最強の世界平和

 鞭を打たれているかのようだ。ジュウジュウと。ビタビタと。焼ける鞭で打たれているかのようだ。熱湯でも混ざっているのかもしれない。熱、というのはあながち間違いでもないだろう。暴力を受け続け擦り切れ、ただでさえ、空気がふれてさえ痛む傷口は、塩を塗りつけることで、塩が広がりジュッと痺れるような耐えがたい感覚が広がり、塩が溶け込むことでそのただでさえ耐えがたい感覚が密度と濃度はそのままにただただ、広がっていく。肌の表面にも、もっと骨に近い皮膚の奥にも。


 ごく控えめに言って。塩はなぜ傷口と相性が悪いのだろう。こんなにも。ここまでも。僕にはそのメカニズムはわからない。化学物質と化学物質が合わさって、なにかが起きてはいるのだろうけれども。南美川さんに聞けばわかるだろうか。南美川さんは、頭がいいから。専攻は生物学だっただろうけれど、生物以外の勉強だってよくできていた。いろんなことを知っているから。僕は頭が悪いから。


 痛むように、人間はつくられている。痛みなど消えてしまえばいい。不必要な機能だと、とことん思う。肉体的なものにしろ精神的なものにしろ。

 痛みを感じるのはなぜだろうか? それも、頭の悪い僕にはわからないけども、人間が生き残るためなのだろうか。痛い、と主張する。すると痛んだところは治されなければならない。ほかのなにを差し置いても真っ先に対応しなければならない。


 もしかしてだが、痛みというのは、治される前提の機能だったのではないだろうか。しかしそれにしては、生物全体を見回してもけっしてうまくはできていないのかもしれない。痛み、という機能に期待されるほどの結果は、生物の生きるなかで生み出されなかったのかもしれない。

 僕のよくはない頭では、わからないけれども、けれど痛みが適切に対応され痛まなくなったケースよりも圧倒的に、痛みがどうにもならなかったケースのほうが多いのではないか?


 狩られるとき、捕食されるとき、生物の身体は痛みに満ちているはずで。人間のことを考えても、人間未満と判定された後ミンチにされる瞬間や、たとえ人間のままだって耐えきれなくなって自分で自分の命を絶つときには心が、痛みで満ちているはずだし。



 痛みがどこかで停止する機能をつくってほしい。そんな機能があったら確かに生物は、人類は繁栄しなかったかもしれない。

 けれどもそれならそれで、よかったじゃないか。地球は静かだった。優秀か劣等か決まることもないし、いじめもない、人間未満と人間の区別もない、……人間でいることにしがみつく必要もない。最強の世界平和じゃないか。



 そんなことを考えるほど――率直に言って、僕は参っていた。



 その手を止めてほしいんだ。傷口に塩を塗り込む手を。そんなにたっぷりと、つけなくていいじゃないか塩をまるでクリームのようにさ。そんなにたっぷりじゃなくたって充分痛いよ。そんなにあればもっと痛い、ああだから、……たしかに手にたっぷり塩をつけるのは正しいか。うん、頭がいい、……僕なんかにはやっぱり、人間でいられる人間の考えることはよく、わからないのかもしれない。

 だからいじめられたんだよな。そう。だから、いじめられた。いじめられるのには理由がある。いじめられるほうになにも非がない、なんて言えるのはほんとうは人権をきちんともつに値したケースだけだ、いじめられるほうには非があるよ、……あきらかにこちら側に理由があってありがたくもいじめていただいた僕が言うんだから間違いないよ、なんて、……意味のない劣等者のマウントを取ってみたくなる。もっともっと僕より下の存在なんて、いるのかな――たぶん、いない。たぶんその世界は底辺と呼ばれるところで、人間未満は底辺で、……僕は人間未満に値するのに人間のふりをして生きているのだからもっともっと、最底辺なのかもしれないよな。



 だから、人生でいちどならずこうやっていじめられているんだろうしね。わかっているよ。いまさらすぎる。……忘れていた僕が、悪い。



 考えようによっては、この痛みは、……いますぐ逃れたいほどそばにある圧倒的で生々しい痛みは、僕への罰だと、……人間のごとく生きていた面の皮の厚い傲慢な僕への、罰なのかもしれないよな。そんな考えかた。ばからしいって、人権をちゃんともっていれば笑えるのだろうか――やっぱり人間というのは素晴らしい存在だ、すごい、存在だ、……僕はそんなことはこれからけっしてできないだろう、だって――僕は人間じゃないって、……十七歳から十八歳のあの時間ですでに、証明されてしまっているのだから、南美川さんは親切にもそうとてもとても親切にも、……僕にそのことを教えてくれたのだから、身体と心に刻みつけて、けっして忘れるなと、プレゼントしてくれたのだから……。



 ――思考が。

 おかしくなっているのかどうかさえもう自分では、わからなくなりつつある、これこそがふたごの思うツボなのか、そうなのかもしれない、でも一方でこう思う自分もいるんだ、




 僕にはこんな扱いがやっぱり――適当だった、相応しかった、と。

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