社会適応指導教室
来栖海。
幼少期の彼女の暫定的社会評価はあまり高くない。いわく、わがまま、自己中心的、思いやりに欠ける、他の子たちと仲良くできない。
学齢期になると、その評価は良くなるどころか逆に悪くなり、更にかんしゃく持ちであるとか、協調性がないというものが入ってくる。学校でよくトラブルを起こしていたらしい。そのたびに母親の瑠璃が学校に行って、頭を下げて謝っていた、瑠璃がきちんと指導をするからということで様子見になったとあるが――それは逆に言えば瑠璃がきちんと親としての対応を見せなければ、つまりは一歩間違えれば、更生施設送りだったということだ。場合によっては、……そのまま人間未満堕ちもありうる。
学生時代におそらくは美徳をもってして社会評価ポイントを上げてきた姉の空とは、対照的だった。
社会評価の厳しいこの世の中でもまだ、幼い子どもに対しては多少の猶予を与える。優れた人間にはなれなさそうに見えた子どもが、ある日急に開花して、そのまま優秀者への道を歩んでいくのは珍しくないからだ。
社会資源としての、リソースとしての子どもに期待し、猶予を与える。
とくに、子どもの能力に対しては保留するケースが高い。発達にはスピードの差がある。もちろん、社会への貢献という観点からすれば早ければ早いに越したことはないのだが――多少は遅咲きであっても、優秀な人間の能力を見逃して潰すのは惜しい。そのぶん、社会の進歩が遅れるわけだから。
もっとも、それは幼いころだけの話だ。
基本的に、十歳を過ぎるくらいになってくると、能力の差でも容赦なく切られるようになってくる。たとえば――小学校を卒業できず、そのまま人権を奪われる者というのが、少なからず存在するように。
だが、社会性に対しては十歳に満たない幼いころから、厳しい。
ほんとうに厳しい。
社会的であることがなにより重視される世の中で、社会性がないというのは、相当な難点として見られる。
社会性がなくて許されるのは能力に秀でている場合のみだ。
他人をいくら蹂躙してもなお、たとえば学年に百人いたとして他の九十九人が潰れたところで彼ら九十九人が成せる結果を残せるようなひとりであれば、もはや社会性はたいして問題にされない。その人間は他の人間を踏みつけ潰すことで、高い能力とそれに応じた重圧に対するストレスに対応しているのだろうと、だったら、仕方ないということで済まされる。九十九人ぶんが取り返せるように、もっとこれから頑張ってね、と。そしてその努力というのは、飛び抜けて優秀な人間にとっては取るに足らない努力だったりする。
寿仁亜の周囲はほとんど、そして寿仁亜自身もそのライン――つまり社会性がなくとも許されるラインにいたので、ついつい忘れてしまいがちだが、社会性がなくてよいというのは即ち優秀者の特権でしかないのだ。そのレベルまでくればもう、社会性をもつかもたないかというのは個人の趣味、よくて人生哲学ということになる。
寿仁亜は、キラキラした愛想の良いまるで古代の王みたいな人間に、なりたかった――だから自分より下の者に対しても愛想や礼儀を忘れなかった。あたかも、古代の王が民を大事にするかのように。王は民より上位かもしれない。しかし王は民を必要とする。寿仁亜が思うにそれは、民が自らより上の存在であるから、ではもちろんなく――民は、どこか秀でたところが必ずあるはずだから。すくなくとも、なにか能力をもっているはずだから。
当然ながら。人間はなにかの専門家にはなれても、この世に存在するありとあらゆる専門性を極限まで高められるわけではない。ではそれをだれが担当しているかというと、自分以外の他者だ。
自分の専門性は、奇妙なことに、他者の専門性の上に成り立っている。
それは幼き、若きころからの依城寿仁亜の実感だった――なかなか、わかってもらえることはなかったが。大昔、公立の学校で一緒だった、どちらかというと劣等者といえるひとびとには自身の立場を確保する論理に思われたらしく、ずいぶんとその通り、その通りだ、と言われたりもしたが、自身とほとんど同等のレベルの相手にはむしろ、劣等者を保護する論理だね、と呆れられ、理解されなかったりもした。
……しかし、確かに、実際問題、と寿仁亜は想う。
優秀ではなく、劣等、あるいは普通の人間が、社会性を無視するというのは――人権の危機だ。自分の能力もわきまえられず、社会での役割、立ち位置もわきまえられない、ということになるから。
来栖海はどうしても、どうしてもどうしてもどうしても周りとうまくやれなかったらしい。
成績は普通、いや、どちらかといえば低かったらしいのに。他になにか秀でたものがあるわけではないのに。スポーツとか芸術とか、いくつか手を出したらしいが、すぐに飽きてやめているようだった。せいぜい数週間、もっても数ヶ月で。
彼女は子どものころ、とても若いころ、なにももっていない人間だったようだった。
加えて、社会性までもっていない――学校との約束で、瑠璃は娘である海を社会適応教室に連れていかざるを得なくなったらしい。公的な記録に残るような約束には拘束性がある。契約と同等だ。瑠璃は、したいしたくないに関わらず、そうせざるを得なかったのだろう。
施設ではなく、適応指導教室であれば、ギリギリセーフだ。通っていたという履歴はこうして残るが、施設に入所したわけではないということは、他の子どもたちと同様の学校生活と家庭生活をまあ送れていたとみなされるから。
海の、週に一度、イベントごとなどがあると週に二度や三度になる社会適応指導教室通いは、彼女が小学校二年生の春から六年生の秋まで、続いた。そこでいったん、社会適応の可能性あり、とみなされて解放されたらしい。
……適応指導教室通いはギリギリセーフとはいえど、あまりおおっぴらに言うようなものでもない。だから、海の適応指導教室通いを、父親の咲良はともかく、空と春が知っていたかは――わからない。
空も春も、海はわがままだと……言っていたらしい、という記録は残されていたけれども。
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