頷く。


「竜人で竜騎士気取りとはな。もっとマシな名乗りもあろう。――それに、戦場に連れてくるならば、そんな幼い銀竜よりも火竜か雷竜の方が良いぞ。……まぁ、竜人に竜の種類を語っても意味が無いがな」


 くつくつとドゥームが笑う。


 シズハは早口で言われたその言葉の意味を理解し切れない。

 イルノリアの細い首に手を当てた。


「俺の片割れはこの子ですから……別の竜を連れてくるなど、出来ません」

「片割れ?」


 ドゥームはシズハをまじまじと見る。

 その瞳を、真っ直ぐに見る。

 シズハが思わずたじろぐ程の眼力だ。


「……嘘を言っている顔には見えんな」


 目を細める。


「竜人で冥王の器。――見事な状態の器じゃな。歪みがまったく見えない。心も安定している。まるで真白の紙のようだ。器の中の器と言えるような人間だな」


 アギをちらりと見る。


「そっちの野猿とは大違いだ」

「うるせぇ」


 シズハは嬉しくない評価に顔を曇らせる。

 イルノリアの首を抱いた。


「あの……ドゥーム殿、俺には貴方が何を仰られているのかよく分からないのですが……」

「おぬしに片割れなどおらん」


 ヴィーが何故だかため息を付いた。

 アルタットが小さく鳴いた。

 けど、シズハには何も聞こえなかった。


 ぽかん、と。

 間抜けな顔をしてドゥームの顔を見返す。

 シズハに首を抱かれたイルノリアは、困ったように首を傾げていた。


「……どういう意味ですか? 俺の片割れはちゃんとイルノリアが……」

「竜人に片割れなどおらん」


 断言する口調に戸惑う。


「神が源人を竜と人に引き裂いた際、運よく逃れたのが竜人だ。竜人は既に竜と人を併せ持っている。――ゆえに片割れなど存在しない」

「で、ですが! 俺は翼も持っていて、イルノリアはずっと俺の傍にいてくれていますっ」

「翼? 契約の証か? ――しかし、その翼は生まれた時から持っておらんか?」


 図星に黙る。


「片割れより先に手に入れておるじゃろう」

「……で、でも」

「竜人はすべての飛竜を従える。――その銀竜はおぬしの片割れではなく……そうだな、奴隷と言う所だ」

「違うっ!」


 荒れた声が出た。


「イルノリアは俺の片割れで、俺が好きで傍にいてくれるんだ。そんな奴隷だなんて――」

「竜の気持ちも捻じ曲げる。本気で願ってみるがいい。飛竜に片割れを食い殺す命令も出せるぞ、おぬしは」


 胸の中で不安が大きくなる。

 竜人の話を聞いて以来、ずっと感じていた不安はこれだ。

 知っていたのか。

 でも――違う。イルノリアは、イルノリアは。


 俺のものだ。


 感情が強い。

 言葉にならない。

 イルノリアの首を抱く。

 彼女はシズハに身体を寄せる。

 牙を剥いてドゥームに唸る。

 シズハをきずつけないで。

 必死な彼女の言葉が届く。


「それだけ人懐こい銀竜だ。ひょっとすると片割れを持つ銀竜かもしれんな。――もう長年拘束していたとするのなら、そろそろ解放してやるべきかもしれん」

「違う……」

「……爺さん、いい加減にしてくれねぇか。話が進まねぇよ。シズハに関しては後でゆっくり話をしてくれ」


 アギの口調には苛立ちと、裏側に微かに同情が含まれている。

 彼はイルノリアを少しだけ見た。

 威嚇し続ける銀竜。

 普段の彼女らしくない、行動。


「まぁいい」


 ドゥームは話を変えた。


「お前たちの目的はなんだ」

「俺は爺さんの救出だったんだけどな。無事そうだから置いて帰る」

「そうかそうか、ならついでにお使いをしていけ」

「ンだよ?」

「女王陛下を救出してくれ」

「………お使いってレベルかね、それ?」

「どうせ黒竜をどうこうせねばなるまい? あれはお前らのモノだ。冥王が従えるべき虚ろな竜。空っぽ同士のお仲間だ。国中の人間を喰らってもまだ飢えを満たせずに空で暴れておる」


 イルノリアに顔を埋めていたシズハは、その言葉にゆっくりと顔を上げた。


「……国中の人間を……?」


 喰らった?


「ブレスで建物を壊し、出てきた人間を手当たり次第。そういう所じゃったな」

「……」


 言葉が出ない。

 気持ち悪い。

 酷い吐き気がする。

 イルノリアがいなければこの場に崩れてしまいそうだ。


 何だろう。

 頭の中がぐしゃぐしゃだ。

 訳が分からない。

 何だろう。

 まるで、自分が何人もいるように頭の中でざわめいている。

 辛い。

 苦しい。


 たすけて、イルノリア。



「……シズハ?」


 ようやく気付いたようにヴィーが呼ぶ。

 シズハはそれに答えられない。

 イルノリアに抱きついていた腕がずれた。

 身体が支えられない。


 床が近付く。



 意識を失いかけているのだと、床にぶつかる寸前に気付き。



 そして、意識が途切れた。

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