第10話5章・現在、死竜編


【5】





「――母さん」

「応接間で待っていなさい。お茶を用意しますから」


 台所で紅茶の用意を始める母の背に声を掛ける。


 家を出た頃と殆ど変わっていないように思える母の後姿。


 何を言うべきか迷い――沈黙する。



「………」


 母が肩越しにこちらを見た。

 何か言いたげに唇が開き、すぐに閉じる。


 黒い瞳が一瞬伏せられ――そして、キリコはシズハに向き直った。

 母は背が高い。殆どシズハと変わらない。僅かに、シズハの方が高い。

 

「――背が、伸びましたね」

「はい」


 母の手が伸びる。

 前髪に、触れる。

 軽く、前髪がかきあげられる。

 

 母の笑み。


「お父さんに似てきましたね」

「そうでしょうか」


 笑う。


「ヴィーには、似てないと言われました」

「ヴィー?」

「……そ、その、アルタット殿に」

「あぁ」

 

 キリコも笑う。

 瞳を細め、幾分、柔らかい笑み。


「貴方と少ししか行動を共にしていない人間には分からないかもしれませんが――シズハ、貴方はお父さんに似ていますよ」

「そうだと嬉しいです」

「ほら」


 キリコが笑う。

 頬に、手が添えられる。


「笑う顔はよく似ています。目元が似ているのでしょうね」


 頬に当てた片手。

 もう片方の手も、当てられる。


「シズハ」

「はい」

「お帰りなさい」



 柔らかい、声。



「よく――無事で帰ってきてくれました」


 ゆっくりと笑う母の瞳は優しい。

 その瞳が既に涙で潤んでいる。

 母は本当によく泣く人だ。

 哀しい時は勿論、感情が高ぶった時も、楽しい時も――そして、嬉しい時も。


 自分がつい涙を抑えきれないのは、母に似たのだろうと、シズハは思う。


「――母さん」

「はい?」

「色々とご迷惑を掛けました」

「迷惑?」

「何年も帰らなかった事も――騎士団を辞めた事も」

「もういいのです」


 母は笑う。


「貴方は無事で帰ってきてくれました。それで、もういいのです」



 母は名残惜しげにシズハの顔を撫でてから手を離した。

 自分が泣いている事にようやく気付いたのだろう。

 照れ臭そうに微笑んで、目元を拭った。



「また私ったら」


 本当に照れているようだ。

 シズハに背を向けてしまう。

 紅茶の用意を始めながら、キリコは話し出した。


「もう、何処かの騎士団に属する必要もありませんよ」


 軽く、肩越しに振り返る。


「母さん、調べてみました。――銀竜乗りの人で、医者のような事をしている人も居るそうです」


 笑み。


「まだイルノリアは幼いですが、将来的に重い病を癒す事も可能でしょう。そういう仕事も、良いものです」

「……」

「暫くは家に居なさい。父さんもまだ忙しくてなかなか家に帰ってきてないのです」


 正直、少し寂しいですから。


 キリコの笑みに、シズハは思わず視線を俯かせる。


「シズハ?」

「母さん――俺」

「……どうか、したのですか?」


 キリコの瞳を見る。


「もう少し、旅を続けさせて下さい」

「……あの勇者と共に旅をしたい、と?」

「はい」


 キリコの返答は。


 呆れたような、ため息。


「貴方が勇者の従者に相応しい人間だとは、母さん、思えません」


 シズハ、と名を呼んで。


「貴方は人に刃を向ける際に迷う。一瞬だとしても、刃が迷います。――そのような迷いのある刃で、命を賭ける戦いをする方の傍に仕えるなど、失礼にあたります」


「癒しの魔法だってそうです。イルノリアならまだしも、貴方の魔法はまだまだ修行の余地はあるでしょう」


 キリコはもう一度シズハを呼んだ。


「考え直しなさい」

「母さん」

「勇者が旅をしている以上、何かがあるのでしょう? 勇者の力が必要になるような危険が?」

「……」


 シズハは沈黙。

 キリコはゆっくりと息を吐く。

 僅かに伏せられた黒い瞳は既に濡れていた。


「勇者の従者ならば、なるべき人が沢山居るでしょう。どうしてわざわざ貴方が立候補するのですか?」


「子供が自ら危険な場所へと踏み込もうとしているのを、母として、認められません」

「でも、母さん、俺は――」


 俺は。


「……俺は、アルタット殿と一緒に行きたいんです」

「どうして?」


 どうして?


「分からない……分からないので、だからこそ、一緒に行きたい」

「……母さんは意味が分かりません」



「貴方は何を欲しがっているのですか? ――それは、勇者でなければ貴方に与えられないものなのですか?」

「……」

「それも分からないのでしょう?」


 ため息。


「貴方は……自分が分からなくなっているだけです。憧れの人の傍に居れば、その人になれると思っているのですか? ありえません。貴方は貴方。勇者は勇者です」


 それに――


「勇者は貴方が傍に仕える事を許しているのですか?」

「それは……許可を貰いました」

「……」


 キリコは視線を上げる。

 入り口側へと。



「そうなのですか、アルタット様?」

「――うわ」


 台所のドア。

 その陰から、驚いたような声。


 まず見えたのは黒猫の顔。

 続いたのは、困ったような顔のヴィーだ。


 二人は顔を見合わせる。

 アルタットが鳴いた。

 ヴィーはひとつ頷いて、キリコを見る。


「許したよ」

「その許可を取り下げて頂けませんか」

「母さん!」


 うーん、とヴィーは腕を組む。


「おかーさんの頼みでも、それは、ねぇ。俺たちはシズハに頼まれたんだよ。傍に居させてくれ、って」


 だから。


「シズハが一緒に居るのが嫌だって言うのならまだしも、おかーさんに幾ら言われても、俺たちは許可を取り下げなんてしないよー」

「シズハのような従者が役に立ちますか」

「おかーさん」


 ヴィーが笑う。


「ひとつだけ、言っておくね。――勇者アルタットは従者なんて存在を持たない」


 


「アルタットが一緒に居るのは、仲間、だけだよ」



 キリコは沈黙。

 何か信じられないものを見たように、ヴィーの笑顔を見ている。


 やがて、彼女は口元を引き締めた。


「シズハを仲間と言って頂けるのは嬉しいですが、それでも、実の息子を危険だと判断される場所に送るのは――出来ません」

「守るよ。シズハの力が足りない場所があれば、守るよー。おかーさん、心配しなくても大丈夫だよー」

「守る、と仰って頂いても」


 視線に力がある。


「私は、アルタット様の力を存じておりません。大切な息子を預ける訳には参りません」

「………えーと?」

「お手合わせ、願えますか」

「……戦えって、言うの?」

「はい」


 キリコは真っ直ぐにヴィーを見る。


「私にも勝てない方にシズハを預けられません」

「……ふぅん」


「母さん、俺はもうアルタット殿たちと行くって決めたんです。余計な口出しはしないで下さい!」

「無理にでも行くと言うのなら、力ずくでも止めます」


 キリコはシズハを見る。


「命がけでも」

「………」


 本気の目の色に、思わずたじろぐ。


 ヴィーはまだ腕を組んだままキリコを見ていた。

 やがて大げさに肩を竦める。


「俺が相手で、いいのー?」

「えぇ、貴方様で」

「……しょーがないなぁ」


 慌てたのはシズハだ。


「ヴィー、あの」

「いいよ、おかーさん、本気みたいだしぃ。此処で逃げても、徹底的に追いかけて来そうだよ」


 瞳を細め、キリコを見る。


「息子可愛さに頑固になっちゃってるみたいだからぁ。ヘタに追い掛け回されるよりも此処できっちり話を付けておいた方が後々楽だよー」

「……随分な事を仰いますね」

「事実じゃないー? 成人した息子がやる事に此処まで口出す必要、本当は無いでしょ?」

「………」


 ヴィーは猫のように笑う。


「おかーさんの気の済むようにしてあげる」


 だから。


「武器、貸して貰えます?」


 

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