8話 心の瞳

「あら? やっぱり足りなかったわね」

「ごめんね、母さん」


 昼食とクッションの材料で早々に小遣いを使い果たした俺を、母さんはとがめる事は無かった。母さんに、これから昼食は家から持って行きたいとお願いするとにっこり笑って快諾した後、再度銀貨3枚を小遣いとしてくれた。今度こそ、しっかりと財布代わりの小袋に入れて鞄にしまう。


 それにしても……食堂のランチは美味かったな。3倍金を出せば3倍美味いものが食えるって訳じゃないけどさ。牛丼屋に入ったと思ったら銀座のランチだった……みたいなんでびっくりしちゃったけど、金をとるだけの味であったのは確かで。学校の連中が普段何食べてるんだかわからないが……ああいう世界もあるって事だ。ヘーレベルクの安くて美味い屋台とかならお客さんから良く聞くんだけどなぁ。


 この日からノートを入れた鞄の他に、昼食のサンドイッチを詰めたバスケットが荷物に加わった。リタさんのパイが残った日はそれも入っている。でも汁気のあるおかずが持って行けないのが物足りない。


 俺のクッションはラウラとソフィーが学校で作ってくれているらしい。らしい、というのは……。


「ソフィー、どのくらい出来たのか見せてよ」

「だめー。できてから!」


 と、ソフィーが進捗状況を教えてくれないからだ。しかたなく、前の席の生徒の頭の隙間から教壇を覗く日が続いている。リタイアしたご老人の講演会では、必要なのは主に耳だからそこまで不都合が無いのが救いだ。


 さて、今日からそんな講演会な授業と違う科目が始まる。


「今日は、とうとう作法の授業だね」

「とうとう、ってなんだよ」


 アレクシスは呆れた顔をした。ふん、俺は楽しみにしてたんだよ。なんたって女の先生だからな。そもそも俺の日常に妙齢の女性と触れ合う機会はそんなにないんだぞ。実年齢で釣り合う女性で言うとユッテとかになってしまう。……俺はロリコンじゃない!


 授業の前にクラスメイト十数名でゾロゾロと教室を移動する。理科室? 家庭科室? まぁなんでもいいけど、そういう専用の教室があるそうだ。廊下を抜けて扉を空けると、白いクロスをかけた丸テーブルを配置した部屋が現れた。


「皆さん、ようこそ。アデーレ・トラウトナーと申します。皆さんの作法の授業を取り行いますのでよろしくお願いいたします」

「よろしくお願いいたします!」


 全員礼儀正しく、かつ勢い良く返事した。と、いうのも……講師のアデーレ先生は、ちょっととうがたってるかなという感じだが……豊かにウェーブした黒髪の、スレンダーな美人だったからだ。一言で言おう。なんかエロい。地味な暗い色のドレスがまたいい。


「……当たりだ」


 横にいたアレクシスがぼそっと呟いた。代弁ありがとう。


「それでは、各テーブルに別れて席について下さいね」


 鈴のような声に促されて、皆ばらけていく。一テーブル4人ほどのグループになって皆が席についたのを確認すると、アデーレ先生は部屋の隅にあったワゴンを部屋中央へ持って来た。


「今日はお茶の淹れ方をお勉強しましょう。まずは私がお手本を見せますね」


 そう言って笑顔でティーポットを掲げた。皆、真剣に……必要以上に真剣に、その手つきを見つめる。茶器を温め、茶葉を淹れ、並べられたなんだかよく分からない道具を駆使しながら流れるような手さばきでカップに黄金色のお茶が注がれた。温かく、かぐわしい香りが室内を満たしていく。


「さぁ、以上です。淹れ方は後から細かく教えますからまずは味を見てください。皆さんどうぞ」


 その声と同時に、部屋の奥の扉から三名の女性がトレーにお茶の入ったカップを持って入ってきた。横で見ていた訳でもないだろうに、絶妙なタイミングだった。カチャリ、カチャリとそれぞれの生徒の前にカップが並べられる。


 湯気の立つカップを持ち上げ、口をつけるとまるで花のような香りと香ばしさの後に、苦みとほのかな甘みが口に残る。これがお茶だとすれば、うちで飲んでいるお茶は色の付いたお湯だ。


「さ、それでは細かく手順を教えますので実際にやってみましょう」


 アデーレ先生は、もう一度手順をゆっくりと説明を繰り返しながらお茶を淹れた。俺はその手順をメモしながら聞き入った。その後に続いて、各テーブルに用意された茶器を使って一人ずつお茶を淹れていく。


「どうです? ああ、茶葉の分量はきっちりと。多ければいいものではありません」


 先生はテーブルを周りながら、各自の手つきを指導して回る。そして、とうとう俺の番がやってきた。椅子から立ち上がり、チラチラとメモを見ながら取りかかる。まず、ポットにお湯を入れて……お湯を……テーブルが高い。つま先立ちになりながらお湯を入れてカップも温める。


「茶葉はきっかり二杯……」


 専用のスプーンで小さな壺に入った茶葉をすくう。う……さすがに足がきつくなってきた。ぐらついてしまい、パラパラと茶葉がこぼれた。


「ああー」

「あらあら、大丈夫?」


 後ろから、アデーレ先生に声をかけられた。


「すみません、背丈が足りないみたいです」

「そう、じゃあこれでどう?」


 先生は俺の脇の下に手を入れた。そのまま一気に持ち上げられる。意外と力持ち!……じゃなくて、これは恥ずかしい!


「いや、あの……」

「さ、早く。茶葉を入れたらお湯を注いで。そう、ゆっくりね」


 首筋にアデー先生の髪が触ってくすぐったい上に、背中に柔らかい感触が……なんだかいい匂いもするし……幸せな状況のはずだが……格好がさぁ……。俺はまるで猫の子のようにプラーンと持ち上げられた状態のままお茶を淹れ終わった。


「ありがとうございました……」

「いいえ」


 顔が熱い。見ればアレクシスが唇を歪めて震えている。必死で笑いを堪えているようだ。ちくしょう。


「ちぇっ……味見をどうぞ」


 味見用の小さなカップをテーブルで回す。うん、最初に飲んだお茶には遠く及ばないけれどきちんとした手順で淹れたお茶は美味しかった。帰ったら、家でもお茶を淹れてみよう。全員がお茶を淹れ終わったのを確認して、アデーレ先生は部屋の中央に立った。そして、ぐるりと皆を見渡して言った。


「さて……今回皆さんには、お茶を実際に淹れて貰った訳ですが……手順を細かく覚える必要はありません」


 えええ? しっかりメモして家でも復習するつもりだったのに。


「あの! 質問いいですか?」

「はい、どうぞ」

「手順を覚えなくていいと言うのはどういう事でしょう」


 アデーレ先生は俺の質問に微笑むとこう続けた。


「皆さんには、他に覚えていただきたい事があるからです。まず、味。きちんと淹れられたお茶の味を覚えて下さい。手順は正確でなくても構いません。流れを覚えてください。皆さんはお茶を淹れる側ではなく、お茶を出される側なのですから」


 そうか……以前、うちに来たジギスムントさんがお茶を一口飲んで眉を寄せていたのを思い出した。


「お客様に対して、しっかりとしたおもてなしができる相手なのかを見極める指標になります。また、逆の立場の場合はそのような場面で粗相のないようにいたしましょう」


 ……めっちゃ粗相をしてました。俺は手元のメモに目を落とす。他の生徒は別にそれでいいかもしれないけど、うちは宿屋だ。やっぱりうちでも練習しよう。




「という訳で、学校でお茶の淹れ方を習ったんだよ」

「あら、美味しい」

「上手に出来たねぇ、ルカ君」


 帰宅後、夕食の仕込みをしていた母さんにリタさん、それからユッテにお茶を淹れた。やっぱり元々の茶葉のお値段が違うのか、学校で淹れた様にはならなかったが、それでも今までよりずっと深い味のするお茶になった。


「ルカ、あたしにも教えてくれよ」

「いいよ! えーっとね……」


 ユッテに手順を説明する。作法の授業は、うちの宿にとって最も有意義な授業になりそうだ。……あの格好は恥ずかしかったけどな!

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