口にする

「あー、不味い。もういいや、食べれない」


 婚約者どの、いや、……真の前には、垂直に削られたショートケーキがぐちゃぐちゃになってイチゴやクリームの断面を晒している。まったく、大事に食べなかったことはたしかだった。


「狩理くん、片づけといてねっ」


 それは、いまどき珍しすぎるほど社会とうまくやれてなさそうな、純朴で、一生懸命で、ひたむきで、うざったい、……自分なんかに見返りなく特別なイチゴをくれる彼女が、おそらくはおなじくらいに、純朴に、一生懸命に、ひたむきに、……うざったいほどのまっすぐさで、考えて考えてつくり上げたスペシャルなショートケーキの、はずなのだ。


 狩理は笑顔で言われたことに従った。こういうときに、狩理がケーキを食べる権利はない。


 真と化はソファに移動し、ふたりで仲よさげに肩を並べて、来栖春と、……幸奈と遊ぶための作戦を話し始めた。少しばかりの抵抗を食らっているようで――可愛いねえ、と化は喜び、まじめに考えてよねえ化、と真は何度も唇を尖らす。

 おちょくっているとしか、舐めているとしか思えない。公園事件を最後まで彼らの意図通りにやるだけであれば、狩理にだってわかる、不必要なプロセスがあまりにも多い。――相手の力量よりこちらが遥かに上回ると承知しているからの、所業だ。

 しかし、それこそが彼らのまことの意図なのだろう。彼らにとってこれは遊びで、ある意味では、究極のアートだ。遊びもアートも社会評価が重視される世の中では要らない。でも彼らはとびきり優秀だから――不必要な遊びもアートもできる、そういう立場なのだろう。



 狩理は黙って片づけをする。そこに居ない者のように。

 ショートケーキの残骸の載った銀の皿を下げ、ダイニングテーブルを拭き、食器を洗い、ゴミを捨てる。……ぐしゃぐしゃに殺されたイチゴが詰まっている、プラスチックのパックも流しに移す。



 真と化の話が肩をくっつけたひそひそ話になるころ、真の提案で彼らは二階に移動した。……彼らは恋人どうしではないはずだが、いつもこうやって、世界で一番ラブラブな恋人どうしなのではないかと思わせるような行動を取る。ふたごとは、はたしてそういうものなのか――ふたごのきょうだいどころか、近親者などすでにいない狩理にとっては、……はかり知れないことだった。



 モノクロのリビングは、急に静かになる。

 静音性にすぐれたこの部屋は、冷蔵庫の音も時計の音も、劣等者の部屋のように響きやしない。ただ――しいん、と鳴る沈黙だけがある。むかしから、お馴染みの沈黙。



 狩理は、ふたりがもう階下に降りてこない気配を確かめたあと、……そっと口づけをするように、銀の皿を持ち上げて真の食べ残したスペシャルショートケーキを食器も使わずそのまま食み、食べ終わると、プラスチックのパックを持ち上げてイチゴの残骸をすべて啜って食べた。

 勝手に、フォークやスプーンを使っては怒られる、ばかにされる――むかしから南美川家で自由のなかった彼の、それは当たり前の感覚だった。だから、当たり前のように直接口づけて食んだ、啜った。


 行儀が悪いのは百も承知で、それを言ったらそもそも食べ残しを口にするなんてと怒られて、ばかにされるだろうが――そこをクリアしてでも、狩理は、スペシャルなショートケーキとスペシャルなイチゴを、そのまま生ごみとして捨てたくはなかった。



 食べ残しのスペシャルなショートケーキはたしかに思ったほど目新しくもなく甘ったるい味で、イチゴは甘ったるい汁からたしかに糖度は高いのだろうと思わせたがさすがにぐちゃぐちゃなので味がわからず、つまりはどちらもとりわけ美味しくはなかったはずなのだが、これであの店員の厚意をまだ自分は掬い上げることができた、ほんのすこしであっても、わずかであっても、微々たるものであっても自身の手で掬い上げたのだと――南美川家ではいつも最上級の緊張と気配りを強いられている彼にとってはそれは、普段はない、……劇的な、ことだった。



 あの店員に、感想を言おう。どう伝えようか……とびきり美味しかったとは言えない。でも、……甘い味がした、とは言える、甘い味でやっていきたいのかと問うこともできる――まぶしさをすこしでも取り戻したい。……店員アンは、けっして優秀ではなさそうな、知り合いとも言えない、どこにでもいそうな女のひとりに過ぎない。

 ただそれだけの彼女がどうしてここまで気になるのか――狩理はしばらくのあいだキッチンにたたずみ、数十分ののちキッチンを完璧に片づけきれいにして、……自分自身の実際の住まいであるボロアパートに帰るまでも、帰ってまでも、自問自答をしつづけた。

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