来栖家の大変な時期

 来栖海の問題がまたしても激しく、それも突然に発生したのは、彼女が高校生のときだった。


 小学六年生に社会適応指導教室を「卒業」した後、彼女はおおむね安定していたようだった。小学校の人間関係をリセットしようとしたのだろうか、同じ地区内だが電車を乗り継いで行く少し遠い公立中学に進学した彼女は、すくなくとも小学校時代よりはずっとうまくやっていたようだった。

 相変わらず、わがまま、自己中心的、感情的、といったネガティブな評価も貰っていたが、同時に、ユニーク、ユーモアがある、おもしろい、笑顔がいい、可愛い、一緒にいて楽しい、といった評価が、花咲くかのようにぶわっと増えている。彼女の小学校時代には見られなかった傾向だった。

 暫定的な社会評価ポイントも、ぐっと上がる。中学時代の記録を見る限り、彼女は、彼女の姉の空のように、このまま美徳でもってしてやっていけるかと思われた。すくなくとも、……記録だけを、見るならば。


 高校は、そこそこの公立に進学。普通科ではなく事務科に進学し、早ければ高校卒業後の就職、その後進学をした場合でも就職活動で有利になる道を選んだのだと、そう思える道だった。

 ちょうどこの時期は、空が専門大学の二年生から三年生に上がる時期と被り、現実を見て就職し、立派な成人になれる道を模索する姉に、影響を受けたようにも思われた。



 しかし、海は高校一年生の五月、唐突に言い出す。

 アイドルになりたい、と。

 そのために、高校を中退したい、と。


 いわく――高校なんかいくら行っても、お兄ちゃんのようになるだけだから、無駄だ、と。



 空が大学三年生、海が高校一年生の年、春は順当にいけば大学一年生だったはずだが、そうはならなかった。

 よっぽどこの時期来栖家は大変だったのだろう。

 瑠璃は様々な専門機関に相談に行ったらしく、記録が、壮絶なほどに多く、詳細に残されている。ただでさえ行動履歴や人生の履歴は記録されていく世の中だが、自ら相談に出向いたとなれば、それはもっともっと多く詳細に記録されパブリックなデータとしても蓄積され公開される。


 その時期。来栖春は、記録によれば学校での「身の程知らずな判断・選択による当然の帰結」として、集団のなかのでの劣等性に相応の扱いを受けた上に、大学へもストレートに進学できなかったらしい。


 前にも寿仁亜は彼のデータを見たが、来栖春はけっして目立って劣等なほうではなかった。中学のときには半分より上の成績をいつも取っていたらしいし、進学した高校は、姉よりも妹よりも上位にランクされるところだった。

 ……ただ春は、中学のクラスでは「ガリ勉」などと、オールディすぎて一周回って最近また使われるようになった評価を受けていたらしい。効率よく勉強のできるタイプだったわけではなくて、なんとなく他人とうまくやれなかったから、その代償として自分の価値を確保するために勉強に集中していたタイプだったらしい。

 そしてそこまで集中していたわりには、悪くはないがぱっとしない成績だったところを見ると、もともとやはり、優秀というわけではなかったのだろう。だれだって、ほかのものを投げ捨てて集中すれば、そこそこのところまではいく――そんな極端なことをしなくても、余力をもって趣味にも打ち込んで遊んでいても、それなりを保てるのが優秀者だ。なにより超優秀者であればそこまでの時間をかければもっともっと高みに、頂点に達しているはずだから。

 中学のときの春は同時に、やはりコミュニケーション能力が低いとか、他人をすぐに見下した言動をとるとか、あまりよくない評価を受けていた――その代わり、そこそこ勉強をしてはいるらしい、という評価が彼を最低限つなぎとめていた。……他人をすぐに見下す、というのは、大学の彼からするとちょっと想像がつかなかったが、まあ、……それはまた考えればいい、と寿仁亜は思った。

 いま大事なのは、春の、海に対する影響だ。


 ほかをすべて投げ捨てて、受験だけにおそらくは専念して、来栖春はそれなりに良いと言える公立高校に進学した。

 そして、案の定そこであまり勉強についていけなくなった。勉強ができる、というのは相対での話だ。同程度以上に勉強のできる人間たちに囲まれて、彼はもはや、勉強ができるという評価を受けられなくなっていた。それなのに態度は変わらない。……彼の暫定的社会評価は下がる一方だった、うまくやっている姉とは、だんだん比べものにならなくなりつつあったほど。


 そこで、地道にやっていけばよかったのに。あるいは、自分はもう良いとこ標準なんだという自覚をもってして、社会性をもって周りと関わればよかったのに。

 どうやら研究者志望クラスという、そこそこ良い高校のなかでもトップクラスの成績を取れる人間だけが集まって、いちばん上はなんと国立学府を目指すのだという――そんなクラスに、入ってしまったらしい。


 ……それが彼の人生を歪めた。

 そして、歪んだのは、もちろん春本人もそうだったろうが、……春だけでは、なかった。



 妹の海にも、その影響は、ダイレクトにいった。

 

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